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夏の夜の終わりに ⑱

 目が覚める。僕は枕元に置いてあるスマホを手に取る。時刻は十八時だった。窓の外から差し込む光は赤オレンジに染まっている。カラスの鳴き声がする。とても悲壮感の溢れる声だった。
 リビングに降りると、ダイニングテーブルの上に食事が用意されていることに気付いた。
 『陽一、朝ごはんを置いておきます』
 それはいつも通りの書置きだった。僕はそれを見て少しだけ笑ってしまう。お母さんは一晩僕がいなかったことに気付いていないのだ。結局、僕の存在などその程度なのかもしれない。
 僕はサランラップに包まれた目玉焼きとハム、味噌汁に口を付けた。どれも夏とは思えないほどに冷たかった。食べ終えた食器を流し台に食器を置いて、すぐに自室へ戻った。そしてベッドに寝転がり、また天井のシミを見ていた。とても退屈な時間だった。彼女と見ていたシミはとても魅力的だったのに、自室のシミはどうしようもなく下らないものに思えた。僕はそんなシミを見つめながら、ひたすらに夜を待った。赤オレンジの夕焼けは徐々に薄暗さを覚え、次第に色味を失った。そして窓から入る光は消えた。僕は体を起こして、スマホを確認する。時刻は十九時半だった。僕はベッドの下に散らばっていた黒のTシャツに袖を通す。黒くなった僕の体は、まるで夜と一体化したように思える。適当なジーンズに足通し、自室を出る。何となく足取りは軽かった。
 洗面台で顔を洗い、シャワーで髪を流してドライヤーで乾かした。そして僕は家を出た。向かう先は決まっている。お母さんは残業の為か帰ってきていなかった。でも問題はないだろう。息子が一晩いなくても気づかないような親だ。帰ってきて息子がいなくとも気づくはずなどない。朝食の食器が空になっているという事実が僕の生存報告であり、お母さんの生存確認になるはずだ。
 
僕が山の空き地に着くと、彼女が「やあ」と声を掛ける。フェンスに両肘を掛けたまま、後ろを振り返っていた。「早いね」僕はそう言い彼女の隣に向かう。そして同じようにフェンスに肘をかけた。
「ねえ」と彼女が言った。
僕は彼女に顔を向ける。彼女はとても朗らかな表情で言った。
「お母さんの容態が、あまり良くないの」
 
 
 翌日、彼女は空き地に来なかった。
 その翌日も、彼女は空き地に来なかった。
 まるで夜に飲まれたかのように、彼女は姿を消してしまった。
 
 
 それからも、僕は毎日空き地に通った。けれど一度も彼女が姿を現すことは無かった。それはもしかしたら母が一刻を争う状態になっているためかもしれないし、夜の仕事が忙しいためかもしれなかった。彼女が何かをしている間、僕は一人で月を見ていた。そして彼女のことを考えていた。もしかしたら彼女にはもう会えないかもしれない。僕の中にある本能的な何かがそう思わせていた。そう思えば思うほど、心の中にいる彼女が次第に薄れていった。彼女のいない夜の空き地は必要以上に広々していたし、妙な寂しさがあった。一人で見る月はぼんやりと悲し気な光を放っていた。
 僕は日付が超えるまで月明かりを眺め、そして家に帰った。そんなことを毎日繰り返していた。夏休みは一日二日と過ぎ、残り三日になっていた。月明かりに目を向けながら、僕は三日後の自分を想像する。けれど想像出来るのは月明かりの下にのっそりと姿を現す自分の姿だけだった。学校に行っている自分など全く想像出来なかった。そしてその想像の中に、彼女はいなかった。まるで元々そこにいなかったかのように、綺麗に姿を消してしまった。
 けれど僕は必死に、彼女の姿を思い出していた。月明かりの下で彼女の優しい手のひらを想像して、彼女の無邪気な笑顔を想像した。そして視線を変えて、ネオンライトの空で彼女の黒いキャミソールを想像した。彼女の体温を想像した。彼女の柔らかい体を想像した。彼女の髪の匂いを想像した。そして僕は月夜の空に彼女の姿を具体化させた。月明かりに照らされた彼女を見て、僕はほっとと胸を撫で下ろす。僕の中には確実に、彼女がいるのだ。
 僕は月明かりに背を向ける。
 また一日、夏休みが終わった。

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