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誕生日は日常の延長、のんびりと楽しく過ごした

特別な日であることは間違いないのだが

子どもの頃はケーキやご馳走、プレゼントと好きなものを親が用意してくれた。
仲の良い友人を複数招いて、それなりのパーティーなんかもした覚えもある。
賑やかで楽しく、そして心が満たされる一年に一回の記念日だ。

いつしか年を重ねることにネガティブな気持ちが出てきたのはいつから。
同じ現象について感じ方が変わるのは、単に老いを意識するようになったからか。
はたまた今のこの瞬間を純粋に楽しめなくなったためなのだろうか。

自分の子どもが産まれてから

自分が親になったのが10年前。長男が産声を上げた日だ。
産まれたのは彼の意思ではない。
妻との出会いやコウノトリに巡るタイミングがあった。

外部的な要因で個が誕生した。
親や環境に恵まれて生を授かったわけである(宗教によっては諸説あるが)

両親がいなかったら今の人格はなかった。
もしかしたら別の生物として生きている可能性だってあった。
さまざまな因果が結晶のように重なってできたのが一応今の自分なのである。

誕生日について様々な考えを挟むようになったのはつい最近のことだ。

日常の延長がちょうど良い

父が亡くなり、命の影響力を感じたのも関係していると思う。
人は一人では生きていけないし、人生の終わりも定まっていない。

そんな不安定な個人だからこそ、生かされている日々に感謝したくなった。
それは特定の日だけでなくて、毎日に彩りを与えてくれる人であればその都度。

特別な日だからと言っても特別なことをするというマインドではもはやなくなってきている。日常の延長がちょうど良い。純粋にお祝いをくれる人には申し訳ない想いが、気持ちの過半数を占めている。

夕飯は普段の鶏団子鍋に、カキフライを食卓に追加した。
次男が食べたがっていたたい焼きを長男がおつかいしてくれた。
それをケーキ代わりにした。妻がプリンも作ってくれていて、イチゴと一緒にデザートを楽しんだ。

子供の頃と比べてもいくぶん質素だけど、とても満足だ。

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