短くなる永遠

永遠が短くなっている。

なにをバカなことを言っているのだと思われることだろう。しかし、事実なのだ。果てしなく続くから「永遠」のはずなのに、どういうことか短くなってきた。そうなってしまったら、もはや永遠ではないではないか。永久保証されていない永遠などあってたまるかと憤る向きもあるだろう。しかし、事実なのだ。一時的に短くなっているのか、未来永劫に短いままなのか、それは分からない。

そもそも、永遠が短くなっているからといって、時空の歪みが起きているわけではない。時間の流れがねじれて永遠が消滅したわけでもない。そこのところはご安心を。変化が起きているのは書き言葉としてである。

ツイッターをのぞいてみよう。
「薬でラリっても無いのに永遠に1人で笑ってる」「忍耐づよく永遠と待つの」「永遠に見てられる」
キーワードに「永遠」と入れて検索しただけでも、こんな表現が出てきた。

「永遠に1人で笑う」のはちょっとまずい。さまざまな人生のイベントに対応できないかもしれない。
たとえば、結婚式。永遠の愛を誓うはずの厳かな式でも笑いが止まらない。ほほえみくらいなら違和感で済むかもしれないが、ケラケラと笑っていたら台無しだ。
葬式はどうだろう。こちらも少し考えただけでもマズい。永遠の別れを涙で湿っぽくしたくない。それは分かるが、来場してから笑みを絶やさないやつはサイコパスである。弔意を伝えたいだけのに、敵意を遺族に抱かれてしまう。

「忍耐づよく永遠と待つ」となると、忠犬ハチ公ではないか。なにせ、もう会えない主人を待っていたのだ。それと同じように待つというのは、忍耐強いどころの騒ぎではない。もう少し柔軟に行動した方がいいとすら思えてしまう。

スマホでYouTubeでも見ているのだろう。「永遠に見てられる」も不安になる。四六時中ずっと見ていられるとなると、日常生活が壊れてしまいそうな怖さがある。社会性を失いつつある、あるいは失ってしまった人を想像させられる。

そんなことを具体的に考えてしまったが、これらの「永遠」には、終わりなく続くほどの期間の長さはないはずだ。せいぜいが長時間続くことを強調している程度である。「延々と」「ずっと」と置き換えられるだろう。

それどころか「延々」と混同されている節もある。
「行列が永遠と続き」のような使い方もしばしば見聞きする。
誤用であるが、なんだか長い行列なんだろうなと強調されているからか、それほど違和感なく使われている。不変を意味するはずの永遠という単語が、あいまいな長さを指す言葉へと変化しつつあるのだ。

とはいえ、願わくば、従来の意味も残ってほしい。
「永遠と眠りにつける」ではおそろしいことになるからだ。永遠の眠りは覚めてはいけない。辞書を引くまでもないが、永遠の眠りは「死ぬこと。死」を意味している。
にも関わらず、途中で眠りから覚めてしまったら、それはホラーである。たぶん、なにかウイルスを投与されたに違いない。突如として始まるバイオハザード。世界に混乱をもたらすことになる。安らかに眠り続けてもらわねばならないのだ。
永遠には変わることなく永遠であってほしい。切に願っている。

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