岡村靖幸×吉田美奈子 対談「自分の背中って、自分で押すしかないですからね」
岡村靖幸『あの娘と、遅刻と、勉強と』 note出張版
(ゲスト:吉田美奈子先生)
歌と、ライブと、自分の背中と
雑誌 TV Bros.で連載中、岡村ちゃんが気になる人に根掘り葉掘りインタビューする『あの娘と、遅刻と、勉強と』。今回のお相手は吉田美奈子さん。岡村ちゃんがリスペクトしてやまない「アルファレコード」のレジェンドの一人ですが、さてどんな話が飛び出しますか……。
(TV Bros.2020年10月号掲載分の追加ボリューム版)
おかむら・やすゆき●1965年生まれ、兵庫県出身のシンガーソングライターダンサー。
よしだ・みなこ●’53 年4 月7 日生まれ。’69年に交流を持った細野晴臣や松本隆などに影響を受け、楽曲制作を開始。’73年にキャラメル・ママのサポートでLP『扉の冬』で本格的にデビュー。そのほかCM音楽の制作や、他アーティストへの楽曲提供、プロデュース。さらにコーラス歌唱などスタジオミュージシャンとしても活躍。そのソウルフルで個性的なボーカルと自由自在な音楽活動は、多方面から評価、リスペクトされている。
取材・文/前田隆弘 スタイリスト/マスダハルミ
クラシック好きから、ラジオきっかけでR&Bへ
岡村 美奈子さんって、どんな環境で育ったんですか? 10代の頃はクラシックばかり聴いていたそうですが、それがどう変遷して今の美奈子さんの音楽になっていったのか、知りたいです。
吉田 父はキャンプ・ドレイク(現在の埼玉県朝霞市一帯にあった米軍基地)の消防部に勤めてたんです。だから小さい頃からルートビアとか、チェリーパイとか、アイスクリームとか、そういう……。
岡村 アメリカ文化があふれてたんですね。
吉田 基地の中にはPX(売店)があって、レコードでも何でもアメリカの物が売っていたんですよね。小さい頃にビリヤードやらせてもらったり、サイドカーが付いた兵隊のバイクに乗せてもらって、すごいスピードで走ってもらったりしていました。そうやってアメリカ文化には触れていたんですけど、兄がクラシックを目指していて、家ではクラシックをよく聴いていたんです。聴いてて特に良かったのはフランスの近代ものですね。ドビュッシーとか……。
岡村 ラヴェルとか?
吉田 そうです。他にストラヴィンスキーのスコアを見ながら聴いたりしてました。ストラヴィンスキーって変拍子が多くて複雑だから、子供心に「作曲ってこういうものなんだな」と思って、自分が作曲をやろうなんて思ってもいなくて。
── 自分で音楽をやり始めたのはいつから?
吉田 小学生のときは、合奏部に入れられてマリンバをやってたんです。中学に入ったら、ブラスバンドの顧問の先生が私がマリンバやってたのを知ってたから、「ブラスバンドに入れ」と言われて。私は「小さいからフルートをやります」と言ってフルート(*1)をやってたんだけど、ブラスバンドがティンパニを買ったんですよ。そしたら先生に「お前はマリンバをやっててロール(ドラムロール)ができるから、ティンパニをやれ」と言われてティンパニをやることになったんです。最初のコンクールで、16小節のティンパニソロがあったんですけど、それをやるには3つティンパニが必要なのに、部には2つしかなかったんです。それでいきなり高度なテクニックの奏法をやらされて、2年になったら、もうつまんないから辞めてしまって。そのブラスバンド部の2年上の先輩が、銀座のクラブでやってたバンドがあったんです。大木トオルさんがメインボーカルのバンド。そこで「コンボオルガンを弾いてくれ」と頼まれて、「Light My Fire」を弾いたりしてアルバイトしてたんです。中学のとき。
*1 大瀧詠一のファーストアルバム『大瀧詠一』収録の「指切り」で、フルートを演奏したのが、吉田のプロミュージシャンとしてのデビュー作。
岡村 中学生で……すごいですね。早熟ですね。
吉田 早熟というか、先輩に「やれ」と言われたからやっただけなんですけど(笑)。抜き打ちで刑事が来たこともありましたけど、補導はされませんでした。客ならともかく、まさかステージで演奏してるのが中学生とは思わなかったんでしょうね(笑)。
岡村 (笑)
吉田 夏休みにそういうバイトをやったりして、少しずつクラシック以外の音楽に触れるようになりました。一番のきっかけは、日曜日の昼くらいにムッシュかまやつさんと桜井ユタカさん(黒人音楽に造詣の深い音楽評論家)がR&Bを流すラジオをやってたんですけど、そこで聴いたアレサ・フランクリンの楽曲。「こんなにいろんな音域が出てグッとくる人はいない」と思って、それでR&Bを聴くようになりました。
岡村 それも中学ですか?
吉田 そうです。それとFEN(Far East Network。アメリカ軍運営のラジオ局)で日曜日の朝早くにやっていた『Amen Corner』という番組があって。それは日曜日のミサのための番組なんですけど、聴いているうちにゴスペルが好きになって。最初に買ったアルバムは、アレサ・フランクリンの『Lady Soul』です。
エイプリル・フールとの出会い
── 高校生になってからはどうだったんですか?
吉田 その先輩に「レッド・ツェッペリンの『Good Times Bad Times』の頭抜きの3連キック(*2)をきちんと踏めるやつがいるから聴きに行こう」と連れられて行ったのが、エイプリル・フール(小坂忠、細野晴臣、松本隆らが在籍したバンド)だったんです。松本隆がドラムで、ストト・ストト・ストトみたいに踏んでて、「ああ、本当にやってる」と思って。それでライブに通っていたんですけど、エイプリル・フールって当時、東京キッドブラザースというミュージカル劇団のバックバンドをやっていたんですよ。それで「新しい出し物で歌える人がいないので歌ってほしい」と言われて、ペーター佐藤(ミスタードーナツのイラスト等で知られるイラストレーター)と一緒に歌わされました。人前で歌うようになったのはそれからですね。
*2 ジョン・ボーナムが同曲で披露した奏法。ツーバスではなくワンバスでストト・ストト・ストトのようなリズムを刻む。俗に「バスドラ頭抜き3連」と言われる難易度の高い奏法。
── 高校に通いながら?
吉田 高校は音楽の学校で、2年で辞めました。「音楽の学校に通っているなら、曲書いたりできるでしょ?」と松本さんや細野さんに言われて少しずつ曲を書き始めて、できた曲を「これどうですかね?」って見せたら「大丈夫じゃない?」と言われて、それでライブを始めたんです。ライブをやるとお金がもらえるし、いろいろ頑張ってる人たちと知り合えて、その背中を見ているほうが勉強になるな……と思って、高校を2年で辞めることにしたんです。
岡村 ものすごい早熟ですね、やっぱり。
吉田 そういうの、早熟って言うの? やっぱり自分のことがやりたいし、そっちのほうが楽しいから辞めたんですよね。
── そういえば、松本隆さんが「家出してきた吉田美奈子を押し入れにかくまった」という当時のエピソードを語っていたのを見たことがあります。
吉田 私、家出してないですよ。夜中まで話をしていると電車がなくなって、「じゃあうちに来なよ」と言われて西麻布の家に行ったんですけど、でも家の人はいるわけです。それで「見つかったらまずい」と思って隠れてただけで。あの人は当時の私をよく「家出少女」と言うんですけど、「それは不遜だ!」と本人に言いました(笑)。
──おしゃべりをする溜まり場みたいなのがあったんですか?
吉田 ペーターの家が四谷にあったんです。そこに2段ベッドが2つ置いてある部屋があって、東京キッドブラザースの役者さんやミュージシャンがたくさん来てたんですね。後藤次利や斉藤ノヴも出入りしてた。そこから学校に行ったりもしてました。ペーターは当時コラージュをやっていて、私も手伝ったりしてましたね。
岡村 当時、ペーターさんや細野さんや松本さんの近くにいて、いろんな影響を受けたりしましたか?
吉田 それはもちろん。ローラ・ニーロを教えてもらったりしたので。
岡村 シンガー・ソングライターの。
吉田 そうです。彼女が一人で作った『New York Tend aberry 』というアルバムが素晴らしくて。そういう都会の音楽を全部教えてもらいました。
岡村 スライ(&ザ・ファミリー・ストーン)は当時どうでした?
吉田 スライは、細野さんが一番好きなのが『暴動』のアルバムなんです。それでスライも聴きました。
岡村 後に美奈子さんはファンクのど真ん中に行かれるから、やっぱり当時スライのようなファンクも聴かれてたんだろうなと思って。
吉田 聴きましたね。最初にファンカデリック(*3)が来日したときには、対談してみんなお友達になりました。
*3 ジョージ・クリントンが結成したP ファンクバンド。
──高校を中退したということは、16~17歳くらいから音楽で生計を立て始めたわけですか?
吉田 いや、辞める前から立ててましたね。だから辞めたというか。糸井重里を起用する前の時代の西武で、1週間ライブをやったりしてましたから。そのときはピアノがないので、ギターをオープン・チューニング(*4)にしてやってて。後にジョニ・ミッチェルのオープン・チューニングと同じだったと知って、すごくうれしかったですね。
*4 どの弦も押さえない開放弦の状態で鳴らしたときに、特定のコードが鳴るようなチューニング法。ジョニ・ミッチェルは「オープンG」をはじめ、50以上の変則チューニングを使い分けていたと言われる。
岡村 えっ、それは偶然ですか? けっこう複雑なチューニングなんですよね。
吉田 もう偶然です。ジョニ・ミッチェルのサイトを見たら、同じようにチューニングしてた。
岡村 ここ数年、海外の人たちが美奈子さんや(山下)達郎さんのアルバムを買い漁ったり、再評価というか再発見……ディスカバリーしている印象があります。若い子たちもそうです。そういった現象については、どう感じてらっしゃいます?
吉田 個人的には「あんな軟弱なものを聴くのか」という気持ちはあるんですけど、それを選んで買って、好きだと言ってくれることはありがたいですよね。ついこないだもジェイ・Zがやってるレーベルで、「TORNADO」(アルバム『MONOCHROME』収録)をループさせて、その上で女性ボーカルが歌っている曲(*5)がリリースされたんです。あとでお聞かせします。
*5 レーベル「ROC NATION」からリリースされた、アンジェリカ・ヴィラ「All I Do Is 4U」(同名アルバムに収録)。
岡村 ぜひぜひ。
吉田 それは許諾を得た上でのサンプリングなんですけど、中には著作権侵害のものもあって、「TOWN」という曲では今年の6月に公式にやっと謝罪を受け合意に至ったんですよ。
岡村 クラブカルチャーの人たちが「TOWN」を大好きでよくかけてて、それは素晴らしいことだと思うんですけど、アスクがないままリミックスしたりするのは良くないことですよね。
──曲作りを始めて、ライブも始めて、それでアルバムデビューしたのが『扉の冬』。
吉田 その前に、マッシュルーム・レコードから最初のアルバムを出す話があったんです。村井(邦彦)さんや川添(象郎)さんのいたレーベル(*6)。18歳の頃に出してと言われてたんですけど、まだライブやってるほうが面白いし、曲をせわしなく書くのも嫌だったし、契約はしたけど結局辞めちゃって。その後、ショーボートというレーベルで、キャラメル・ママに演奏してもらって出したのが『扉の冬』なんです。作家として何か成功しようという気持ちは最初からなかったんですよ。音楽自体が面白いし、お金ももらえるし、それでやっていたというのが正直なところですね。
*6 後にその2人が中心となりアルファレコードを設立(前回の村井邦彦対談を参照)。
歌詞については何の影響もない
岡村 美奈子さんの音楽を聴くと、ファンクだったり、ブラックミュージックの傾向もあったり、内省的な弾き語りみたいのもやってらっしゃいますよね。僕はミュージシャンなので、音楽を聴くと分析したくなるんです。「ああなるほど、これはこの影響でこうなったのか」みたいに自分で系統立てたくなる。でも美奈子さんの音楽はそれができないんです。
吉田 そうですね。自分で「今はこれが面白い」と思うものをどんどんやっているだけなので。少なくとも世間とはまるで関係ないです(笑)。
岡村 だいたい誰の音楽を聴いても、「この系譜で、この影響下で、こういう音楽を聴いて自分なりに消化しているんだろうな」と分かるんですけど、美奈子さんの音楽はすごくオリジナルで、影響が見えないんです。「こういう歌詞は誰の影響なんだろう」と考えたりするんですけど……。
吉田 歌詞については何の影響もないですね。
岡村 だから僕にとって、あまりにもオリジナルでミステリアスなんです。美奈子さんの音楽は時代ごとにその色合いが変わっていくので。
吉田 私、予定調和のものが大嫌いなんです。前衛性を持ったものの方が好きなんですね。フランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションの出鱈目に聴こえるアンサンブルも好きだし。数年前に、教会でパイプオルガンを使ったコンサートをやったんですけど、なぜ教会のパイプオルガンを使いたかったかというと、マザーズ・オブ・インヴェンションのライブでパイプオルガンを使って「Louie Louie」やってるんです(アルバム『Uncle Meat』に収録)。それがめちゃくちゃカッコよくて、ずーっと脳裏にあって。それで自分のコンサートでパイプオルガンを使いたいと思ったわけです。
岡村 そういう流れなんですね、面白い。最近はピアニストの方とアルバム(*7)を出されてますし、本当にどファンクの編成でやられたこともありますし、教会音楽のような音楽もやってらっしゃるし、本当に変幻自在ですよね。
*7 小島良喜との共作によるアルバム『The Duet』。
吉田 本当はすごく不器用なんですけどね(笑)。
岡村 10代の頃、どんどんいろんな音楽を吸収して、20歳でデビューされますよね。自分の詞を書いて、達郎さんの詞も書いて、作詞家としていろんなアーティストに詞を提供されてますが、デビューするまでに詞を書く訓練はされたんですか?
吉田 訓練はしてないです。
岡村 あふれるように詞が出たんですか?
吉田 私、フィクションで書くことはあまり好きじゃないんです。いろんなものを見て観察して、その感想を言葉にするのが好きなんですけど、フィクションだと自分で「嘘をついてるな」と思ってしまうので。
岡村 感じたことや体験したことから書く。
吉田 そうです。そういうことに基づいて書きます。最初のほうは詞を先に書くことが多かったんですよ。それは松本さんから「詞から書いてみたら?」と言われて、それで先に詞を書いてたんですが、だんだん曲が先になって、それに詞を当てはめるようになっていきました。でもその都度その都度で、(どちらが先かは)変わっていきますね。例えば山下(達郎)君に詞を書いたときは、あの人、曲作るのめちゃくちゃ遅いんですよ。それで彼の最初のソロアルバムでは一緒にニューヨークやロスに連れて行かれて、ホテルの隣の部屋でずっと待ってるとラジカセで音源が来る、みたいな状態で書いてました。本当にタイトロープなレコーディングだったんですけど、そういうのは山下君で訓練されましたね。
歌う人がスムーズに歌える歌詞が一番いい
岡村 美奈子さんはある期間、達郎さんに詞を書かれてましたけども、どんな経緯だったんですか?
吉田 あの人は、詞に関してはコンセプトがないんです。「自由に書いてくれ」と言われたので、「じゃあ試験的なことも全部やろう」と思って、日本語と英語の韻を踏んだり、そういうことも全部やらせてもらって、すごく勉強になりました。
岡村 ダンスミュージックに言葉を乗せる難しさや、都会的なイメージを表現することを両立するのは大変なことですよね。
吉田 そうですね。でも自分も歌を歌うわけで、するとやっぱり基本的には「歌う人がスムーズに歌える歌詞」が一番いいと思うんです。でもそれを追求すると、「詞が残らない」と言われるんですけど。商業作家が書く詞は、角があったりつっかえたりするところがあるから、そこを上手いこと拾って(曲に活かして)ヒット曲にするのがだいたいのパターンなんです。私の場合は、「歌詞が流れちゃって内容が入ってこない」とよく言われてたんですけど、でも歌いやすいに越したことはないし、韻を踏んで意味を膨らますことに越したことはないと思っているので、そっちにずっと専念してますね。
岡村 セクシャルな、色っぽい歌詞もたくさんありますよね。それも考えてみると、日本でソウルミュージックやファンクやR&Bをやろうとすると当然の帰結ではあるんでしょうけど、それまでそれをできてた人たちがいなかったから、美奈子さんは先人のエッセンスを取り入れるよりも、半分発明のような形で作られてたんだろうなと思います。
吉田 そうかもしれないです。
岡村 恋愛の歌詞も素晴らしくて、切ない、悲恋の歌詞もたくさんありますし。いろんなアーティストも美奈子さんの影響を受けたんじゃないか……もしかしたら達郎さんも。
吉田 コーラスもずっと手伝ってましたからね。
岡村 そういうことはすごく感じます。ある時期まで、達郎さんの詞を担当していたわけじゃないですか。詞というのはアーティストのメッセージでもあるし、そのアーティストの雰囲気を決めるものでもあるし。
吉田 確かに、そういうところはありますね。
岡村 だから、ある時期まで達郎さんのメッセージやムードみたいなものを、美奈子さんが担当してたんですかね。
吉田 言ってみるとそうですね。
岡村 都会的であることも含めて美奈子さんが作られてきた感じというのは、達郎さんの中で引き継がれてる気がします。
吉田 「こういうのを書いて」というのがなかったから、本当に自由に書かせてもらいましたね。レコーディングのスケジュールが決まってたから、3日で5曲書いたこともあった(笑)。
岡村 でもそれだけ美奈子さんに全幅の信頼を持ってたんですね。
吉田 でも途中で何だか嫌になって、私のほうから辞めました。
岡村 そうなんですか! でもその後も美奈子さんのアルバムに参加されてましたよね(『EXTREME BEAUTY』)。あれは感動的でした。
吉田 まあいろいろあるけど、でも歌い始めちゃうと音楽に専念する2人なので(笑)。
自分の背中は自分で押すしかない
岡村 歌詞で苦しまれることもあります?
吉田 苦しむことありますね。自分の歌詞も締め切りがないと作らないほうなんで。
岡村 僕はもう苦しくて(笑)。
吉田 (井上)陽水さんも歌詞を作るのが苦しいと言ってましたね。岡村さんは、かなり韻を踏んだものをお作りになってるでしょ。
岡村 そうですね。それは気を付けてます。
吉田 でもスルスルっと書けたような曲もあるんでしょ?
岡村 たまにありますけど、基本苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんで作ってます。一筆書きのように書けることはあまりないですね。
吉田 A(メロ)から書くんですか?
岡村 そうですね。サビから書いたほうがいいんでしょうか?
吉田 いや、私もほとんどAから、頭から書いていきます。ただ、基本になるコンセプトになるような言葉はどこに置くか、タイトルにするか、というのはかなり考えます。英単語のタイトルって、イメージは膨らむんですけど、安易だなと思うときもあって、そこを気にするときはありますね。
岡村 達郎さんがコーラスをやられた「BEAUTY」という曲(*8)がありますよね。あの歌詞が大好きなんです。
*8 アルバム『EXTREME BEAUTY』に収録。
吉田 ありがとうございます。日本であの感じをやった人って、きっといないですよね。だからあの曲を作ったとき、「あ、新しい流れができたな」と思いました。
岡村 ああいう歌詞、僕は初めて見ました。あの公園にいる主人公は、どういう流れでそうなったかは分からないけど、「あなたの描く恋がうまく行く様に」と書かれているから、もともとは相手と恋仲だったのかもしれないですよね。「どうやってその境地に達したんだろう」と考えてしまいます。
吉田 私ね、実は人間に恋してるわけじゃない詞が多いんです。人間と思ってくれても別にいいんですけど、書いてる本人はそうじゃないこともけっこう多い。希望を愛や恋に託すという。もしかしたら自分自身の背中を押すために、書いてるのかもしれないですね。たった一人だと寂しいし、自分が作ってるものがいいのか悪いのか、客観的には決められない。そういう中で、「まだ不安は残るけどきっとこれでいいだろう」と思って発表してるわけじゃないですか。そのために自分の背中を押してあげる、という詞がけっこう多いです。
岡村 感動的ですね。この曲を聴いたときにも感動しましたし、今の話を聞いてまた感動しました。
吉田 自分の背中って、自分で押すしかないですからね。
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