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勉強さんの気の毒な固定観念

「勉強しなさい」

この言葉が聞こえた時,どんな場面にいるだろう

漫画を読んでいるとき
ゲームをしているとき
オモチャで遊んでいるとき
テレビを見ているとき
YouTubeを見ているとき

千差万別,人によって様々な答えがあるかも知れない。勿論,言われたことの無い人もいることだろう。

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「勉強しなさい」

この言葉が聞こえた時,どんな気持ちになるだろう

うるさいなあ…
後でやろうと思ってたよ…
今良いところなのに…

千差万別,人によって様々な答えがあるかも知れない。勿論,言われたことの無い人もいることだろう。

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「勉強」という言葉に,ネガティブなイメージを持つ人が多いのは何故だろう。また,漫画・ゲーム・オモチャ・テレビ・YouTubeなどに触れている姿を見ると,「勉強しなさい」と言いたくなる人がいるのは何故だろう。

この寄稿が,「勉強しなさい」と言われたことがある人,言ったことがある人,勿論そのいずれでもない人にとっても,思考の変化の一助になれば幸いである。

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「勉強」という言葉が連想させること

私は次の仮説を立てた。

(1)言われている側:「勉強」=「辛いこと」,「出来ればやりたくないこと」だと思っている。
(2)言っている側:「勉強」=「机に向かって学校で教わったことが出来るようになる練習をすること」だと思っている。

もしそうだとすれば,それはとんだお門違いな話だと私は思う。

誤解の無いように申し上げるが,「学校で教わったことなど勉強の中に入らない」とか,「学校で教わったことなど勉強しても意味が無い」とか,「勉強には辛いことが全く無い」というわけではない。勉強になっている場合となっていない場合とでは,明確な違いがあるということだ。

冒頭に時を戻そう。

漫画を読んでいるとき
ゲームをしているとき
オモチャで遊んでいるとき
テレビを見ているとき
YouTubeを見ているとき

これらは本当に勉強にならないのだろうか。
私はこう考える。

◇漫画を読む
・新たな表現技法(言い回し,コマ割り,背景の使い方など)を知ることが出来る。
・登場人物の表情から心情を読み取れるようになる。
・絵の描き方を学ぶことが出来る。
◇ゲームをする
・簡単に諦めない心を養える。
・歴史,地理が学べる。
・反射神経を養える。
・戦略を立てる力を養える。
・記憶力を養える。
・e-sportsプレイヤーになる可能性が生まれる。
◇オモチャで遊ぶ
・想像力を養える。
・独創性を養える。
・シナリオを考える力が付く。
・商売の仕組みを知るきっかけになる。
・ものづくりの楽しさに目覚める。
◇テレビを見る
・お笑い芸人や司会者から,話術・場の回し方が学べる。
・情報ソースの信頼性や取捨選択の大切さを知るきっかけになる。
・運が良ければ良質なプログラムに出会える。

◇YouTubeを見る
・有料コンテンツでもおかしくない動画(世界トップレベルの競技者の動き,インストラクターさんのフィットネス,経営者のスピーチなど)が無料で視聴出来る。
・使ってみたいと思っていた商品レビューを,文字ではなく動画で見ることが出来る。
・外国語を無料で学べる。
・ウケるコンテンツの傾向を知ることが出来る。

ざっと思い付くだけでも,これだけの活用法を挙げることが出来た。

再び問う。これらは本当に勉強にならないのだろうか。

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気を付けたいこと

とは言え,先ほど申し上げた通り,勉強になっている場合となっていない場合とでは,明確な違いがある。

何も考えずに頭を空っぽにした状態で,漫画を読んだり,ゲームやオモチャで遊んだり,テレビやYouTubeを視聴することは悪いことではないが,勉強にはなっていない。では,「勉強」とは何か。私はこう考える。

目の前にあるコンテンツを,自分のレベルアップの為に活用すること

本気で漫画家を目指している人にとっては,敬愛する作家さんの作品を読み,手法やストーリー展開の仕方などを参考にする事は勉強だと思う。

また,過去の私のように,ゲームで遊びながら地理や名産品などが頭に入っていれば勉強になっていると思うし,プロゲーマーに興味を持つ人が現役プレイヤーのレベルを知るためにオンライン対戦で修業を積むことも勉強だろう。

オモチャで遊ぶ子供にとっては,そのこと自体が想像力と独創性を育んでいる時間そのものであり,おままごとやお店屋さんごっこ,人形劇などは,店舗の運営方法や脚本を作ることの面白さを無意識に学んでいる。

YouTubeなどの映像コンテンツは正に現代を象徴するもので,これまでは自分の足で現地に赴き仕入れなければならなかった情報を,非同期的に入手出来るようになった。有名なのは,陸上競技やり投げのジュリアス・イエゴ選手(ケニア)が,コーチを全く付けず,YouTubeでトップレベル選手の動画を見ながら練習しただけで世界陸上を制覇したというエピソードだ。

学校の授業でも同じことが言える。「板書をノートに綺麗に写して見直せば,授業の内容は完璧に理解出来る」と勘違いし,教員の話に全く耳を傾けない生徒には,どこかで問題解決に対応出来なくなるタイミングがやってくる。教員が伝えたい情報を時間内に全て板書することは不可能であり,口頭で伝えることで板書の内容を補っているからである。自分の頭で示された情報を分析しようとしていないのだから,理解が深まることなどあり得ない。これは,「勉強している」とは到底言い難い。

ここまで述べたように,自分がレベルアップの為に役立てようとするならば,どんなものであれその人にとっては全て勉強になっているはずだ。

だからと言って何でもかんでも「自分の為だから」と言い訳して,好きなコンテンツばかり取り入れるのを推奨しているわけではないということは理解する必要がある。

また,いくら自分の好きなものとはいえ,楽しいことばかりとは限らない。

漫画:言葉の意味を知らないと話そのものが理解できないことがある。
ゲーム:レベルを上げないと倒せない敵がいることがある。
オモチャ:正しい使い方を知らなければそもそも遊べないことがある。
TVやYouTube:情報を見極めなければフェイクに騙されることがある。
学校の授業:知識(公式・史実・用語など)が無ければ解けない問題がある。

こういったことを乗り越える時には,「楽しくない」と感じるかも知れないし,そのままやめてしまうこともあるかも知れない。ただその時には,乗り越えた後に味わえるかも知れなかった面白さや,自分にとっての最強の武器となるかも知れなかった可能性を見逃すことになり,それは誰のせいにも出来ないということを忘れないようにしたい。

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刷り込みの恐ろしさ

ここで,何故仮説(1),(2)のような連想をしてしまう人がいるのか考えてみよう。私は次のようなことが原因ではないかと考えた。

「勉強」=「学校で教わること」
と大多数の人間が思い込んでしまっているから

恐らく多くの人々は,小学校に入学した段階で「勉強」という概念を知るのではないかと思う。そして勉強に関する情報は,教員から伝達される場合が非常に多く,日常生活の中で保護者から『勉強ってこういうことなんだよ』と語られる機会が少ないのではないかと感じている。この結果,「勉強は基本的に学校で教わる内容のことであり,勉強が出来る人=学校の成績が良い人=頭が良い人」という誤った認識が無意識に刷り込まれ,跋扈することになってしまったのだと考える。

幼少期から学生時代までを振り返って,学業の成績が良い人に「頭良いね~」と言ったり,逆に成績が悪い人に「馬鹿だな~」と声を掛ける人はいなかっただろうか。あの表現に私は小学生の頃から疑問を感じていた。

成績が良くても徒党を組んで人の悪口を言う輩もいれば,成績が良くなくても困っている人の手助けを進んで行う人もいた。頭が良い人は,人を馬鹿にするグループを作る権利でもあるのだろうか,人を平気で馬鹿に出来る輩こそ,本当の馬鹿者では無いのだろうか,と感じ,自然とそのグループとは接触しないようになっていった記憶がある。

「頭の良さ」と「学業成績」は,必ずしも比例するとは限らないものだ。その事をきっちりと認識し,明確に分けて考えるよう,大人から教えられる場合が非常に少ないがために,『勉強』という本来素晴らしい言葉が,多くの人に誤解されているのだと思う。勉強さんにしてみれば,ぴえん通り越してぱおんと言ったところだろう。

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「勉強が好きじゃない」と嘆く人へ

ここまで綴ったことは,当然学校教育にも当てはまるため,自分に言い聞かせるのと併せ,常々生徒に次のように伝えている。

『与えられたことをただこなすだけでは,「勉強」ではなく「作業」です。理解していないのに答えを写して課題を提出したり,塾に「行くだけ」で成績が上がると思っている人の成績は上がりません。自分自身が教わったことをどのように役立てるかを考えられなければ,何の意味もありません。だから私は出来る限り,学習内容がどんな場面で活用されているか紹介していますが,それすらも君たちが興味を持って活用しようとしてくれなければ,何の意味も無いんです。ただ学校の成績が良かったことなんて,仕事を始めたらクソの役にも立たない事がほとんどですよ。』

生きている限り,我々は勉強しなければレベルアップすることは出来ない。勉強することを面倒くさがっているのに,「給料が低い」だの,「環境が悪い」だの,自分の現状に不満ばかりを垂らし続ける人生を否定する権利など私には無いが,この言葉だけは送らせていただきたい。

勉強は,「誰かに強いられて勉めるもの」ではない。『自分を強くするために自分の意志で勉めるもの』である。

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