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【連載】ノスタルジア大図鑑#14|昭和の子ども遊び生活史③ 夕焼け空とじゃんけん遊び〈前編〉

「じゃんけんの掛け声論」って、いい大人になった今でも想像以上に白熱して、最後にはちょっと相手と仲良くなれるの、なんでだろう〜♪(なんでだろう〜)

昭和のサブカルチャーや漫画研究・漫画原作の分野で活躍する黒沢哲哉さんによる〈昭和の子ども 遊び生活史〉。
今回は「じゃんけん遊び」について、前編後編に分けてお送りします!


第1回「空き地の向こうにあったもの」はこちらから↓

第2回「下町の駄菓子屋もんじゃ」はこちらから↓


【ノスタルジア大図鑑とは】
昭和やそれ以前、物心ついた頃からあたりまえにあったもの。
めまぐるしく移り変わる時代の中で、気づいた時には無くなっていることも。さまざまな理由で「このまま放っておいたらいつか無くなってしまうかもしれないもの」、後世までずっと残して受け継いでいきたいと思う「日本の文化・日々の暮らしの中の物事」を取り上げ、個性豊かな執筆陣による合同連載<ノスタルジア大図鑑>としてお届けしていきます。



第3回:夕焼け空とじゃんけん遊び〈前編〉

「じゃんけん」は、昔も今も子どもの社会生活になくてはならない“ツール”であり“ルール”である。

例えば鬼ごっこの鬼を決める場合はもちろん、公園で遊具の順番を決めるときや、均等に分けられないお菓子をもらったときなど、子ども社会でじゃんけんが使われる場面は無数にある。

そのじゃんけんでひとたび順番や勝敗が決まれば、その結果は絶対的なものとなる。たとえ親や先生の言いつけを守らない悪ガキであっても友だちとのじゃんけんの結果は守る。じゃんけんとは子ども社会においてそれほど厳格なものなのだ。

今回はこのじゃんけんについて、筆者の体験談などを交えながら振り返ってみよう。

じゃんけんのかけ声というと、昔も今も全国的に広く使われているのは「じゃん、けん、ぽん!」あるいは「じゃん、けん、ぽい!」の2種類だろう。むしろ最近はこの2種類しかほとんど耳にしなくなってしまった気がするが、かつてじゃんけんのかけ声には地域ごとに無数の“変種”が存在していた。

筆者の生まれ育った東京の東の外れ、葛飾区柴又では、昭和30~40年代には主に次のようなかけ声が使われていた。

「ちっ、けっ、た!」
「ちっ、けっ、ぴ!」
「ちー、らっ、せ!」
「いっせ、の、せ!」
「じゃんけん、じゃがいも、さつまいも!」
「ちっち、の、ち!」
「せっせ、の、せ!」

絵本作家で児童文化研究家の加古里子(かこさとし)は、昭和23年から平成12年までの52年間にわたり日本全国のじゃんけんのかけ声を数千種類も収集し、著書『伝承遊び考4 じゃんけん遊び考』(平成20年、小峰書店刊)の中でそれを紹介している。

この本によると「ちっ、けっ、た」は茨城・千葉で、「ちっ、けっ、ぴ」は神奈川・東京、「ちー、らっ、せ」は静岡・東京で、「いっせ、の、せ」は何と東京から遠く離れた福井で採集されているという。

「じゃんけん、じゃがいも、さつまいも」は全国的に分布しているとのことで「私も使っていた!」という方も多いだろう。だがこれにも様々な亜種が存在し、じゃがいもに続くいもの種類には「ながいも」(三重)、「ふかしいも」(千葉)などがある。またじゃがいもからの連想で「ほっかいどう」という言葉が続く亜種も多い。

「ちっち、の、ち」「せっせ、の、せ」は両方とも加古の採集した中によく似たものはあったが完全に一致するものはなく、全国にはまだまだ様々な変種がありそうだ。


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昭和26年『キンダーブック』第六集第一編より、「花いちもんめ」で遊ぶ子どもたちの風景。全員が二手に分かれてじゃんけんで争い、勝った方が一人ずつ仲間を増やしていく。大人数ほど楽しい遊びだ


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昭和20年代のものと思われる『愛兒絵本 じゃんけんぽん』より、おかっぱ頭にちゃんちゃんこの女の子、その奥には正ちゃん帽の男の子がじゃんけんに興じている


ちなみにこれらのじゃんけんのかけ声の中で「ちー、らっ、せ!」というかけ声は、柴又ではじゃんけんとは別のある遊びのかけ声としても使われていた。それはベーゴマ勝負でベーを投げる際の合図の声だ。

家の中にいて外から「ちー、らっ、せ!」という声が聞こえてくるとすぐにベーゴマが始まったのだと分かり、マンガ本を放り出してあわてて家を飛び出して行く。すると路地裏の一角に数人の中学生が集まり、桶の上に帆布をかぶせた土俵が置かれて鉄火場が開帳されている。

ベーゴマは負ければ自分のコマを相手に取られてしまう真剣勝負だ。だから闘いが白熱してくると「ちー、らっ、せ!」の声もだんだんと熱を帯びてくる。やがて負けが込んでくるとその声はかすれ、最後は半泣きのやけっぱちで絶叫する子どももいた。

昭和30年代の東京下町を舞台とした西岸良平のマンガ『三丁目の夕日 夕焼けの詩』では、子どもがベーゴマで遊ぶ場面で「セッセッのセイッ」というかけ声をかけている絵が描かれている。これも先ほど紹介したようにじゃんけんと共通のかけ声である。


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歴戦の傷をたたえたベーゴマたち。「金田」「いなお」「別当」などプロ野球選手名のほか、「K」や「W」は当時プロ野球より人気のあった東京六大学野球の大学名の頭文字だ


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『讀賣新聞』昭和28年4月14日号より、路上でベーゴマに興じる子どもたち。都会ではしだいに交通戦争が激化して路上で遊ぶことが問題視されはじめた


それにしてもあの頃柴又でこうしたさまざまな地域のじゃんけんのかけ声が使われていた理由は何か。答えは単純で引っ越しによる子どもの移動がものすごく多かったからだ。

昭和30年代から40年代にかけて東京に多くの人が集まるようになり、都心部は深刻な住宅難に陥っていた。そのためいまだ田んぼと畑と空き地ばかりだった柴又にも住宅やアパート、団地などが続々と建設されるようになった。

学校では毎月のように転校生がやってきて新しい仲間が増えた。それらの転校生によって遊びやじゃんけんのかけ声など新たな“文化”が続々ともたらされたのである。

「ちっ、けっ、た!」はまさにその一つで筆者はこのかけ声が柴又に“輸入”されたときのことをはっきりと覚えている。それは小学校3年生の春のことだった。
関東北部から転校してきたKくんと仲良くなり、放課後、彼を仲間の集まりに初めて招待した。そこで缶けりをやろうということになり、じゃんけんをしようとしたとき、Kくんが「ちっ、けっ、た!」でやろうと言い出したのだ。

ぼくらはそんなじゃんけんのかけ声があることをこのとき初めて知った。そしてすぐにこのかけ声が気に入りその場で採用を決めた。やがてぼくらが学校でもこれを使い始めるとクラスの男子たちがこぞって真似をし、またたく間に学校中へと広まっていった。やがて5~6年生になる頃には「じゃんけん」と言わず「ちっけ」だけで通じるようになった。

このかけ声を多くの子ども、特に男子が使うようになった理由はただひとつ、かっこよかったからだ。小学校3年生くらいになると、「じゃん、けん、ぽん!」という言い回しがだんだんと幼稚に聞こえてくる。それに対して「ちっ、けっ、た!」は、少年ジェットの「ウー、ヤー、ターッ!」というかけ声にも似て力強く勇ましい響きがあり、男子の心(ハート)を鋭く射抜いたのである。


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小学館の幼児雑誌『よいこ』昭和35年2月号付録「どうぶつじゃんけんあそび」。各動物にグー、チョキ、パーの役が振られていて、お互いに手札を出し合って勝敗を決める


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『週刊新潮』昭和39年11月9日号の表紙で谷内六郎が描いたのは、幼い少女が池に浮かぶモミジとじゃんけんをして遊ぶ風景だ


では一方、全国的に使われているという「じゃん、けん、ぽん!」のかけ声は、最初にどこで生まれて全国へ広まっていったのか。

昭和45年に発表された目白女子学園短期大学の新井真由美の論文『こどものあそびことば』によれば、「じゃんけんぽん」はもともと東京地方を中心に使われていて、それが1950年代以降急速に全国へ広まっていったということだ。

この論文にはその理由までは書かれていないが、そこにはテレビの普及が大きく関わっていたことは明らかだろう。昭和30年代以降、あらゆる文化や流行がテレビの電波に乗り東京から発信されるようになった。それにつれて子どもの流行や遊び言葉も均一化して地域性が急速に失われていったのである。

ただし前出の加古の著書によれば、テレビの普及は逆に新たなじゃんけんのかけ声も生み出していたという。

加古の著書にはテレビの影響と見られる次のようなかけ声が収録されている。

「じゃんけん もって ほしひゅうま」(福井)
「せっせっせーの もんちっち」(新潟)
「もんちっち あのこ どこのこ かわいく ないこ」(愛知)
「もんちっち せっせっせ」(新潟)
「せぶん いれぶん いいきぶん あいてて よかった」(茨城・静岡)
「さっぽろ ぴーなつ へのかっぱ」(滋賀)
「さっぽろ びんなま すっぽんぽん」(愛媛)
「びーむ しゅわっち」(東京)
「びーむ ふらっしゅ」(新潟・京都)

ここで使われている単語(固有名詞)の数々はどれもテレビが流行の最先端を走っていた昭和40~50年代のものである。もしかしたら今の若い人には意味のわからない単語もあるかもしれないが、だからこそ、その時代を生きた子どもたちが世の中をどう見ていたのか、そして当時の子どもたちの共通言語は何だったのかを知る貴重な手がかりでもある。


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TBSの子ども向けドラマ「ケンちゃん」シリーズ第1作『ジャンケンケンちゃん』(昭和44~45年)レコード。「チャコちゃんケンちゃん」シリーズからチャコちゃん(四方晴美)が卒業し、宮脇康之演じるケンちゃんが初めて単独で主演した。タイトルの「ジャンケン」は特に内容とはリンクしていない


その昭和40年代にテレビを通じて社会現象となったあるじゃんけんのブームがあったのでそれについても触れておこう。それは「野球拳」である。

昭和44年4月から放送が始まった『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』(日本テレビ)という公開録画番組の中にこの「野球拳」のコーナーがあった。コント55号の坂上二郎と若い女性ゲストがステージに立ち、「やきゅう~するなら、こういうぐあいにしやしゃんせ、アウト、セーフ、よよいのよい!」というかけ声に合わせてじゃんけんをする。そして負けた方が着ているものを1枚ずつ脱いでいき、脱いだ服は会場の観客によって競り落とされていくという趣向のゲームだ。

まるで芸者遊びのような大人の遊びをテレビで、しかも日曜夜8時のゴールデンタイムに放送していたというのが今ではにわかに信じられないが、子ども(と一部のお父さん)にとっては大喝采のコーナーで、ぼくらもさっそくこれを遊びに取り入れ、巷で野球拳ごっこが大流行した。もちろん夜の大人の社交場でも流行したことだろう。

野球拳のルーツをたどると、元々は負けた方が服を脱ぐというエッチなゲームではなかったようだ。しかし宴会の席などでたまたま罰ゲームとして野球拳をやり、負けた方が酒を飲んだり服を脱いだりするという決め事として遊んだのを、この番組が流用したものだったようだ。しかしこの番組以降、野球拳といえば負けたら服を脱ぐじゃんけんゲームという認識が定着してしまい、いまだにそう信じている人は多い。

もちろん当時も批判的な声は少なくなかった。神奈川県相模原市では当時の市長がこのコーナーのあまりのお下劣さに激怒して市民会館の使用を断ったという記事が当時の新聞記事にある。また八王子でも同様のことが起きていた。

やがてこうした声は日に日に高まり、昭和44年に設立されたばかりの放送番組向上委員会(BPO=放送と人権等権利に関する委員会機構の前身)から警告を受け、さらに日本テレビ内の番組審議会からも批判が出たことで、翌昭和45年3月、番組は人気絶頂の中であえなく打ち切りとなったのである。


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『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』放送当時の新聞広告。この写真からも内容のお下劣さ(いい意味で!)が伝わってくる


ということで〈前編〉はここまで! 
次回〈後編〉ではじゃんけんの歴史と、一世を風靡したじゃんけんのゲームを振り返ります。

第4回「夕焼け空とじゃんけん遊び〈後編〉」へつづく……。


ー・ー・ー・ー・ー

【要トリミング】プロフィール用_S

【著者プロフィール】
黒沢 哲哉(くろさわ てつや)

1957年東京・葛飾柴又生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。学生時代よりライター業を開始。卒業後勁文社に入社し『全怪獣怪人大百科』などの編集に携わる。1984年にフリーランスとなり、現在は主に昭和のサブカルチャーやマンガ研究、マンガ原作の分野で活動する。著書に『ぼくらの60〜70年代宝箱』、『ぼくらの60〜70年代熱中記』、『よみがえるケイブンシャの大百科』(全て いそっぷ社)、『全国版 あの日のエロ自販機探訪記』(双葉社)などがある。

●Twitter:@allnightpress
●Web:https://allnightpress.com


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