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走る民族について語る

1足のランニングシューズが、世界を巻き込む論争をもたらした。
社会現象として語られる様子は、陸上競技という狭いカテゴリーを抜けて、シューズ自体がひとり歩きしているようだ。

マラソンなんかで好記録が続出して、レースでの使用禁止がささやかれると、一方で規則変更が必要なのかと議論になった。公平性、使用されたハイテク素材、靴底の厚さ、いろんな角度からいろんな声が噴出した。

主役であるはずのランナーが置き去り気味なのは、シューズの性能がそれほどすばらしいということの裏返しなのだろう。それにしたって、アンデルセンの童話「赤い靴」のように、靴が勝手に動きだすわけではない。選手に実力がなければ、せっかくの性能も宝の持ち腐れになってしまう。

勝負に徹する人間ほど道具にこだわる。腕がよければ道具にこだわらない。どちらも正しいが、道具は道具にすぎない。筆を選ばないと言われた弘法大師でさえ、実は筆の収集家だったという話もあるくらいだ。

ただ、忘れてはいけない。弘法大師は歴史に名を残すくらいに実力があったということを。というか、杖で地面をついただけで水が湧き出てくる、そんな逸話が語り継がれているほどのレジェンドだ。

走ることに関しても、弘法大師のような伝説的な存在がいる。シューズをめぐる論争すら、ちっぽけに思えるような「走る民族」だ。自分たちの使う道具にはあまりに無頓着。ちょっとシャイなのに、そのくせお酒を飲むと陽気になって絡んでくる。昭和の飲みニケーションを今でも体現しているかのようだった。そんな愛すべき男たちの話をしていこう。

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