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Web3アクセラレーター・アリーバ社をシンガポール拠点で立ち上げた経緯と実際に移住してみた今

5/25にシンガポールに渡ってからはや1ヶ月が経ちました。

こちらにきてお会いする人に自己紹介をしたり、事業の説明をするときに同じような話をするので、移住して一ヶ月経ち、良い機会なのでこれまでの経緯をまとめてみることにしました。

インターネット黎明期の時代

1999年のクリスマスイブの日の夜。

当時大学院生だった25歳の僕は仲の良かった女友達と、ご飯を食べながら興奮がてら話していました。

「今日とんでもない人に出会ったよ。これからはインターネットではなくてモバイルインターネットの時代が来ると確信した。」
「へー、でなんで?」
「PCインターネットは、決済とラストワンマイルのUX/UIがないけど、モバイルインターネットにはそれがある。一人一人個人が別々の端末をもち、インターネット接続人口が急増し決済利用額も急増する。そしてそこに大きなうねりを伴って既存資本が押し寄せようとしている。」
「通信キャリアがそれを3G転換への本丸として後押ししているのもでかい」

何の話かというと、当時リクルートを退職しようとしていた千葉さん(その後サイバードを経てコロプラの副社長となり現在はエンジェル投資家として著名)に仕事上出会ったのでした。

imodeをトリガーとするインターネット業界の地殻変動が起ころうとしていることを彼から聞いた話で直感で感じたことをただ話していました。

それまでのインターネット業界は、20万円近くするPCが必要で「無料」でサービスが利用できるということ以上に付加価値がない時代。

ECなどの利用も少しずつ拡大していたけれど、ネットバブルと呼ばれる時代に差し掛かり、バブルが崩壊すればいつの日か誰もインターネット上で事業なんて考えなくなるとも言われていた時代。

インターネットはやれ虚構の世界だ、水商売の世界だ、と自分の両親は言っていました。

正直、既存のメディア業界はネット業界にひっくり返されるわけもない、あぐらをかいているような時代だったと思います。

コンサバな性格でもある自分はそこ(決済とファーストアクセス、いわゆるライトワンマイル)がずっとひっかかっていたけれど、それを解決したモバイルインターネットこそがこれからの時代を切り開くのだと確信した自分的には記念日だったのです。

一方でモバイルインターネットは、課金ができる、PCインターネットのサブセットとして発展します。

僕はそうではなくて、PCインターネットとモバイルインターネットの力学関係が完全に逆転する時代がやってくると確信していました。動画もPCではなく携帯電話から見られる時代がやってくる。

当時モバイルインターネットは端末の性能や通信料金の体系から、そんな話はだれも信じてくれなかった。課金に毛の生えた「着メロ」がDLできるサービスぐらいな認識しかもってもらえなかったのです。

そこで僕はGoogleが一向に開発しそうにない、モバイルインターネットに特化した検索エンジンを作ることにしたことが全ての始りでした。

Web3黎明期の時代

それから、2社ほど会社のEXITや上場を経て、2015年に再度起業して、その会社で僕がWeb3の仕事をするようになったのは今から4年前、2018年の春の頃。

当時はまだweb3とは言わずDAppsと呼んでいた時代に、2015年に起業したスマートアプリ社(現SBI NFT社)にて、僕はブラウザウォレットを立ち上げようと画策していました。

僕が昔役員をしていたモブキャストの元同僚で上野さんと玉舎さんが、  double jump.tokyoを創業しゲーム開発に勤しんでいる頃。

外部から資金調達をしてスタートアップをしていたのは、取引所のライセンスに関連している企業以外は、若手のプレシード期のスタートアップ数社を除き、彼らと僕の会社ぐらい。

当時は世界中でさまざまなブロックチェーンゲームの企画が立ち上がり、プレセールが行われるも、多くが撤退していき、エンドユーザー・サービスディベロッパーともにバハ抜きをしているかのような時代でした。

当然ですが、誰も見向きもしてくれない時代。総論賛成・各論反対。

砂漠に木を植えてどうするんだ、という感じで周りのネット業界の人たちやVCの方々に嘲笑されているのがよく伝わってくる時代。(そんな方々が、朝令暮改な感じで笑顔で皆この分野にやってくるのだから不思議なものです)

黎明期なんてそんなものなのかもしれません。

NFT勃興期からWeb3へ

その後2019年の秋に、僕は社長を現社長の高さんに譲り、その後彼がコロナ禍の最中NFTマーケットプレイス 「nanakusa」を立ち上げ、あっという間に会社がSBI HoldingsにM&Aされたのが昨年の10月。

そんな彼に、NFTマーケットプレイス事業に本格的に舵を切った一年のお疲れさま会とここからさらに羽ばたいてほしい意味合いを込め、買収後1ヵ月後のタイミングで、周りの関係者を集め、高さんをお祝いする食事会を行いました。

参加者の多くがWeb3側の領域で経営レイヤーで事業を推進していく人ばかり、という変な会です。

その場で複数の人から「Web3向けの資金供給源となる担い手がいない」「トークンに投資できる(リスクも取れるし目利きもできる)クリプトVCの役割を担える勢力が国内に全くいない」「ファンドをやるべきだ。やるなら出すよ」といった展開になりました。

いろいろ思うこともありましたが、この時に話したことがきっかけで自分自身の今後の役割や位置づけを考えるようになります。

まずは小粒な資金支援と伴走役から

Web3の領域に特化したVCや支援組織がほとんど存在しない。僕自身2019年に社長を譲る前に悩んだ部分はそこでした。

一方で、2021年の夏から秋にかけては、Web3の領域はかつてのインターネット黎明期のように、山っ気の人たちがますます集まり始めている状況。

そこでまず、自分で出来ることとしては、この分野で「本気で」挑戦している若者に対して個人的なレベルの範囲内な支援を差し伸べ、伴走役として一緒に事業を推進すればよいという結論に至りました。

そういった延長線上で僕自身が見出した若者の1人があるやうむ畠中さん。彼はどういうわけか北海道札幌市に住んでいました。11月にオンラインmtgしすぐに決断。彼は僕が20年前に運営していた匿名掲示板サイトのユーザーでもありました。さまざまな思惑の元、12月にスカイランドベンチャーズ木下さん、古くからの知り合いであるHEROZ林社長と一緒に投資実行しました。

世代を超えた若手の挑戦するプロジェクトへの支援はとにかく楽しい。素直にそう思いました。他人に投資支援して初めてそう思えました。

3人でやる

畠中さんを支援することが決まりかけたタイミングで、さらにこの分野にアクセルを踏むべきか、同時期に身の振り方を相談した人が2人いました。それこそが新会社を一緒に立ち上げることになる宮坂さんと玉舎さんです。

Web3の市場が2022年に急速に立ち上がっていく感覚があったのと、並行して「冬」が来そうだったからアクセルを踏むべきなのでは。

冬が来た方が、調子いい感じで「Web3だ、新時代だ」という感じてあとからやってきた調子の良い投資家や起業家がいなくなり、僕らは「適正」な立ち位置で中長期的な視点でWeb3スタートアップを支援できる、と。

当初、抜群のVC経験を持っていた宮坂さんには、Web3に特化したVCの代表をやってもらって、僕はそこに初期投資家として&初期はWeb3まわりを中心に一緒に手伝うイメージで自分が参加するストーリーでした。

それが一転して、僕が代表をやり、co-founderとしてやるなら一緒にやりたいという逆提案。彼クラスの人間がいきなり一緒にやってくれる状況になったことに結構びっくりしましたが、その場で握手をしました。ありがたいことです。

そこから、ファンドを実際にどう作っていくのか、国内のVCがトークンに投資できない規制を回避しつつどう最短でストラクチャーを作っていくのかの検討がスタート。

ちょうどこのタイミングの途中で第三子が生まれました。育児をしながらでしたが、2週間ほどでストラクチャーがほぼ見えてきたのですが、一点不安がありました。

というのも、トークンエコノミクスまわりの知見や経験値はある程度肌感覚があっても、2019年秋から経営の第一線から遠ざかっていた身で、最前線がどうなっているかは間接的な話でしか理解していなかったのです。ネットに出ていないインサイダーなコミュニティに入れないとまずい。

ふと思い返したのが玉舎さんでした。

当時の彼は拠点を完全に日本に戻し、oasysの立ち上げなど複数のエンタメ系のWeb3プロジェクトの立ち上げに関わっていたのですが、そんな彼に相談。もともと投資家として協力してもらうつもりでいたのですが、一緒にやる宮坂さんと引き合わせたところ意気投合し、ファウンダーとして一緒に手伝ってくれることになりました。

こうして、三人でやることが決まりました。

三人をほぼ対等なパワーバランスにすることも意識しました。自分自身を過度に追い込むこともなく、前に走れるのではと思いました。

海外赴任決断

とはいえこの時点で新会社は東京で設立する予定でした。

日本の会社からトークン発行体への投資・アクセラレーション支援をおこなっていく前提に、どこかチグハグ感がありました。TH税制の問題やBVIを活用した複雑なスキームなどさまざまな議論が出つつもイマイチしっくりきません。

運命の日が近づいていました。熱海での創業の具体的なアクションをいよいよ決断する合宿が1末に迫っていました。

熱海合宿といえば、僕がスマートアプリ社をウォレット事業に走ることを決め、DJTが立ち上がるきっかけとなった2018年1末の合宿がよぎります。同じ日にコインチェック事件が起こった運命としか思えない日。

実は、その日に合意に至らなければ向こう三ヶ月にあたり検討をしてきた、Web3アクレラレーターの新会社設立は総論で合意していようが、キッパリ辞めるつもりでした。

その前日、僕はとある日本国内でも古くから活動をしていたCrypto VCの方と食事をすることになりました。

「Web3とWeb2は事業グロースのさせ方や考え方がこれまでの正反対であるのを佐藤さんは体感的に理解できているといってもイマイチ本気らしさがない」

「バカになったぐらいに思い切ってシンガポールに飛び込む本気度がないとなかなか既存のネット業界に見切りをつけた若手が信用しない。」

「いくらこれまでの事業立ち上げ・グロースに実績があっても、web3はそれを逆からやるからそのままではうまくいかない。そんなおじさんが遠巻きにやってるぐらいのプレイヤーから一線で活躍する人たちで誰も出資してもらいたいと思わないよ」

開口一番言われた自分はガツンと頭を叩かれた気がしました。

Web3の分野では、起業家だけでなく、事業支援家も先人が達成したことがないことを達成する挑戦なのだということをその時初めて理解しました。

エンジェル投資家のようなスタンスで日本国内という安全な場所から投資してWeb3事業を支援した気になっているのは勘違いも甚だしい。

トークンに投資する日系の会社の成功方程式を作ること、市場を作ることの大きなチャレンジなのだ、と理解しました。

だからこそその場で、妻とLINEを開始。

「唐突に聞くけど、シンガポールに単身赴任するってあり?」
「どれぐらいの期間?」
「わからないけど新事業がうまくいくまで。まあ僕の見立てだと最低2年かな」
「うーん。ちなみに日本にはどれぐらいの頻度で帰ってくるの?」
「年間1/3ぐらいは東京で仕事するつもり」
(意外と否定されなかったので恐る恐る返答した)
「じゃあいいよ」

まだ三人目の息子が生まれて3ヶ月たったばかりでしたが、シンガポールへの単身赴任を決断。翌日の熱海での合宿に臨むことになりました。

熱海創業合宿

結果僕が単身でシンガポール側に赴き、シンガポール法人として新会社は船出することが決まりました。あとはコストシュミレーション次第。

たまたま、先行している同様の会社のスキームもあったため、そちらをベンチマークにできたのもラッキーでした。

いかに競合プレイヤーよりも、未完成さを気にすることなくいち早く発表し、その後は完成度を同時並行で高めつつ垂直立ち上げでいくことを決断。その場でXデーを3/24に定めることになりました。Xデーとは僕の移住日です。

この時点では、シンガポール共和国にはEP(就労ビザ)等がないと入国すらできない時期。今日のようにまずはシンガポールに行ってしまえばよい時期ではありません。国内ではコロナのオミクロン流行がピークに差し掛かるタイミングでした。

本当にシンガポールに移住できるのか、移住したあと日本に戻れなくなるのではないか。資金と支援先は決まるのか。不安と交錯しながら新会社のプロジェクトがスタートしました。

続けて名前を決めます。名前の話になるだろうなと熱海に行く前一週間考えて自分が望んだ案は

「単に投資するのではなく事業やサービスを生み出していく思いをこめてスタジオという名前をつけたい」
「スペイン語で一歩前へ、先への意味をもったAから始まるArribaがよいのでは?」

を持っていったのですが、両者を組み合わせたArriba Studioにしようということですんなり合意。

その場で玉舎さんが「.studioというドメインがあるじゃん」と言い出したので「こりゃ運命だ」と思い即決しました。

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熱海合宿

最後発から垂直立ち上げ

シンガポールで法人を作り3/24をXデーと定め自ら移住する。

この困難な問題を解決するためにどうすればよいのだろう。当時シンガポールで複数のWeb3プロジェクトの立ち上げを推進していた玉舎さんを頼って、現地の日系専門家を招致してもらい垂直立ち上げがスタートしました。

初期投資家探しや営業活動も同時並行してスタートし、僕の毎日は突然むちゃくちゃ忙しくなってきました。

生活感もわからなかったので、かつての知り合いでシンガポールに移住した起業家やキャピタリストのつてをたどり(EPビザを更新せず帰国してしまった人がたくさんいたのが驚きでした)、現地不動産屋さんの知り合いも見つけました。

・法人の設立
・EPビザの取得
・銀行口座の開設と当面のカードの手配
(日本のクレカに依存すると手数料が凄まじくかかる)
・不動産の取得(賃貸借でも居住証明できることが前提)
・納税管理人や出国まわりの手続き
・日本に残す家族や社会保険の整理
・現地での生活感のコスト算出(アリーバ社の維持コストに関わる)

などもろもろ最短距離で構築を進めます。エージェントには入ってもらいましたが、極力人任せにせず自分でやってみることにしました。

事業にはあまり関係ないけれど、web3スタートアップをシンガポール拠点で立ち上げるために現実的にとても重要なこのあたりの経験は今日の僕らが支援するWeb3起業家のシンガポール居住のさまざまなTipsとして役立っています。

・最短で銀行口座を作る現実的なTips
・ビザで取得しやすい職務経歴の書き方や年収の提示方法
・仮想通貨周りの諸事情
・日本非居住者になるタイミング

あたりはたくさんの試行錯誤を短期間で経験しました。

結局3/24は間に合いませんでしたが、2/22に法人設立、一ヶ月後に銀行口座開設、さらに二週間後にEPビザ取得が実現し、4末に移住できそうな運びとなりましたが、このタイミングで家庭内でコロナクラスターが発生し自分も感染してしまいます。

ちょうどこの時期、4月下旬からシンガポールは旅行者も自由に入国ができるようになりました。ワクチン接種証明があれば、以前のPCR検査もいりません。先読みしていた通り、少しずつ環境も整ってきました。

移住の日

その日がやってきました。

妻と二人の息子が羽田空港まで見送りに来てくれました。12年前に中国に赴任していた時期がありましたが、当時の彼女(今の妻)が会社を抜け出して成田空港まで見送りに来てくれたことを思い出しました。

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二人の息子

出国はすんなりいきましたが、入国で早速トラブル。

数年ぶりに入国するシンガポールはかてつの手書き入国カードが廃止され、シンガポール入国は事前申請のアライバルカードのサイトで入力する必要があります。入国が再開されたこともありイミグレは大行列。

私の場合、EPビザの申請が通った状態でしたが、まだビザを発券していなかったためエラーが。書類はスーツケースに預けてありスマホの画面で見せても審査官はきちんと見てくれません。(紙で印刷していきましょう)

普通の旅行者として申請してしまったがために、入国審査が3回やり直しになり、大変な思いをしました。

ホームシックになりながら慣れていく日々

これ以外にも、異国の地で銀行や行政の方々と英語でやりとりをするのはとても心がすり減ります。

自分の住所宛に郵便物は届くのか。申請が受理されてもきちんと予定通り進むのか。日本に住んでいて気にならない様々なことが気になります。経験者曰く「いくらシンガポールとはいえども日本とは違う」

EPビザの発券手続きが終わってもなかなかカードが届きません。銀行口座を作ったり携帯電話のツーリスト用とは別の契約は一切できません。給料も振り込めないため、家賃や保証金の支払いからはじめすべて日本からお金を持ち込む必要性があります。(ここで活躍したのは意外にもRevolutカード。賃貸不動産の補償金支払いが100万円以上あり、カード決済になりましたが、為替手数料がほぼゼロにできた!)

イライラしながら半月ほど経ちようやくカードが届きました。銀行口座を作るのも一悶着ありましたがなんとか完了。ocbcとhsbcで開設しました。

ちなみに、クレジットカードの作成は通常の口座だと給与の支払いが3ヶ月ほどすぎてからでないと作れません。シンガポールでは僕は得体の知れない外国人であり、すぐにいなくなってしまうかもしれない信用がない人間なのです。

とはいえ、一転クレジットカードが作れるようになると意外と天国です。

シンガポールは銀行の金利も高いし販促キャンペーンの競争が激しく、クレジットカードで5パーセントキャッシュバックされる世界。確かに東京より物価高な国ですが、工夫していくことでコスト感を調整することができるポイ活天国。これには面食らいました。

また生活に欠かせないスマホアプリで日本のアプリストアで配信されていないアプリが多数あり、このあたりの切り替えもなかなか面食らいました。

医療保険も面食らいました。シンガポールは新型コロナより、デング熱の蔓延の方が直近の課題で、保険に入れるまではなるべく自宅にいる時間を増やすしかありません。

とはいえ、居住して一ヶ月ほどたち、だいぶ生活にも慣れてきました。今後は投資先の事業拡大を推進していくことにさらに本腰を入れていきたいと思います。

ここから

シンガポールにいるからといって、こちらのWeb3起業家に毎日のように会えるわけではありません。日本人村といっても、リトルトーキョーのような場所があるわけではいりません。シェアオフィスで一部集まって仕事をしていく動きもありますが、自宅で仕事をしている人も多い。

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アリーバ本社が入るビル

ただ東京とシンガポールを行き来することで、普段わざわざ会わない人と会うきっかけができるというのはとても大きな利点だというのがわかりました。

シンガポールに住んでいるから、東京に戻った時にシンガポール居住を検討しているWeb3起業家が東京滞在中にわざわざ会いにきてくれる、というケースのほうが当面は多そうです。逆も然り。

「いつでも会える」リモートワークの時代なかなかリアルに人と会うきっかけが作りにくい時代。こういう時代は自分から動いていくのが正しいのです。

シンガポールに居住しているWeb3起業家は、ずっとシンガポールにいるのではなく、開発体制は世界中のメンバーで構成されており、パーナメントトラベラーのように世界中で仕事をしていることも多いのです。(シンガポールは滞在コスト高い)

日本国内ではアリーバ社の立ち上げを決断してから多くのことが起こりました。VCがトークンに直接投資できるようにする、法人のトークンの恣意的な期末時価課税を解決するなどさまざまななロビー活動が行われています。

どちらに転んでも僕らからすれば市場が大きくなるから歓迎したいですが、冬の今の時代だからこそ、事業作りたい若者の決断を一刻も即したい。

シンガポールやドバイへの移住を選択肢の一つとしてめんどくさんないレベルでカジュアルに受け入れてもらうこと。当面はそんな活動ができればと思っています。

僕らはアリーバ社の設立以前から、黎明期よりWeb3の領域で仕事をしてきたこともあり、そこの卒業生やネットワークで多数の相談が寄せられてきました。

創業当初は、oasys・double jump.tokyo・YGG Japanをはじめ、創業以前から立ち上げに関わってきた会社の資金調達に運良く乗ることもできました。Web3アクセラレーターとしては、後発でこの規模での投資実績としては、crypto冬の時代を乗り切りうる、非常に恵まれた立ち位置にいることを痛感しています。

特定のWeb3事業と個々に伴走していくというよりは、僕らに支援先自体がお互いに切磋琢磨して共にweb3市場を作っていける存在となれることを目指しています。

加速度的に支援先が増えるほど、お互いが分散的な存在として相互に依存しつつも、成長していけると思うのです。(そういう支援先を積極的に応援したい)

そして自分自身はシンガポール居住者になったので、こちらの法人もしくは、こちらでBVI法人を設立して早い段階でARRIBAトークンの発行に向けた活動を進めていきたいと思います。

冬の時代になったからこそ、ここからが活動の本番。

そのためには、追加の資金調達。こちらについても近日中に発表ができるよう鋭意努力していきます。


この記事は「投げ銭」記事です。ポジティブにお金が回る仕組みにしてみたいと思いました。記事をおもしろいと感じてくださった方は「投げ銭」をよろしくお願いします。