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【無料記事】 TV Bros.総集編特大号 「モノクロ!3密! ブロスのデザイン特集」

ブロスといえば、薄っぺいわら半紙のような紙に独特の誌面デザイン。そこから情報の洪水が目に流れ込んできます。今号はブロス総集編ということで、そんな誌面を長年デザインしてきた「deza q株式会社」の2人のデザイナー、土田伸路さんと高井憲一郎さんに、ブロスの誌面作りの裏側をお聞きしてみましょう。また、デザイナーであると同時に彼らは、誰よりも先にブロスを読む一番最初の読者でもあります。ブロスの歴史は彼らの目にどう映って見えたのでしょうか?
取材・文/ラリリーマン金太郎 撮影/石垣星児

※この記事は現在発売中の『TV Bros.6月号 総集編特大号』で掲載している記事を転載したものです。


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(写真右)deza q組長 土田伸路 (写真左)deza q社長 高井憲一郎


ハルキストに糾弾されて ブロスのデザイン事務所へ

――もともと土田さんはどのような経緯で、ブロスのデザイナーをやることになったんですか?

土田(以下、土)「僕、最初はミュージシャンになりたかったんですよ」 ――え、そうだったんですか!

土「もともとシンセサイザーやっててね。それである日、電器屋で冷蔵庫買ったら、そこのお兄ちゃんがうちまで運んできてくれたんだけど、部屋にキーボードがあるのを見て、バンドに誘ってくれたんです」

――どんな音楽をやってたんですか?

土「ロック系でした。すごいプロ志向のバンドでね、今でもプロとして活動してる人もいますよ」

――なぜ土田さんはミュージシャンにならなかったんですか?

土「その頃、村上春樹が千駄ヶ谷で経営してたジャズ喫茶『ピーターキャット』でシェフとしてアルバイトしてたんだけどね、村上春樹が爆発的に売れる直前くらいに…」

――ということは、『ノルウェイの森』が発売された’87年の直前ですね。その年まさにブロスも創刊しました。

土「ご本人もまだその頃は店にいたんですよ。でも当時の僕は村上春樹の〝む〟の字も知らなくて、『なんか変なおじさんがいるな~』くらいでね(笑)。あと、バイトで熱心なハルキストたちがいっぱい来てて、みんなでいつも殴り合いのような討論をしてるの」

――その輪に参加したんですか?

土「僕は名古屋の田舎者でおふくろが郵便局員をやってたから、音楽がダメだったらいつか郵便局員になればいいとガキの頃から思ってたんだけど、そのハルキストたちからけちょんけちょんに言われたんですよ」

――そんなの人生甘すぎると?

土「そうそう。それで改めて自分探ししていたときに、バンドのつながりで塩澤文男さんという、ブロスの初代アートディレクターもいたプロダクションを紹介してもらったんですよ」

――それで土田さんはデザイナーとしてデビューしたんですね。

土「最初はカメラマンのアシスタントでした」

――え、そうだったんですか!

土「でもその後、コピーライターのアシスタントとか、だんだんいろいろやるようになったんです。事務所の人の知り合いの娘さんということで、当時3歳くらいの宇多田ヒカルちゃんが遊びにきて、ベビーシッターみたいなこともやりましたよ(笑)」

――えー、その話知ってたらブロスで連載オファーかけたのに!

土「10人くらいいた地下の倉庫事務所なんだけどね、まあ、めちゃくちゃなところでした」

昔のブロスのデザインは 棟方志功のような版画の世界

――それで塩澤さんの事務所に、ブロスのデザインの依頼が来るわけですよね?

土「WOWOWの偉い人にもなられた元映画ライターの方が、『今度、東京ニュース通信社からこんな雑誌が出る』と塩澤さんに話を持ってきてくれたそうです」

――それで土田さんもデザインをするように?

土「その頃はまだカメラマンのアシスタントだったので、僕がブロスに最初に関わったのは創刊から1年後くらいだったかな…。最初は資料の整理だとか、そういうことだけをやってましたね。それで徐々にデザインに興味を持ち始めて、塩澤さんのアシスタントのアシスタントというポジションでちょこちょこブロスのデザインをやるようになりました」

――最初はブロスのどこのデザインを?

土「最初は5センチ角のコーナーを任されて、だんだんその面積が広がっていった感じでしたね。そしたらある日、たまたまブロスの初代編集長の山下さんとエレベータで乗り合わせて、『お前か、最近汚ぇデザインばっかやってる奴は。だけどそれでいいよ!』ってお褒めの言葉をいただけたんです」

――それはうれしいですね。その頃は時期的にちょうどバブル絶頂でしたよね?

土「バブルだったみたいね。こっちは一切関係なかったけどね! 一番底辺だったから。給料3万だとか4万だったし、バブルなんてよその国の話みたいでしたよ」

――もちろん当時はまだアナログでデザインしてた時代ですよね。

土「まだ『版下(文字や図柄などが切り貼りされたデザインの原紙)』でしたし、『写植(写真の原理で印画紙に焼き付けれた文字)』でした。版下を作るのに印画紙を使ってたんだけど、それを薄く剥がして『字詰め(文字の間隔調整)』したりだとか、もう職人の世界」

――今のコンピュータでやるデザインとはまるで別世界ですね。

土「常に『ペーパーセメント(デザイン用の接着剤)』を片手に持って、『また文字修正…?』って絶望してましたね。一個文字を減らすと、全部ズレちゃうから。その頃のデザイナーはもう棟方志功の世界でした」

――もはや版画を作っている感じだったのか~。

土「これは多分、その頃のデザイナーあるあるだと思うんだけど、家に帰って肘を見たら『う』とか書かれた小さな印画紙が付いてるの。版下に貼られた写植の文字が、いつの間にか身体にくっ付いてるんですよね」

――漫画家さんのスクリーントーン話みたい。

土「そのせいでよく文字がひとつだけなくなったりしてね。コンタクト失くしたみたいに、どこだ~!? っていつも探してましたよ。それしかない文字だと、本当に辛かった。もう手書きでごまかすしかない」

――そう考えると、本当にコンピュータは偉大ですね。

土「コンピュータになったのは2000年くらいからかな。もう、タクシー運ちゃんがパイロットに転職するくらい別な職業って感じでしたね」

昔のブロスの表紙は なぜイラストだったのか?

土「当時の僕はまだアルバイトだったんだけど、本当はそのまま塩澤さんの事務所に就職する予定だったんですよ。しかし塩澤さんがタイへ撮影に行って、赤痢にかかってしまうんです。それで2カ月間隔離されることになって、食いぶちがなくなってしまった僕は別のデザイン事務所に就職したんです」

――どんなところに?

土「ブロスとは真逆のバリバリの広告デザインをやっている事務所でした。ちょうどバブルが終わるくらいの時だったけど、A4チラシ1枚ギャラ50万とかの世界でね」

――ブロスを一旦離れたんですね。

土「それがね、離れてなくてね。やっぱりブロスの仕事って楽しいし、お金も欲しいから、新しい事務所のトイレに画板を持っていって、こっそり〝闇営業〟してたんですよ。『お前はいつもウンコ長いよな』とか言われながら(笑)。それでお金を貯めて、アメリカとメキシコに放浪の旅に出たんです」

――ほうほう。

土「そしたらメキシコで生の豚肉食べてしまってね、次の日から高熱が出たんです。でも、そのまま旅を続行して、で、ついにニューヨークで倒れてICUに…」

――感染症ばかり!

土「日本に帰ってきても体調が戻らなくてね、体重もどんどん減っていく。帰国後にまた別のデザイン事務所に就職したんだけど、会社勤めもできないようになって、一旦名古屋の実家に戻って検査入院したんです。そこがブロスを一旦離れたタイミングですね」

――退院後は?

土「ちょっとのんびりしようと思って、名古屋の大手デザイン事務所に就職しました。だけど塩澤さんは1日置きに会社に電話してくるの。『お前何やってるの?』って」

――愛されてますね。

土「それで『やっぱりお前、東京に戻ってこい』と。『ブロスの担当ページも増やして、それでちゃんと飯が食えるようにしてやる』とまで言われたのでまた上京するんだけど、実際来てみたらあんまりページをくれなくて…(笑)」

――東京に帰ってきたのは何年ですか?

土「’93~’94年くらいですね。それでだんだんブロスの仕事が増えていきました。塩澤さんってアート系の方なので、細かいデザインはあんまりされないんですよ。昔のブロスってイラストが表紙だったでしょ?」

――そうでしたね。

土「だから常にイラストレーターが売り込みに来ていて、塩澤さんはその対応をしてました。僕らが棟方志功やってる隣で、『次これで行こう!』って盛り上がっててね。それ見て『楽な、いや、いい仕事だな』って思ってたな~(笑)。で、年末年始号になると自分のイラストを載せてました。あ、悪口じゃないんですよ!」

――(笑)。塩澤さんはもともとはイラストレーターなんですか?

土「画家兼ミュージシャン!。でも『マジソンスクエアーバッグ』も制作されたアーティスト(?)なので、4代目のブロス編集長・武内さんの時代に、塩澤さんは作家活動に専念すると言って、僕にブロスの仕事を譲ってくれたんです。その後も表紙だけは、しばらく塩澤さんがやられてましたけどね」

――なるほど、ブロスの表紙がイラストだったのは、後にも先にも塩澤さんがいたからなんですね。

土「うん。あの当時、ブロスの表紙に自分の絵が載るってのは、みんなの憧れでね。本当にそこの熱量は半端じゃなかった。ちなみに今、塩澤さんは京都のお寺に住み込んで障子に絵を描いているんですよ」

――は~、ブロスの表紙が今やお寺の障子になったんですね。

『テトリス』には ブロスのデザインの真髄がある

――高井さんはどのような経緯でブロスのデザイナーになったんですか?

高井(以下、高)「私は最初、別のデザイン事務所にいて、堅い広告とか製品カタログとか、そういうのを作ってました。それでつまらくなって会社を辞めたんです。で、半年間くらいぼーっとしてるときによくテレビを観てたので、ある日、テレビ雑誌を買ったんです」

――それがテレビブロスだったと?

高「そうなんです。一番安かったからです。それで中身を開いたら、及川光博のインタビューをやっていたんですけど、途中から級数がガクンと下がる(文字のサイズがぐっと小さくなる)んですよ」

――それは明らかに6代目編集長・小森さんの仕事ですね。

高「完全にそうですね。それで文字が小さくなる直前のページの片隅に『次ページからは極小の活字でお愉しみ下さい』って書いてあるんです」

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▲途中で文字が小さくなる及川光博のインタビュー(2002年11/24号掲載)。文字を通り越して、もはやただの模様か柄。小森編集長がもちろん担当。

――小森さんの、あのオネエボイスが今にも聞こえてきそうです。

高「それを必死になって便所で読みましたね。すげ~なって思いながら」

――読者を挑発してますよね。

高「ブロスは読者に厳しいですね。他の雑誌では、できないことですよね。それが面白いなあって思ったんです。そしたら、たまたま求人情報誌の『B-ing』に『ブロス作ってます。よろしQ~』ってここの事務所が載ってたんですよ。2003年~2004年くらいでしたね」

――それまでカチカチのお堅い仕事をしていたのが、一気にゲリベンのようなゆるゆる仕事になったんですね。 高「それが楽しいんです。毎回内容もデザインも違うじゃないですか」

――土田さんは新しく入ってきた高井さんに、ブロスをどうデザインしたらいいと教えましたか?

土「まず『とにかく情報は詰め込む』ってことと、あと、編集者から原稿や写真と一緒に“ラフ”っていう誌面の設計図みたいなものが送られてくるんだけど、『そのラフ通りにやっちゃダメ』って言ったかな。送られてきた要素を自分でアレンジしたり、プラス自分の色(モノクロだけど)を加えるよう伝えましたね」

――新人はどこのページからデザインするんですか?

土「最初はピピピクラブですね」

――それは編集者も同じです。駆け出しはみんなピピピクラブやらされます。

土「あと、うちは新人にまず『テトリス』を渡すんです。高井くんはもうデザイナーとしてのキャリアがあったから、渡さなかったけど」

――『テトリス』ってあのゲームの?

土「そうそう。レイアウトで隙間を作らない感覚をそれで学ぶんです。瞬間的にガンガン入れていくの。ブロスは隔週だし、編集者から原稿もらってその日のうちに印刷所に入れなきゃならないとかしょっちゅうだし」

――なるほど~。

土「ブロスにはホワイトスペースなんて世界はないし、最後の2ミリに至るまでいかに隙間を作らずに誌面いっぱいを使うのかを考えるので、テトリス的な瞬発力がとても大事になんです。特に特集は瞬発力が本当に大切」

――ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! と、カンフー技を繰り出していくような感じ?

土「そうそう。その場で考えるんじゃなくて、自分がすでに持っている“引き出し”の組合せが重要なの」 高「誌面の右上のほうのデザインをやりながら、なんとなく左下を考えている感じでやってましたね。それで(文字が)入るか? 入るか? 入るか? あ、入った入った! みたいな感じでしたね」

――確かにブロスの圧縮陳列ぶりはすごいですよね。他の雑誌の2~3ページ分の分量が、ブロスだと1ページに入ってますからね。 高「いつも『これ入るのかな…』ってなります」

――馬のおちんちんを見た乙女のようですね(笑)。

いろんな意味でちょうどよかった

2週に1度、隔週というサイクル

――創刊当初のブロスって、当時の社会の中でどんな感じだったんですか?

土「やっぱり役割があったよね。マイナーな人やマイナーな企画をやっていて、本当に『あれを見れば、新しい発見がある』っていう雑誌でした。それに手作り感がすごくあったし、とにかくなんでもありの本でした」

――手作り感かあ…。確かに編集サイドとしては、毎回文化祭の準備をしているかのような感覚でした。

土「読んでも作ってても面白かった。デザイナーとしては毎回工作している感じで、身の回りのものすべてが素材だったんですよ。アナログ時代だと『新しい書体を誰がいち早く手に入れるのか?』ってのもあってね。いろんなルートから試行錯誤して、新しい書体を入手するの。本当にブロスってのは、書体の見本帳みたいでした」

高「『この書体をどう使ってやろうか?』ってのはありましたね。特に小森さんとか、いろんな書体を使うと喜んでくれたイメージがあります。だからいっぱい使いましたね」

土「とにかくストレートにやるんじゃなくて、『何か変えてやろう』っていう気概がいつもあった。気づく人だけが気づいてくれたらいい的なギミックを入れ込んだりしてね」

――「ただじゃ済まさねぇ」ってのがブロス魂でしたもんね。

土「それに、隔週で出せるのがありがたかったです。今回ボツになっても『次また違うことを考えて出せばいいや』ってなれる、ちょうどいい間隔なんですよ」

――月刊になると全然違いますよね。

土「月刊になったら、もっといろいろ考えて作れるのかなって思ってたけど、全然そうはならないね(笑)」

――取り上げるネタにしても、特に今の時代なんて1カ月後のことなんてどうなっているのか分からないから、どうしても「映画が公開されます」「商品発売されます」といったプレスリリースみたいな誌面ばかりになってしまいます。

土「そうだよね」

――隔週は社会とのコールアンドレスポンスができて、なおかつそんな人員を必要としない絶妙のサイクルだったように思えます。

高「そうそう」

――なんかクレームが出るかもしれないっていう内容でも、隔週なら1週間だけじっと我慢してればいいし。

土「そういうのあったあったあった。『今は外出禁止令だ!』って(笑)」

――ところで、ブロスがギュウギュウなのは創刊当初からですか?

土「最初はそうでもなかったんだけど、徐々に増えていった感じですね。こんなに自由に書かせてくれる場もなかなかなかったから、書き手も言いたいことをたくさん入れてくるようになったんじゃないかな」

高「編集の人が『俺、これ本当に好きでやってるんです』っていうのが伝わってくるんですよね。圧がすごい。そうするとデザイナーも『これはなんとかせねばらぬ』という気持ちにもなるんですよ」

――そうやってだんだん文字と熱と圧が増えていったんですね~。

土「で、だんだん減っていって、最後はすっからかんになっちゃった(笑)」

高「月刊になってからは、スッキリしてしまいましたね…。書体もあんまり使っちゃいけませんしね…。まあ、今の雑誌全般に言えることではありますけど」

お別れに躊躇がいらない

ブロスは気楽な〝兄弟〟だった

――ブロスはずっとモノクロ誌面ばかりでしたが、カラー化したときはどうでしたか?

高「焦りましたね。『色を考えなきゃ!』って。確かカラー化は『あまちゃん』の特集が最初だったんですよね」

――2013年9/11号ですね。

土「長年モノクロばっかりやっててカラーに憧れはあったけど、いざそうなってみたら焦ったねえ」

――でも逆にモノクロにはめっぽう強いわけですよね?

高「グレースケールとか、パッと見で何パーセントか分かります」

土「色がないほうが、僕は面白かったと思うなあ。色でごまかせちゃう部分もあるし、色を使って全部見せちゃうと読者にとって想像の余地がなくなるじゃない。それにデザイナーとしても、一色の表現ってのはやってて楽しかったですね」

――色がないからこそ、誌面を情報でギュウギュウにしても圧力が過剰にならなかったってのもありそうですね。

土「あれをカラーでやったら、吐くだろうね」

高「前のブロスって、雑ないろんな情報がワチャワチャ入っているじゃないですか。それで紙の質も悪くて、モノクロで、値段もせいぜい200~300円くらい。だから“読んだら捨てる”っていうことに躊躇がいらないんですよ。で、また次のをまた買う。この気楽な感じが好きでしたね」

――確かに、捨てやすい雑誌でしたね。

高「読者によって様々だとは思うんですけど、ブロスの“取っておくようなものでもない”という点が私は好きでした」


変人編集長BEST5

第三者的な立場でおそらく一番ブロスの歴代編集長を知っている土田さんに、変人編集長を選んでもらいました。

※土田さんの私見であり、事実かは不明。


1位 6代目・小森さん(’00~’05年)

言わずと知れたオネエ口調の編集長
ビジュアル★★★★★/インパクト★★★★★
⃝写植を貼るために溶剤も置いてあったのだが、事務所に来るなりそれをカーと吸い込んでいた。どんどん上機嫌になって最後は千鳥足で帰っていった。 ⃝恵比寿の交差点で見かけたときは、めちゃくちゃでかい白マフラーをちょうちょ結びにして巻いて歩いてた。しかも片足を骨折しながら。 ⃝最後の最後までパソコンを使わなかった。その代わりにデスクには美青年俳優たちをインタビューした大量の録音テープが香港の街並みのように積み上げられていた。 ⃝パタリロ? ゲッツ?に似ている。

2位 初代・山下さん(’87~’90年)

役員にまでなった切れ者編集長
ビジュアル★☆☆☆☆/インパクト★★★★☆
⃝ブロスというか、もはや東京ニュース通信社全体の番頭みたいな人。 ⃝時代を読む力がすごい人だと聞いている。だからこそ30年以上続くブロスもできたんだと思う。 ⃝給料がすごく高かった?と聞いている。

3位 5代目・上田さん(’98~’00年)

常にいない編集長
ビジュアル☆☆☆☆☆/インパクト★★★★☆ ⃝できあがったページを最終確認する校了日にもいない。 ⃝奥さんすら行方がわからず、編集部まで来たみたい?ひょっとしたら奥さんが代わりに校了してたのかもしれない。 ⃝運良くその姿を見られた人は、怪獣ブースカに似ていたと語る愛されキャラ。 ⃝音楽とイベントが好きで『ブロスナイト』をやっていた。

4位 4代目・武内さん(’94~’98年)

オンオフが激しい編集長
ビジュアル★★★☆☆/インパクト★★★☆☆ ⃝音楽好きで『ブロスナイト』に出ていた。 ⃝普段はおとなしいが、そのときだけは弾ける。顔塗りしてシャネルズみたいな格好をしてステージに上がっていた。 ⃝音楽性は正直よくわからなかった。

5位 7代目・小田倉さん(’05~’10年)

ブロス魂を最後に継承したラストサムライ
ビジュアル★★☆☆☆/インパクト★★☆☆☆ ⃝節約家だが、もの作りということに対して真剣に向き合っていた最後の世代。 ⃝「もっと小田倉が真剣にその後もやりゃあいいのにさ~。口で言うだけでさ…それダメだよ書いたら!」

(了)

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