![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/112317902/rectangle_large_type_2_1f063ff6ec503ba1e054d460496306b2.jpeg?width=1200)
「君たちはどう生きるか」へのいまの私の応え
前情報が一切無いということさえ知らず、映画の公開日すら知らず、
たまたまフォローしている方のNOTEのタイトルだけをみて公開されたことを知り、その夜、友人と観に行った。
観終わった後、友人に何か感想を言おうとした。
いかにも知ったようなことを言う私がいた。
この場面は○○を表していて、この登場人物は○○的な象徴だ、というような。
「よくわからない...
けど、観てよかった。」
これだけが、私の本音の感想だった。
なぜ観てよかったのか、
私の中でカタチになっていくのを待っていた。
この映画について、誰かの言葉を聞かないように気を付けながら。
なぜなら、
私の中のまだ言葉になっていない何かが、
誰かの感想を読んだり、聞いたりすると、その言葉で上書きされてしまうから。
もしくは、永遠の答え合わせをし始めて、結局、言葉にできないままになるから。
観てから2週間ほど経って、
ようやくカタチになりつつあるので言葉にして書き留めてみる。
㊟㊟㊟ 以降、ネタバレあります。㊟㊟㊟
![](https://assets.st-note.com/img/1690944429629-bJxblOFALo.jpg?width=1200)
一番印象に強く残り、そして、疑問に思ったのが、産屋でのシーン(私の記憶の再現なので事実とは違うかもしれない)。
怒りと憎しみを露わにした夏子が
「お前なんか嫌いだ!」と眞人に叫ぶ。
そして、眞人が
「夏子さん」
「夏子かあさん!」と呼びかけた途端、
憑き物が落ちたかのように夏子の表情が変わる。
なんで?今、
なんでここで、
眞人は「かあさん」と呼んだのか。
亡き母への深い思慕を抱えて、
夏子にあんなに頑なな態度をとっていたくせに。
当初私は、
「母」という存在に対する期待のような枷のような、
”呪縛”のようなのようなものをこの物語に感じていた。
母なんだから守ってくれる。
母なんだからやさしくしてくれる。
母なんだから世話してくれる。
母なんだから甘えさせてくれる。
母なんだから叱ってくれる。
母なんだからいつも笑顔でいてくれる。
母なんだから勇気づけてくれる。
母なんだから信じてくれる。
母なんだから導いてくれる。
母は憎しみをもってはいけない。
憎しみを表してはいけない。
すべてを慈しむ存在なのだから。
というような。
![](https://assets.st-note.com/img/1690945021433-pNm6C4tZC9.jpg?width=1200)
時が経つにつれ、感想がかわってきた。
眞人は母の伯父が託そうとした、少女の頃の母がいる世界を受けとらない。
眞人は自分が生まれ、母が死ぬ世界を選ぶ。
そして、夏子をこの世界に連れ戻す。
もしかして、
世代を超えた”願い”を描いているのだろうか。
この映画の物語がいつの間にか私に重なっていた。
私につながる先祖が願い続けたこと、叶えられなかったこと。
私はどの願いを引き継ぐのか。
映画を観る前日に、
母に、母の母のこと、私は会ったことがない曾祖母のことを初めて聞いていた。
曾祖母の人生、祖母の人生、母の人生、そして、私の人生。
私がここにいる意味。
話が飛躍するが、
この映画が私に沁み込んでくるうちに
『古事記』が思い出されてきた。
イザナキは黄泉の国からイザナミを連れ戻すことに失敗する。
イザナキとイザナミは黄泉比良坂平、千曳の岩で隔たれる。
イザナキはこの世に還り、アマテラスやツクヨミ、スサノオを生み出す。
世代を超えた願いは、
もしかして、
イザナキとイザナミが、再び会う、ことではないだろうか。
宮崎駿さんがどのような意図でこの映画を創られたのかは知らない。
私たちが、
私たちそれぞれが、
「君たちはどう生きるか」をどう受けとるのか。
完全に委ねられている。と、思った。
私は自身の内奥からの応えを受けとったような気がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?