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#6 食べられるために生きるとは?

この世に生を受けてから死ぬまで、1畳のスペース内のみで生活することが出来るだろうか。

一軒の古着屋さんを求めて繁華街を練り歩いた休日、学生時代に無理やり走らされたマラソン大会、万歩計の数値が1日3桁以下を更新し続けてやるせなくなった自粛期間・・・。答えはNOです。歩いて移動し続けているからです。広い世界を知ってしまっているからです。


今日は宮崎県内にある養豚場の視察に行った。「豚」ではなく「豚肉になる豚」を見に。

農場内で目の当たりにする現実についてかなり注意をされた。過去に一度養鶏場でも同じように見学をしたことがあるのでそれなりに覚悟はしていた。つもりだったが、なぜか帰るとき少し申し訳ない気持ちになった。それは養豚場の従業員にも、のちに食材として出荷されていく豚にも。

理由は、私が持ち合わせているどの感情にも当てはめることができなかったからだ。正確には当てはめなかったという方が近い。


車を降りるとすぐに、養豚場特有の匂いが我々を襲った。正直かなり刺激が強かったが、ここで毎日働いている人を思うと自然と「臭い」という感情にはならなかった。

農場内に入る前、菌を持ち込まないために最初にシャワーを浴びた。正直かなり手間だなと思ったが、こうして毎日体を綺麗にすることで救える命があると思うと自然と「めんどくさい」という感情にはならなかった。


用意されていた作業服に着替え、豚舎に入ろうとしたが入り口には大量のゴキブリがいた。生きているのか死んでいるのかさえもわからない。正直何度も目を逸らしたが、こんなことで弱音を吐いていては前に進めないと思うと自然と「気持ち悪い」という感情にはならなかった。

いよいよ豚舎に入り、柵で区切られた一畳ほどのスペースで各々ご飯を食べたり、寝たり、排尿をしている母豚を見た。向きを変える事もできないほど狭いのでみんな同じ方向を向いていた。排便で汚れた体に何十匹ものハエがとまっていて正直かなり驚いたが、今までもこれからもこの環境の中でたくましく生きる豚の前では自然と「かわいそう」という感情にはならなかった。

次に妊娠をしている母豚を見た。お腹がはちきれんばかりにパンパンになっていた。正直痛そうと思ったが、一生のうち7回ほど出産するという母の強い意志の前で、1回も出産を経験したことがないガキが簡単に「頑張れ」なんてエールを送ることはできなかった。

最後に仔豚のいる豚舎で母乳を飲む小さな豚を見た。社員さんのご好意により抱かせていただいた。正直離したくはなかったが、数年後食卓に並ぶと思うと「可愛い」という感情にはならなかった。

新しい経験をして「楽しい」という感情にも、今まで口にしてきた豚に対して「申し訳ない」という感情にもならなかった。し、できなかったし、なってはいけないと思った。笑顔も涙も出なかった。出してはいけないと思った。

こうしてほとんど無言のまま視察が終わった。

生き物が相手なので1日たりとも目が離せない。「愛情」をかけて育てるが、決して「愛着」は持たない。そんな生産者さんへのリスペクトが止まらなかった。食への価値観がまた少し変わったような気がする。


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