母姉妹に残る戦争の暗い記憶
母の説明書+履歴書を書く
母が施設に入居後、しばらくして施設からの依頼で“母の人生の説明書+履歴書”のようなものを書くことになりました。
パーソン・センタード・ケアの考えに基づいて母のケアプランを準備して下さるためかと理解しています。
このパーソン・センタード・ケアについては私にはまだ未知。知りたいので別の機会に改めて触れようと思いますが、今はいったん置いておきます。
今回はその調査票を作成していた時に感じたある事について触れたいと思います。
母の子ども時代を叔母から知る
この調査票とは母自身と母の辿った人生の全てを語るもの。生い立ちから、入居するまでの母にまつわるすべてを記録しなければなりません。すでに母本人への聞き取りができなかったので、母とは一番繋がりの深い母の妹(私にとっては叔母)に結婚するまでの母について聞くことにしました。
85歳の叔母は、その年代には珍しく医療機関で長くカウンセラーをしてきた女性、引退しているものの記憶もまだまだクリア。子どもの頃から利発だったのか驚く程詳しい手紙を送ってくれた。
手紙には、住んできた土地、家族関係、母はどんな子どもだったか。そしてその頃の思い出などをかなり詳しく、さらには小学校の名前まで書いてありました。
戦争中だった幼少期から小学生
さて、母人生のほんの冒頭である幼少期、日本は戦時中でした。
予想に違わず、この頃に明るい思い出はほとんどなかったそうです。母は4人兄弟ですが、年齢が近い2人はいつも一緒だったそう。
そして叔母が、その頃の最も印象に残っていることとしてあげたのが、以下でした。2人が小学生の頃です。
実はこのエピソード、母が認知の症状が出るまで、事ある毎に私達は何度も母から聞かされていた事でした。
ただ、母から聞いていたのは
という内容でした。
多少の齟齬があるものの、2人の幼少期に印象に残っていたことは同じ事でした。数々あるだろう思い出の中で、一番印象に残ったのは“怖かった思い”だったんですね。
母姉妹が経験した空襲と恐怖
ところで2人が言っているのは、いつの話なんだろうと気になり、叔母が言うところの時期の、一家が当時住んでいた地域の空襲の記録をネットで調べてみました。
すると昭和20年終戦の少し前に、その地域に大きな被害を出した空襲があったことが記録されていました。祖父は職業柄地域を守り、祖母は幼い弟を見ていたと思われます。
昭和20年 母は10歳、叔母は8歳
この恐ろしかった出来事が、77年の時を経てもまだ二人に怖くて強烈な思い出としてこびりついていることが重い。
母は居室で文字放送でテレビを見ています。
自分のこともわからなくなってきた母なのに、泣きながら戦地を歩く子どもの映像や、荒れた街を見て、かわいそう、かわいそう、怖い…と嘆く。
あの泣いていた子ども達の恐怖心や悲しみは、彼らが80歳になっても消えない傷になるのだろうと思う。
サミット関係のニュースで語る、母世代の方を見ながら77年前の母姉妹を想った。
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