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夏の夜の終わりに ⑲

 彼女と再会したのは、夏休み最後の夜だった。
その日もいつも通り夕方に目覚め、適当に食事をした。そして日が暮れるまで天井のシミを眺め、ゆっくりと時間の経過に身を任せた。室内が暗くなると適当な洋服に着替え、夜道に繰り出した。特別に僕と彼女の因果律を崩す何かをしたわけではないと思う。何故なら僕はまるで精密機械のように寸分のずれもなく、変わらぬ日々を過ごしていたのだから。ここで僕と彼女が再会したのは奇跡でも何でもなくて、元々決まっていた因果に沿う結果だった。その因果に沿う為にも、僕は日々天井のシミを見つめる必要があったのだ。
 僕が空き地に着いた時、彼女はフェンスに両肘をかけて月を眺めていた。光り輝く三日月だった。三日月の下にはふわふわと雲が行き来している。その光景はまるで雲に三日月が乗って移動しているようにも見えた。
 僕はゆっくりと彼女に近づいた。普段なら自然と振り返る彼女だが、今日は全くそんな素振りも見せない。僕は少し足音を強くする。しかし彼女は振り返らなかった。
 彼女の隣に着くと、僕はフェンスに両肘を乗せた。そして「久しぶり」と彼女に声を掛けた。
 「久しぶりね」と彼女が返す。彼女は僕に目を向けず、三日月を見つめていた。
 「余程集中して三日月を見ているんだね」
 「そんなことはないわ。君が来たことには気づいていたもの」
 「全く気付いていないのかと思ったよ。普段の君なら振り返るはずだからね」
 「振り返りたくない時もあるのよ」
 「そっか」
 僕は彼女の見つめる三日月に目を向ける。そして「どうして泣いているの?」と訊いた。
 「気づいていたのね」
 「そんなに泣かれて気づかない人なんていないよ」
 「夜ならばれないと思ったのに」
 「生憎僕は夜目が効くんだ」
 「そうだったわね」
 彼女は涙を流したまま、僕に顔を向けた。彼女はとても綺麗な表情で涙を流していた。まるで無意識のうちに零れているような、そんな涙だった。彼女は涙を頬に垂らしたまま、微笑んだ。
 「君には敵わないわ」
 「どうして」
 「だって、ちゃんと来てくれるんだもの。ここ一か月近く私はここに足を運ばなかったのに。こうもタイミングよく会えるとは思わなかった」
 「生憎僕は毎日ここに来ていたんだよ。これは僕のルーティンワークなんだ」
 ふふ、と彼女は口元に手を当てて小さく笑った。
 「君はとても律儀なのね」
 「そうする以外になかったんだ」その後ろに「君に会うためには」と続ける予定だったが、気恥ずかしくなってやめた。
 「ねえ」と彼女は広葉樹の幹を指差した。
 「あそこに座らない?少し立っているもの疲れちゃった」
 「いいよ」僕らは広葉樹の根本に腰を掛け、肩を触れ合わせ三日月に目を向けた。彼女はまだ泣いていた。まるで梅雨の雨のように、止む気配はなかった。
 しばらく、僕らは口を開かなかった。雲で見え隠れする三日月を眺め、肩に彼女の温かさを感じていた。三日月が雲で全て隠れてしまうと、「ねえ」と彼女が口を開いた。
 「お母さん、死んじゃった」
 とても淡々とした口調だった。まるでそこに感情がないような、そんな口調。もしかしたら感情は涙と共に流してしまったのかもしれない。そう疑いたくなるほど、彼女は冷静だった。
 「そうだったんだね」
 僕も淡々と答える。そうする以外にいい方法が見つからなかった。
 「うん。少し前にね」
 「ずっと、お見舞いに行っていたんだね」
 「そう。君は私が来ることを望んでいてくれたのに、ごめんね」
 「一言もそんなことは言っていないよ」
 「顔がそう言っているのよ。君は私を見た時にとても安心した表情をしたでしょう」
 「君には敵わないね」
 「お互いさまにね」
 雲の隙間から顔を覗かせた三日月が、ぼんやりとした光を僕らに当てる。月明かりに照らされた彼女を、僕を、互いに見つめる。そして微笑み、優しく唇を重ねた。
 「ふふ。君といると全てのことがどうでも良くなるわ」
 「何となく分かる気がするよ」僕は頷いた。
 「お母さんが死んじゃったことも、私が体を売って生きていることも、学校で虐められていることも、全てがどうでも良くなる。君とここにいると、私の身に起きた全ての事象が嘘みたいに思えるの。この月明かりみたいに全てがぼんやりとして、消えてしまう」
 彼女の横顔から涙は消えていた。代わりにとても朗らかな笑みを浮かべている。
 「それは君にとっていいこと?」
 僕が訊くと彼女は首を横に振った。
 「いいえ、いいことではないわ。そうしたら、君のことも全て消えてしまうから」
 彼女は僕の肩に頭を乗せる。「ねえ、これからどうしていけばいいと思う?」
 「誰か頼れる人はいないのかい?」
 「いないわ。お父さんもいないし、祖父母はもう死んじゃってる」
 「そっか」
 「ねえ、このまま私とずっと一緒にいない?なかなか楽しい生活になると思うけど」
 彼女は僕の肩に頭を乗せたまま、上目遣いをして言う。
 「確かに、それはとても魅力的だね。でも、子どもだけでどうやって生活していこうか?」
 「そんなの簡単よ。変わらず私が体を売って、君が何処かでアルバイトをする。そうすれば案外楽に生活できるはずよ」
 僕は彼女に視線を向けて、一度彼女の頭を撫でた。変わらず彼女の髪は柔らかかった。そして優しい柑橘系の香りがした。
 「でも、僕は君に体を売って欲しくないんだ。そういうことをしている君の姿を想像すると胃の奥がむかむかしてきてしまうんだよ」
 「あら、私の心配をしてくれているの?君はとっても優しいのね」彼女は僕の頬に手を当てた。
 「いいや、そうじゃないさ。僕自身の心配をしているんだ。他の男と寝ている君を考えると頭がおかしくなってしまうからね」
 「それはきっと、私に恋をしているのね」
 「そうかもしれないね」
 僕らは互いに見つめ合い、もう一度唇を重ねた。
 「本当に君と何処かに行けたらいいわ。でもそれは現実的なことじゃないの」と彼女は言った。
 「そうかもしれないね」と僕は答える。
 「きっとね、明日になれば私は学校に行って、きっと君は学校に行かない。そして私は何処かの養護施設に保護されて、普通の十七歳が送るような生活を強要される。この社会は決まり事が多すぎるのよ。別に女子高生が体を売りながら一人で生活していてもいいじゃない。だって、実際に高校に行かずに働いている子もいるんだから。そうするほうが楽な子だっているのよ。でもそんなことをすると未来が大方決まってしまう。自分自身でも驚くほど爆発的なことをしないとね。でも私にはきっと出来ない。自分の体を売る度胸はあっても、自分自身で何かを創り出す度胸はないのよ。結局、私は否定されるのが怖いのね。だから、私は虐められても学校に行って、何とか大学にも行く。自分自身で何かを創り出さなくてもいいようにね。結局社会は形式的に物事を進めていくことが一番簡単なのよ」
 「ねえ、少し私を抱きしめて」
 彼女に言われるまま、僕は彼女を抱きしめる。やはり彼女の体は柔らかく、とても暖かかった。
 「私がどうしてここに来ているか分かる?」
 「月を見に来てるんじゃないのかい?」
 「違うわ」と僕の腕の中で彼女は首を振った。
 「月なんてどこでも見れるもの。私がここに来ているのは、君に会うためよ。名前も知らない君にね」
 彼女は僕の腕の中で微笑んでいた。そして恥ずかしそうに、僕の胸に顔を押し付けた。
 「僕もだよ。僕も、月なんてどうでも良かった。元々外に出るのはあまり好きじゃないんだ。それでもここに来ていたのは、君に会うためだよ。名前も知らない君にね」
 「良かった」
 腕の中で、彼女の質量が増した気がした。どうやら彼女は全身の力を抜いたようだ。彼女の重みが僕の腕の中で充満する。それは彼女の命そのものの重みだった。
 「君はこれからどうしたい?」と僕は訊く。
 「そうねぇ」と彼女は僕の腕の中で考える。
 「これから先もずっと君と一緒にいたいわ」
 「僕もだよ」
 「良かった」
 「一緒にいるのなら、名前を教えたほうがいいかい?」
 僕が訊くと、彼女は腕の中で首を横に振った。
 「名前はいらないわ。君は何者でもない君のまま、私の隣に存在していてほしいの。名前はある種の鎖になるから。名前がないみたいに、何にも縛られない関係がいいのよ」
 「確かに、それくらいが丁度いいね」僕はまた彼女の頭を撫でた。
 「でも、全ての時間を一緒にいるわけにはいかないわ。だって世界が許してくれないもの。互いに学校に行って、それから仕事をして、形式的な日常の行事が終わった後の時間をゆっくり二人で楽しむの。それくらいが丁度いいわ」
 「二人で月明かりの下に出るみたいにね」
 「そうね」彼女は僕の腕の中から顔を覗かせ、柔らかい笑みを見せた。
 「それから、この世界を退屈に感じたら二人で三日月に腰を掛けて世界を見るの。何だかんだいい世界だったね、なんて話ながらね。でも、それは大分先の話。世界はとても広いから、退屈に感じるのは今から何十年も先の話になると思うわ。でもそんな終着点があると思と、絶望的な今も必死に生きてみようと思えるね」
 彼女は三日月に指を指しながら話した。僕は彼女の指先を見つめ、それから指先に光る三日月を見た。そこには僕と彼女が腰を掛けて微笑んでいた。今より数倍も年を取った姿で。でもそんな僕らの姿はとても美しかった。
 「きっと素晴らしい景色が見えるんだろうね」
 「きっと見えるわ。君と見る景色は何でも美しく思えるもの」
 彼女は三日月を見つめながら、そんなことを言った。そしてまた僕の腕の中に顔を埋める。 
 そして僕らはそのまま、永遠とも呼べるほど長い時間を過ごした。実際のところあまり時間は経っていなかった。しかし僕らは確実に永遠の時間を過ごしていた。あるいは、ずっとこうしていたいという僕らの願いが叶った結果かも知れなかった。まるで時間の流れに取り残された古代遺跡のように、僕らはそこに存在していた。
 
 それからまた、彼女は姿を暗ましてしまった。
 翌日、僕は学校に行かなかった。夕方に目を覚まし、月明かりの空き地に向かった。彼女は来なかった。
 その次の日も、僕は学校に行かなかった。夕方に目を覚まし、月明かりの空き地に向かった。彼女は来なかった。
 その次の日も、僕は学校に行かなかった。夕方に目を覚まし、月明かりの空き地に向かった。彼女は来なかった。
 
 そんな生活を一週間ほど繰り返すと、八月は終わった。今か今かと待ちわびていた九月が顔を出し、少しだけ夏の雰囲気を奪い去った。しかしまだ暑さの名残は確実に残っていた。いつの間にか蝉は声を減らし、次第に消えてしまった。それは蝉という種の絶滅にも思えた。

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