1940年(昭和15年)8月に東京から新京(現:長春)に行く方法【前編】

時空の歪んだ「のぞみ」と「ひかり」の話に、さらに時空の歪みを加えたレスをして、ふと東京から新京(現:長春)に行くにはどのような経路があるのか、考えてみました。

参考)ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現:JTB)発行 満洲支那汽車時刻表8月号

注釈)本記事は、専ら鉄道趣味的観点での思考で製作されており、当時の本邦政府の政策を称揚するものでは一切ありません。


連絡経路

時刻表に記載されていた経路は以下の通りです。(注釈なき場合、経路は鉄道)
①東京~新潟~(航路)~羅津~図們~新京
②東京~神戸~敦賀~(航路)~清津~図們~新京
③東京~神戸~下関~(航路)~釜山~京城(現:ソウル)~奉天(現:瀋陽)~新京
④東京~神戸~(航路)~大連~奉天~新京
⑤東京~(空路)~新京

時間と費用

原題シチュエーションが「出張」なので、新京で午後1時からの会議に出席すると想定し、どれくらい前に東京を出発すべきか、時間を記載する。


①東京~新潟~(航路)~羅津~吉林~新京

航路は実は毎日出ているものではない
例えば、①の新潟~羅津の航路は、新潟発が「偶数日」しかない。
2日に1本しか出ていないということである。

従って、船の出港時間から、東京の出発時間を逆算することになる。
船の新潟発が15:00であるので、それまでに到着するとなると
上野をその前日22:35に出発する秋田行き703列車に乗ることになる。
この時代、東京~新潟は普通で13時間、急行で7時間かかり、午後はやめに到着するちょうどいい列車は存在しないのである。

こうして新潟港から清津行きの船に乗船すると、経由地である朝鮮半島の羅津港に到着する。ここで下船して鉄道に乗り換える。

タイミングよく9:00に出る新京までの直通急行があるので、これに乗ることとする。この列車にのると新京にはその日の22:50に到着する。

結論からすると新京で午後1時の会議に出席するためには
4日前の22:35に上野を出発していなければならない。
なお、ここまでの費用は34円49銭~95円98銭である。
教員の初任給が55円ということを考慮すると、現代では三等で通しても12万5千円ほどかかる計算である。


②東京~神戸~敦賀~(航路)~清津~図們~新京

②は①より到達困難である。
まず航路は月に6便、敦賀を「1」と「7」の付く日にしか出港しない。
また、東京~敦賀は月4日(5,10,20,月末)だけ、しかも2等車のみが敦賀に直通するという。
つまり、ほかの日は米原での乗り換えが必要となる。
本稿では、米原で乗り換える方法を記載する。

この経路では、乗船する前日の22:00に東京を出る大阪行き急行に乗車し、
まずは米原まで行く。

そして乗り換えるのが、なんと当駅始発の上野行き。
直江津経由で信越本線、高崎線を通って上野に行くそうだ。寝過ごしには注意。

敦賀港で約7時間待機し、ウラジオ行きの客船「はるぴん丸」か羅津行きの客船「気比丸」に乗船する。
いずれも、途中「清津港」で下船する。
なお、このうち「気比丸」は1941年にソ連の機雷に触雷するという事故で(当時はまだソ連と戦争状態になかった)沈没した結果、代船の手配ができるまで暫く運休されたとされている。

列車の出発までしばらく時間があるため、清津で朝食を済ませたいところだ。清津府の市街には国際ホテルや、浪花旅館というのがあったそうだから、おそらく朝食にありつけるであろう。
清津駅から黒竜江の満洲側である佳木斯行きの普通列車に乗車すると、途中乗り換えるために国境の駅図們で下車する。

図們は国境の駅であるとともに交通の一大結節点で、ここから「吉林」「牡丹江」「京城」「羅津」とほぼ4方向に分岐し、列車数も多いが、新京方面は途中「吉林」止まりが間に挟まり、次の列車に大分時間が空く。

結論からすると新京で午後1時の会議に出席するためには
4日前の22:00に東京を出発していなければならない。

なお、ここまでの費用は37円04銭~100円81銭である。
一見①より費用が割高に見えるが、新京での一泊が必要ない分、全体の出費としては②の方が安くなるはずである。

なお、新京の太陽ホテルの宿泊料が当時5円50銭~との由


後編に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?