知らないおじさんとルノアールに行った日の話

「あなたのブログに救われた37歳の男性です!直接会ってお礼がしたいです!」

受信したのは長い長いメールだったが、要約するとこんな内容だった。

嫌な予感を察知出来る本能はちゃんと発動したのだけど、俺は基本的に誘いを断らないことにしている。

「水曜日の夜に新宿でしたら行けます。タバコ吸えるとこがいいです」

と返信し、時間を指定してもらった。その時はまあ、下書きフォルダにある日記とか読んでもらって感想とか聞けたらいいなくらいに思ってた。


「ありがとうございます!誠意をもってお礼をさせていただきます!8月23日の14時、上野のルノアールに来てください!」


この人俺のメール見てないのかな。昼だし上野だし調べたら金曜日だったんだけど。

お礼する側が全てを指定するって初めてだ。ついでに済ませるかくらいに感じられる。なんとか都合を合わせて会えることになったが、何で俺がコイツと会うために努力しているんだ?

少し仕事が押してしまい40分しか時間は作れなかったが、ちゃんと行った。わりとイメージ通りの、中肉中背でメガネのおじさんがいた。

ルノアールという喫茶店は灰皿が小さいのだけれど、それを差し引いても山盛りの吸い殻が既にあってヒヤッとした。

遅れてすみませんと謝ると、中村と名乗ったおじさんは私も今来たところですと微笑んだ。ありがとう中村さん、それは煙草を吸わない人にしか使えない優しさなんだ。

680円のコーヒーを飲みながら話を聞く。中村さんはどうやら俺の記事を4つほど読んだことがあるみたいで、あとは時間が無くて読んでないと僕に伝えた。よくお礼に誘ったな。

短い時間だったが、中村さんの色んな話を聞いた。プラスチック製品を扱う会社で働いていること。白い靴下を履いていたら新入社員に馬鹿にされたこと。SNSはやってないがマッチングアプリには興味があること。最近初めて白髪染めをしたこと。同じネクタイを10年使っていること。すべてが聞いている今この瞬間にも忘れてしまえそうで、何も残らない話だった。

1つだけ印象深かったのは、中村さん自身がサイトを作ろうと思っていると話してくれたことだ。記念すべき初記事は、僕と会ったこの今日の事を書いてくれるらしい。ありがたいことだ。教えてくれたらシェアしますね!って言ったら冷たいトーンで「なんでですか?やめてください」って言われたので全然正解がわからない。


「お金がないのでごちそうは出来ないのですが」

中村さんは堂々たる様子で言った。全然構わない。そんな予感がしていたし、払う気で来てるからいいんだけど、中村さんが言う誠意ってなんなんだろう。

「代わりと言っては難なのですが、私の37年の人生で一番のラッキースケベ体験をお話しします!」

本当に難だなと思った。俺はわざわざ時間を作っておじさんのラッキースケベエピソード聞きに来たんだろうか。水になったアイスコーヒーをすすりながら、中村のプレゼンを聞く。

ある程度話したからわかっていたけど、中村は話の組み立てが下手でエピソードがすごくわかりにくかった。しかも要約すると「若い頃に女装して女子トイレに行った」という、全然ラッキースケベじゃなくて普通に犯罪だったのでもうどうしていいかわからなかった。これを「ラッキー」だと捉えてるのヤバいなと思った。

「では、次はマキヤさんの番ですかね?」

なんで?お前もちょっと疑問に思ってるみたいだけどなんで?お礼と称して遠くまで呼び出され、お礼と称して謎の話を聞かされ、さらに俺がラッキースケベについて喋るだと。どうしてそうなるんだ。

記憶を総動員し、大学生の時にサマーランドに行ったらウォータースライダーから半裸の女性が勢いよく飛び出てきた話をした。

「ほう……」と、中村は呟き、ゆっくりと煙を吐き出しながら眼鏡の位置を正して、俺に向き直った。超怖かった。

「それ、イラストにして私が作るサイトに載せてもいいですか?もちろん、マキヤさんのお名前を原作者としてちゃんと載せます!」

絶対に俺の名前を載せないようにと強めに言った。女性の特徴とかは一切伝えていないからもはやただのおじさんの妄想スケッチだけど、どんなイラストになるのだろうか。

僕も中村さんのこと書いていいですかと聞いた。彼は謙遜のつもりなのか、照れくさそうに私のことなんか書くことないでしょうと言った。こんなにあったよ。

氷も全て溶け、ありがとうございましたと言い合って席を立つ。

裏向きの伝票を持ち、払いますと言ったところ押し問答になり、最終的に中村は「自分の分だけでも!」とコーヒー代の680円を押し付けるように渡してきた。僕も押し問答中に「何故俺は払おうとしているんだ?」と冷静になっていたので素直に受け取った。

お会計は2300円くらいだった。えっ君サンドイッチとか食べたの?と思ったけど黙っておいた。

「それでは、また」

短い言葉を交わし、間違いなく今生の別れだと確信しながら反対の道を歩く。

人が常に誰かの影響を受けているとはいえ、自分が誰かに影響を与えるのはいつまでも不思議な感覚だ。

友達が絶賛していた映画を観るし、親の料理が旨いから好物がナスになった。ボードゲームを仲間内に普及させたし、知らない人がサイトを作る決意をした。

出来ることなら良い影響だけを受けたいし、ちゃんと与えられたら嬉しい。

どなたかもしも、中村さんのサイトらしきものを見つけたら、こっそり教えてください。

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