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土方歳三をたどる

函館に行くにあたり、目的地の一つとして、土方歳三の軌跡をたどることがありました。特に幕末ファンというわけではありませんが、せっかくいくなら、というミーハー心からです。
新撰組は時折時代劇の題材として取り上げられていますが、角度は様々。
私の中で一番印象的なのは、三谷幸喜さんが脚本を書いたNHK大河ドラマでしょうか。

もう20年前の作品になるんですね。
この時土方歳三を演じた山本耕史さんが素敵でした。ちなみに、一昨年度の「鎌倉殿の13人」での山本耕史さんも面白かったですね。
今回は、贅沢してタクシーツアーで回りました。

碧血碑と護国神社

碧血碑は市街地から立待岬に向かう道中の、緑深い足場の悪い場所にありました。

この海の向こうが青森県。近いんだなぁ。


ここに行くまでに足場が悪くて結構大変。

「義に殉じた武士の血は三年たつと碧色になる」。中国の故事のひとつです。国内最大の内戦となった戊辰戦争で命を落とした、旧幕府軍の土方歳三ら約800人を慰霊する碑名として用いられています。市内中心部から函館山を見た場合、温泉で有名な谷地頭方面にあたる左側の山麓に悠然とそびえます。山道を進むと、突如として現れる存在感の大きさに、きっと圧倒されることでしょう。それほど、さまざまな人の思いが詰まった石碑です。
山道を抜けた先に広がる空間に、東屋とともに碧血碑があり、題字は大鳥圭介の書とも言われていますが、詳細は不明です。柳川熊吉の寿碑もあります。
戊辰戦争最後の戦地となった箱館(現在の函館)。終戦後、新政府軍は旧幕府軍戦死者の埋葬を許しませんでしたが、それに異を唱えたのが侠客の柳川熊吉でした。熊吉は実行寺住職の日隆らの協力を得て、打ち首を覚悟しながらも、町中に放置されている遺体を回収します。結果的に処刑を免れた熊吉は、函館山の山麓に土地を購入し、実行寺などに収めていた遺体を改葬。7回忌にあたる1875(明治8)年には、旧幕府軍の中心メンバーであった大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、碑を建てたのです。用いられている石は伊豆産で、霊岸島(現在の東京都中央区)で刻まれた後、海運されてきました。熊吉が88歳の米寿を迎えた1913(大正2)年、有志らによって彼の功績をたたえる碑が、碧血碑のそばに建立されます。

(はこぶら 函館市公式観光サイトより)

同様の説明を運転手さんからうかがい、いままで想像だにしなかった戦場の在り様と、命を懸けても勝ち負け一つで立場が変わる戦争の陰惨さを感じました。このように鬱蒼とした場所に、しかも誰の骸かもわからない状態でまとめて埋葬されている反面、その後案内してくださった護国神社には、新政府軍で命を落とした方々の墓地があり、一人ひとりの名前が刻まれた整然とした墓標を眺め、複雑な思いをしたものです。

土方歳三最期の地へ

案内板のみ画像を撮りました。

やっぱり、「反乱軍」だったからなのか、本当に小さい場所でびっくりしました。函館市総合福祉センターの前にぽつんとあるだけなので、思わず「ここ?」と声を上げたぐらいです。悲しい。
全然話は違いますが、かつて徳川家康の御正室である築山殿を殺害した太刀を洗った池としてまつられている場所もとても小さくて、見過ごしてしまうような場所にありましたが、土方も築山殿も、後になって生き様が評価されるから、小さな場所であれ軌跡として残されるんだろうなぁと思いました。
でも死に際は無念でしかなかっただろうな、とも。

五稜郭へ

この日はちょうど天気がよくて、五稜郭タワーから見渡せました。
おそらくここから見ないと、このお城の良さはわからないだろな。

春になると桜が綺麗とのこと。想像できます。素敵でしょうね。

ここにも土方歳三が。
箱館奉行所。エアコン要らずでも十分すずしかったなんて、私の地元ではまず考えられない。

残念ながら時間の関係で、土方歳三資料館までは回ることができませんでしたが、土方歳三をめぐる、と言いつつ目的は五稜郭だったので、十分堪能できました。タクシーの運転手さんのガイドは、函館の街の魅力を余すところなく教えていただけたので、別の角度でもう一つ記事を書こうと思います。

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