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【連載】ノスタルジア大図鑑#18|昭和の子ども遊び生活史③ 夕焼け空とじゃんけん遊び〈後編〉

前回は「じゃんけんの掛け声」について熱く深く掘り下げた黒沢哲哉さんによる〈昭和の子ども 遊び生活史〉。

今回は後編としてじゃんけんの歴史に迫ります!
行き着く先には……今では絶滅危惧種な10円ゲーム機!?


前編はこちらから↓


第3回:夕焼け空とじゃんけん遊び〈後編〉

「じゃんけん」は昔も今も子ども社会にとって必要不可欠な“ツール”であり“ルール”だ。前回は、そのじゃんけんのかけ声の地域ごとに異なる様々な“変種”や、世相や流行を反映したかけ声について見てきた。
今回はじゃんけんの歴史を振り返ってみよう。

じゃんけんの元となる「拳」遊戯は、中国から日本へ伝わったとされている。ただし中国の「拳」と良く似たゲームはヨーロッパにも古くからあり、発祥がヨーロッパか中国かは専門家によって意見が分かれるところだそうである。

日本で最初に拳が流行したのは平安、鎌倉、室町時代のことで、このころは「虫拳」という拳が大人の酒席の座興としてもてはやされた。酒席とはいっても気のおけない仲間同士の飲み会ではなく政治的な会談や商談などの緊張感を伴った相手との酒席である。そこで虫拳はその場を和ませお互いの心理的距離を縮めるための潤滑剤として用いられたのだ。

虫拳とは、蛙(親指)がなめくじ(小指)に勝ち、なめくじが蛇(人差し指)に勝ち、蛇が蛙に勝つという、じゃんけん(石拳)と同じ三すくみ拳の一種である。

そもそも「拳」には大きく分けて2種類ある。ひとつがじゃんけんや虫拳のような三すくみ拳で、もうひとつが中国から最初に伝わった「本拳」あるいは「数拳」といわれる拳である。

江戸時代の文化文政ごろになると、この「数拳」が郭遊びや芸者遊びの場の余興として遊ばれるようになった。

数拳は対戦相手が同時に出した指の合計を言い当てる遊びだ。例えばAとBが対戦する場合Aが指を3本出しながら「5」と言い、Bが指を2本出して「4」と言ったとする。この場合、双方の指の合計は5本なので「5」と言ったAの勝ちとなる。両者同数ならば「相声」すなわち「あいこ」で、両者ともに数が合わなければ勝負なしとなる。

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文化6年(1809年)河内屋太助刊『拳會角力圖繪』(義浪・吾雀著)より、庄屋拳で遊ぶ大人たち(上)と、虫拳で遊ぶ子どもたち(下)


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こちらも文化6年(1809年)河内屋太助刊『拳會角力圖繪』(義浪・吾雀著)より、「長崎拳」の名人番付表。長崎拳というのは数拳の別名で「崎陽(長崎の別名)拳」とも呼ばれた


ここに紹介したように拳は日本では大人の世界でのみ遊ばれていた時代が長く続いた。それが子どもの世界でも遊ばれるようになったのは幕末から明治期にかけてのことだという。

最初は「虫拳」や「石拳」から始まり、やがて広く流行したのが日本で生まれた「庄屋拳」だった。

庄屋拳は「狐拳」「藤八拳」「東八拳」などとも呼ばれ、庄屋、狐、鉄砲の3すくみで争う。庄屋は鉄砲に勝つが狐に負け、狐は庄屋に勝つが鉄砲に負け、鉄砲は狐に勝つが庄屋に負ける。遊び方は対戦相手同士が向かい合って座り、「よよいのよい」などのかけ声に合わせて上体で指し手を示す。庄屋は両手を膝の上に置いて威儀を正し旦那の風格を表現、狐は両手の掌を頭の上に立てて狐のポーズ、鉄砲はその名の通り鉄砲を構える動作をまねる。

筆者も明治生まれの祖父から、子ども時代に庄屋拳でよく遊んだという話を聞いたことがあった。

しかしこの庄屋拳の流行も太平洋戦争前の昭和10年代ごろまでがピークで、戦後は昭和20年代まではかろうじて生き残っていたものの、筆者が物心ついた昭和30年代にはもう虫拳も庄屋拳も知らない子どもがほとんどになっていた。

祖父から遊び方を教わっていたぼくは、この庄屋拳を仲間内で広めようとしたこともあったが興味を示す友だちは少なく広まることはなかった。そもそも多くの子どもが“庄屋”とは何かを知らず、ぼく自身も説明できなかったのだから無理もないだろう。

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明治26年に発行された宴会芸の指南本『遊藝』(松室八千三編、鹿田書店刊)より、本拳(数拳)の指の形(左)と、藤八拳(庄屋拳)のポーズ(右)


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大正14年刊『雑藝叢書第一』(國書刊行會刊)より、「拳獨稽古」と題したコーナーで数拳の遊び方がイラスト入りでていねいに紹介されている




最後に、ある世代の人にとってはひじょうに懐かしいだろうじゃんけんに関する“あるもの”を訪ねてみることにした。

小雨が降る中、車を運転して向かったのは板橋区の「駄菓子屋ゲーム博物館」である。ここは1970年代から90年代ごろに駄菓子屋の店先で子どもたちを熱狂させた10円ゲーム機が数多く展示されていて、実際にコインを入れて遊ぶことができるという体験型の博物館だ。

ここにじゃんけんゲームがあったことを思い出し、以前からの知り合いである館長の岸昭仁さんに電話で取材のお願いをしたところ、こころよくOKのお返事をいただいたのだ。

この日、館内では「ジャンケンマン」と「ジャンケンマンフィーバーJP」という2種類のじゃんけんゲームが稼働中だった。どちらで遊ぶか迷った末にぼくは「ジャンケンマンフィーバーJP」に挑戦してみることにした。

10円ゲーム機はその名の通り10円玉を1枚投入すると1回プレイができる。または100円玉を入れるとメダルが11枚出てきて11回遊べる。ぼくは大人なのでためらいなく100円を投入し11回分のプレイの権利を得た。

遊び方は単純で、メダル(または10円)を1枚入れると電球式のルーレットが回転し、機械から「じゃん……けん……」というかけ声が流れる。そこで頃合いを見てグー、チョキ、パーいずれかのボタンを押すとルーレットの回転が止まり、画面中央にゲーム機側のグー、チョキ、パーどれかの指し手が表示される。プレイヤー側が勝つと「ヤッピー!」という明るい声がしてルーレットの止まった数だけメダルが排出され、負けると「ズコ~」という落ち込んだ声が聞こえてメダルを失いジ・エンドとなる。

単純なゲームだけにすぐにハマり、ぼくはいつの間にか2枚目の100円玉を投入していた。しかしそれもすぐになくなり、3枚目を投入する寸前でギリギリ思いとどまった。危なかった。我ながら冷静な判断を褒め称えたい。

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10円ゲーム「ジャンケンマン」。コイン投入口が上の方にあるが、筐体が小さいので幼児でも手が届かないということはない


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今回遊んだ「ジャンケンマンフィーバーJP」。「ジャンケンマン」の後継機なので「ジャンケンマン」よりも洗練された印象がある


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100円を投入してメダル11枚を入手した。いざ勝負だ!


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こちらの指し手チョキに対して相手はパー、ぼくの勝ちだ! ルーレットの4のランプが点灯しているのでメダルがジャラジャラと4枚出てきた




岸さんにお礼を述べて博物館を出ると、いつしか雨は止み、目の前の神社の上には夕焼けの空が広がっていた。

その夕焼けの中を車で帰るとき、車窓を流れるレトロな商店街をながめながら、ぼくは子どものころによく遊んだあるじゃんけん遊びを思い出していた。

じゃんけんをして、グーで勝ったらグ・リ・コで3歩、チョキならチ・ョ・コ・レ・ー・トで6歩、パーならパ・イ・ナ・ッ・プ・ルで6歩、勝った手の数だけ歩いて前へ進むことができる遊び「グリコ」である。

子どものころ、仲間と一日中たっぷりと遊び、やがて帰宅時間が迫ってくると、誰かが「グリコをやろう!」と言い出す。今まで遊んでいた公園や空き地から、みんなの別れ道となる道の角までグリコをやりながら帰るのだ。

最初はむちゃくちゃ楽しいが、こんなときに限って負けモードに入ってしまうことがあり、そうなるともはやどうがんばっても勝てなくなってしまう。やがて一着でゴールした子が「イチぬけた~、バイバーイ!!」と言って走り去っていき、二着、三着も相次いでゴールする。あたりはみるみる暗くなり、友だちの数は減り、同時に親の怖ろしい顔が頭に浮かんでくる。このときの心細さと、ようやくゴールして家へ帰り着いた時の安堵の気持ちはいまだに鮮明に記憶している。

暗くなってきたのでぼくはヘッドライトのスイッチをONにした。荒川を渡り葛飾区へ入るころには、あたりはすっかり夜の景色となっていた。オレンジ色の街灯の光が、川面に映る黒々とした街並みをゆらゆらと幻想的に揺らしていた。ぼくは今夜の夕食はカレーにしようと思っていた。入っている肉の数をめぐり、あのころ弟と必死のじゃんけん勝負をやった、懐かしい小麦粉入りのカレーだ。今はもう大人なのでにんじんもたっぷりと入れるつもりである。

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昭和初期のものと思われる「ジャンケン将棋」。並べたコマをお互いに一手ずつ進め、相手のコマと向かい合ったら勝負! コマに表示されたグー、チョキ、パーで勝敗が決まる。今でも十分通用しそうなゲームだ


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昭和40年代のメンコ各種。裏面には鉄砲、狐、庄屋という文字やイラストが仕込まれていて庄屋拳で遊ぶことができる。ただしこのころどれだけの子どもがこれで庄屋拳をやったのだろうか


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館長の岸昭仁さん。2006年に「駄菓子屋ゲーム博物館」の前身の「ゲーム博物館」を期間限定で運営し、2009年に現在の「駄菓子屋ゲーム博物館」をオープンした


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館内には10円ゲームがズラリと並ぶ。定番人気はやはり「新幹線ゲーム」だろう


《取材協力》

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駄菓子屋ゲーム博物館
住所:東京都板橋区宮本町17-8
開館時間:土日祝日10:00-19:00、平日14:00-19:00
定休日:火曜日、水曜日(祝日の場合は営業)
入場料:200円(1歳以上共通、ゲームメダル10枚付き、当日に限り再入場可能)
HP:https://dgm.hmc6.net


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【要トリミング】プロフィール用_S

【著者プロフィール】
黒沢 哲哉(くろさわ てつや)

1957年東京・葛飾柴又生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。学生時代よりライター業を開始。卒業後勁文社に入社し『全怪獣怪人大百科』などの編集に携わる。1984年にフリーランスとなり、現在は主に昭和のサブカルチャーやマンガ研究、マンガ原作の分野で活動する。著書に『ぼくらの60〜70年代宝箱』、『ぼくらの60〜70年代熱中記』、『よみがえるケイブンシャの大百科』(全て いそっぷ社)、『全国版 あの日のエロ自販機探訪記』(双葉社)などがある。

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昭和の子ども 遊び生活史①
「空き地の向こうにあったもの」はこちらから↓


昭和の子ども 遊び生活史②
「下町の駄菓子屋もんじゃを探せ!
」はこちらから↓


「昭和子ども遊び生活史」を含む、個性豊かな執筆陣による合同連載「ノスタルジア大図鑑」はこちらから↓


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