☆就活再開記念☆22卒無内定なのに就活を4か月もサボっている件についてwww

前書き
 ネットの記事(特に、今回用いるnoteみたいに無料で利用できるサービス)において、たいていの場合、“前書き”のようなものは不要だ。ネット記事は一秒でも早く事実に辿り着けることが特徴なのだ。そうだとわかっていても、前書きを書かなくてはならない。自分でも充分に承知しているのだが、この記事はとても他人に読ませるような内容ではない。というのは、この1段落目以降から広げられていく内容がかなり私的なものだからだ。それらは身内ネタに等しいし、近親相姦にも匹敵するであろう。とにかく、超個人的な話だ。読み進めていくのなら、それなりの覚悟をもって挑むか、常識を捨てる事が必要だ。前者は正義が発生する。後者は無関心が発生する。悪は文中にこれでもかというほど発生している。悪に支配されないためにも、覚悟を持つか、常識を捨てる事が肝要だ。それが面倒だというのなら、ブラウザバックを推奨する。これがまず一回目だ。これ以降にも、ブラウザバックを推奨するか高速スクロールを要求する旨が、あたかも道路標識のように突然現れるだろう。時には豪華絢爛にトッピングされたデコレーションケーキのような姿をしているかもしれない。それらに遭遇したら、今一度、読むか読まないかを検討してくれ。

 まずは我々が生活する社会を支えてくださっている、有産・有職の方々に対する感謝と謝罪を心の底から申しあげておきたい。本当にありがとう。そしてごめんなさい。こんな甘ったれでも苦なく生きていられる社会を作ってくれているのは、紛れもなくあなたたちだ。俺は後数か月もすれば、「社会の癌」なり「無産無職のゴミ」なり、「世のお荷物」なんて揶揄される人間になる予定である。今となっては、その現実や罵詈雑言を受け入れることも困難なことではない。むしろ罰的なものが与えられなければ、調和とか運命なんてものは信じられていないのだ。とにかくそういうことで、今回のような“とびっきり”ふざけた記事を書くにあたって、一番にあなたたちへの謝辞を申しあげておきたかった。
 できるだけ早めに把握してもらいたいがあるので、ここに記しておきたい。それは前書きが本当に長いという事だ。俺みたいに碌な文章も書けない人間は、いくつもの保険を張り巡らさなくてはいけない、と考えた。故に、つらつらと言い訳がましく前書きを用意しておく必要がある。長い前書きが退屈で仕方が無い方々は、今すぐに高速でスクロールしてほしい。早急に。また、インターネットという未知の世界へ投じることを考慮しなくてはいけなかった。誰がこのページを開いて、どう読まれ、なんと思われるかは知る由もない。つまり、どのような偏見が色眼鏡として機能しているかもわからない。そのためにも予防線を張っておきたいのだ。これにいちゃもんをつけたい方はいらっしゃいますか。だから早くスクロールしろと言ったのだよ、ばかたれが。

 そして、すでに飽きてきた方には、ここでブラウザバックを推奨したい。今から費やすのは世界一無駄な時間である。そのことは俺が一番理解しているつもりだ。だからここで散々注意しているのだ。
 こういう手口はエロ広告で使用されることだろう。「いま、これを開いたら勃起が止まらなくなって、しかも射精したくなっちゃいます!」という文言とともにぬめぬめした肉色の触手に絡まれた美少女が表示されるやつみたいな。皆様は聡明だから、液晶にそれが映し出されたら反射でブラウザバックをするだろう。そんな具合でよろしくやってほしい。この先も読み進めたいのなら、先に言っておく。「いま、スクロールしていったとしても勃起するなんてことはないし、射精したくもならないし、ましてやエッチな女の子が画面に出てくるわけでもないです!」。

 
 読み進めてくださった皆様に敬意を表し、感謝の言葉を贈りたい。ありがとう。下ネタを使うという個人的なミッションが果たされてしまったようだ。これも才知溢れる皆様のおかげである。そして、非常に残念なお知らせがある。更に留意してもらいたい事があるのだ。それは“俺”とかいう1人称についてだ。なぜ、こんな知性の無さが目立つような設定にしたのかというと、書いている本人には本当に才知が微塵もない。謙遜するわけではなく、事実だ。あとは無意味な我が自尊心の現れでもある。我が自尊心であり、我が唯一の恋人の、最後の輝きである。その空前の灯を消さないように、両の手で守護することも俺の役目である。これから読み進めていくにあたって、所々で我が細君が見え隠れしていることを感じるかもしれないが、それについては特に咎めないでもらいたい。そんなわけで、“俺”という一人称を用いている。

 この記事のターゲットについても触れておこう。就活をさぼっている皆様、就職活動をしている皆様、ゴシップの大好きな皆様、他人の不幸を愛する皆様、若造を叩きたい皆様、単に暇な皆様。そして、俺の知り合いの皆様、久しぶり。身内ネタが尽きて困っているだろうと思う。旧友との会話は必要以上に疲れる時もある。そういった場合には、存分に俺をコケにしてもらって構わない。ブラックジョークくらいには適切に機能してくれるに相違ない、と考えている。以上の方々に向けて書いているつもりだ。場合によっては、思いがけない人種の目に留まることもあるかもしれない。
 こういう事をすると、俺がまるで気狂いになったとか頭がおかしくなったとか、理性を司る大切なネジが吹っ飛んだとかほざいてくる人たち(狂っているのは貴様らの方ではないか。自身に向け一考せよ)が一定数いるのだが、俺はいたって冷静であることもここに喚起させておきたい。どれくらいの冷静さかというと、平均台で50メートル走をしろと言われて通常の50メートル走のタイムで走り抜けられるくらいには冷静である。

 察しの良い皆様は気づいていると思う。これは就職活動についての記事である。恐らくタイトルにもあると思うが、俺は約四ヶ月もの間、就職活動をさぼっている。現在は大学四回生であるにも関わらずに。これが三回生ならば話が違うのだろうが、残念ながら俺は四回生である。本当に就職活動も何もしていない。しかし卒業要件は満たしている二十二卒の大学四回生だ。何の因果か知らんが、俺はもう数か月で卒業してしまう四回生だ。どう足掻いても、天地が返ったとしても、その事実が変わることは無い。しかし無内定だ。そんな奴が四~五か月も就活をさぼるとどうなるか存じているだろうか。そう、ゴミになる。この記事は、ゴミが書くゴミのようなゴミの内容の記事である。読んでくれてありがとう。後輩たちは、まあ、反面教師的な事実として吸収してくれたまえ。

 ここで、なぜ書き出そうと考え、実行に移しているのかについて明かす。理由はたくさんある。注意しておきたいが、長くなるし、実行理由などには毛ほども興味を示せない方々は高速スクロールを駆使してかっ飛ばしてくれて構わない。
 さて、皆様は俺のようにキモいやつがオナニーみたいな記事を書く理由が理解できるだろうか。そういう奴は決まって、「神の恩寵」とか「運命」とか、「そうするべきであったのだ」とかいうめちゃくちゃ鼻につく上に寒気がするほど中二病的な事を平気で主張するのだ。当初は、俺もテキトーに神々へ責任を押し付けようとした。しかし、この理由こそ深堀して書きまくったほうが良いのではないかと考えを改めたのだ。
 そういえば就職活動をしていた遥か昔に(なんと恐竜も生きていた)、”志望動機をはっきりさせることが大事だ”と教わったのを思い出した。いかなることでも動機を固める事は重要なのだな、というのは就職活動から得た数少ない教訓だ。全く、就活様々である。だからこうして、数人で行った飲み放題のレシートみたいに前書きが長くなっているのだ。つまり、前書きが長くなるのは就職活動のせいでもある。呪うなら就職活動を呪え。

 ぐちぐちと毒を吐くのに力を入れすぎたせいで、記事作成の理由を並べる事をすっかり忘れてしまった。ここで述べたい。いくつかあるのだが、多くを占めるものが自意識の肥大化である。俺は友達が少ない。口数も少ない。外出も少ない。だとすれば、他人に相談する事も思考をぶちまける事も少ない(相談して何がどう変わるというのだろうか)。然るに、こうして文章にしてしまった。
 次に多くを占めるもの(そして最も重要なもの)は、若さである。酒も煙草も飲むのに何が若さだよ、と自身に突っ込みたいものだ。しかし、こんな甘々で痛々しい文をインターネットに投稿してしまえるのは、若さ以外の何物でもない。それに従属しているものだが、承認欲求を満たしたいという浅はかな気持ちが少なからずあるのも事実である。全く、なんという圧倒的な浅はかさであろうか。居酒屋でお目にかかった異性の店員に電話番号を聞いてしまう人くらいに浅はかな思考回路である。しかし理由の1つなのだから仕方ない。
 前述に加え、俺を記事作成へと走らせた燃料がある。それは劣等感だ。俺の腹の底には、得体のしれない劣等感が沈殿している。上澄みだけなら、まだクリーンなのだ。パワフルよりも、スマートに肉体を動かすガソリンとして補充され続ける。しかし、今回に限ってはわけが違う。腹の中の劣等感はぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、完全乳化を遂げたカオスだ。その混沌が、燃料として供給されている。“記事作成”という形で排出されなければ、他にどのようにして具現化されていたか知る由もない。
 以上が記事作成に至った馬鹿々々しい言い訳である。


 ここからは、俺の就職活動に対する死ぬほどあほな考えや態度について述べる。興味を持てない方は今すぐにブラウザバックをしてくれ。
 当初はすぐに内定が出ると思っていた。すぐにと言っても、湯を沸かすほどの時間ではない。ちょうど、サボっている期間と同じくらいの月日があって少し根を詰めて継続していれば、可もなく不可もない働き口にはありつけるだろうと考えていた。これについては、コロナウイルスの跋扈する世の中で、しかも景気が良くない事を前提としても改めなかった。なぜなら、人は働かないと生きていけない(ここでの“生きる”とは息をするだけの事ではない)のである。社会は人を働かせないと機能しないのである。行政は労働者から税金を徴収する必要があるのだ。こと資本主義の我が国に関して言えば、それが如実に表れていると思う。
 しかしながら、この考えは甘かった。いや、全てが甘かった。自動車販売員とかいうペテン師にはなれるだろうという考え、地元の会社はいけるだろうという根拠不明の読み、野菜は育てたことがあるから農業系なら或いはという博打、ゲームは好きだからゲーム会社だという自殺行為。全てが甘かったのだ。
 どこへ行っても知ったかぶった言動をして、頭の中は世をすねた文言ばかり、それでいて態度だけは一人前の雰囲気で、就職活動に関するあれこれが終わるとすぐさま喫煙所を探して一服をしていた気がする。ああ、今からでも過去へ戻ってあいつをぶち殺したい。今の俺になる前のあいつをぶち殺したい。ただ、そんなことはできないし、できたとしても就職活動を継続するとは限らない。それに成功を収めるかどうかも定かではないのである。
 本来ならば、こんな記事を書く暇を就職活動に費やすべきだ。ここまで拝読してくださった数少ない方々も、そう思っているに違いない。さすがの俺としてもそう考えないこともなかった。ただ、今は絶望的に意欲が無いのだ。どうかそこに疑問符を打たないでほしい。俺にも何故だかわからないから。働きたくないだけなのか、打ちひしがれてしまったからなのか、はたまた真の神による啓示なのかはわからない。もっと別のことが起因しているのかもしれない。それくらい見当がつかない。
 有産・有職、または春から有職になる方々へ、再び心から謝罪させてほしい。誠に申し訳ない。
 話がかなり逸れてしまったので戻そう。以上のように、これから社会に出ようとは到底思えないほどの斜に構えた姿勢で就職活動をしてしまった。自身の能力と社会の求める人材の間に、深い溝があることなどは理解できなかった。言うまでもなく―あえて言うが―これらが無内定という事実に直結したのだ。
 あと強いて言うなら、滅茶苦茶に字が下手な事だと思う(なぜこのご時世で履歴書が手書きなのか甚だ疑問ではあるが、ここでは関係のない話だ)。どれくらい下手なのかというと、皆様は薬物中毒者の書いた花丸を見た経験はあるだろうか。つまり、見事にミミズが這ったような字になるという事だ。これから先の未来に「古代ミミズ文字の見本」というのが博物館に展示されることがあるのなら、なんとしても俺が手掛けた履歴書を展示してもらいたいものである。


 前書きや未練たらたらしい言い訳を綴るのにも飽きてきた。我が自意識も徐々に痩せてきたのだ。さて、ここからは気分を切り替えよう。ここまで読破してしまうのは苦行の極みであったに違いない。拝読ありがとう。皆様はこの時点で、今世で積むはずの徳に上限があるとするのなら、その六倍くらいは優に積んでしまったと考えてくれてもいい。いや、冗談は置いておこう。ここらでコーヒーを啜ったり、花を摘んだりしてはいかがだろうか。愛煙家の方は一服を挟んでほしい。休憩なしで液晶を見続けるなんて目に悪い。そのことで懲役刑を言い渡されたとしても、逃れられないのではないか。とにかく、自分の好きな方法でリラックスしてくれて構わない。俺とは違って、文章は逃げたりなどしない。

 ちょうどいいので、アイスブレークをしたい。アイスブレークと格好つけて横文字で書いたが、要は世間話を挟むだけだ。そこで、我が地元についての話をアイスブレークとしたい。我が地元トークに興味を示せない方々は、ここでも高速スクロールをしていただきたい。風の如き疾さで頼む。
 何県とかなんとか府とか、どこ州とかは明かさないでおこう。少しばかり情報を開示するのであれば、“真の片田舎”と揶揄される地域の話だ。俺は今、その辺境から遠路はるばる東京都で一人暮らしをしている。そうして故郷を離れてみると、その地について客観的な価値観に触れることがよくある。
 そんなわけで最近知ったことだが、我が地元というのは国内屈指のラーメン大国なのだという。たしかに、食ってきたラーメンに大きく期待を外れたものはなかった。むしろおいしいものがほとんどだ(まずいラーメンがこの世に無いのなら話が変わってくるのだが)。それにどんな飲食店と比較しても圧倒的にラーメン屋が多いな、ということに気が付いた。ラーメン屋が一つあれば、道を挟んでラーメン屋、マクドナルドがあってラーメン屋、インドカレー屋があってまたラーメン屋。思い返してみれば、そういう高カロリーな光景もあった。慣れとは恐ろしいものである。
 我が地元を訪問した際には、ぜひとも「シャンゴ」という洋食チェーンを訪れてほしい。ラーメン屋ではないが、別にどうでもいい。些細なことだし、どっちも麺だ。あそこのパスタは種類が豊富でうまい。それにリーズナブルで量もある。店の雰囲気もいい。なんといっても店員の笑顔は素敵だ。昼時は戦後の配給みたいに混みまくっているので、少し時間をずらしての訪問をお勧めする。更にお勧めの食べ方を伝授してしまおうか。
 ただし、これは2人以上で来店した場合に限る。これは「シャンゴ」で出されるパスタの特性を最大限に生かした食べ方である。複数人で行けば、めいめいがめいめいのパスタを注文するだろう。その時点で人数分の取り皿も注文してほしい。「シャンゴ」のパスタは特に量が多い。といっても大食いショーで出てくる家畜の餌と見間違うような代物ではない。綺麗な量の多さだ。そして、パスタがそろったら分け合う。これこそが、「シャンゴおたく」を自称する我が母君の食べ方である。身も蓋も種も仕掛けもない、非常にシンプルな食べ方だ。食事が終われば味の感想を共有し、「これもおいしいね」と言い合うことは、人間の営みの中でも最上級の悦びである。そういうわけで、ぜひ訪問してみてはいかがだろうか。
※ちなみに筆者は今でも(今だからこそ)母親と「シャンゴ」に行けば、この食べ方である。

 さて諸君、休憩ご苦労。いい具合にリフレッシュできたに違いないだろう。なぜここで休憩を推奨したのかというと、この後に昔話が展開される予定であるからだ。昔話というのは、俺の最初の就職活動と最後の就職活動についての事だ。なぜそれを書こうと思ったのかと言うと、上記のようにごちゃごちゃと訳の分からない自意識の話を書き続けたところで、記事そのものの信ぴょう性が失われてしまう事が最も危惧されるからだ。そうなってしまっては、どうも話がつまらなく気がしてならない。いや、自分の話が面白いとは思っていないのだがね。諸君も経験した覚えは無いだろうか、「この話、どうも嘘っぽくて面白いと思えないんだよなぁ。漫画とかアニメみたいに全面的にフィクションっぽいならいいんだけど、実話みたいな調子で話が進んでいくから微妙なんだよねぇ」みたいな。そうはならないように身を削ろうと思う。
 それは俺にしてみればジュラ紀だ(ラプトル一族を裏切った『ユダラプトル』の物語を綴るのは、次の機会にしようと思う)。しかし、世間一般からすればーほんの数か月前のー年内の話である。時の流れを感じ取る器官には個人差がある。だからこそ、このように誇張した表現を使わせてもらった。それは同時に、俺の価値観と社会の価値観の違いを現したようなものだ。それは置いておき、ここでもくどくどと前書きをしておかなければならない。俺は前書きをしなければ昔話一つできないのだ。

 まずは―というかまたしてもというべきか―高速スクロールの準備を着々と進めてもらいたい。昔話に関して言えば、特に推奨する。過去の事柄を語る際には、必ず老害的な要素が付き纏うものである。大体の方々は、その要素を垣間見るとかなり辟易してしまう、というのは明白である。そう言った恐れがあるので、スクロールを強く推奨したい。
 これ以降はもうだらだらと書き込めなくなってしまうので、このタイミングで白状しておきたい。実を言えば、自分の手で自分の昔話を打ち込むという―極刑として採用されても全然おかしくないような―事を実行するのは、俺にはこわくてできない。冒頭の方では、脳みそやら精神に異常が無いと強がっていたが、過去へのタイムスリップにはとても耐えきれないと判断した。想像してみてほしい、どうしたら自身のおかしな過去をカタカタと平気で打ち込めるだろうか。あるいは、打ち込む内におかしくなってしまわないと言い切れるだろうか。そういう類について考えると、俺はおそろしくてたまらないのである。こうしている時も、タイプする手は指先から暖かさが損なわれていく。次第に震えを帯びていく。死人の冷たさとは、おそらくこの指の温度なのかもしれない。
 そこで代筆を試みることにした。数行後から綴られる昔話は、我が友であるS氏によって紡がれている。彼との出会いは、遥か昔の地球が発言する前のビッグバンの時分であっただろうか。いや、誇張はさておき、かなり前のことだ。聡明な彼に任せるにあたって、これまでのバカみたいな文とは百八十度も変わってしまうことであろう。本当ならば鳥糞を水でさらに伸ばしたように不快な文で作られていたのだ。それをS氏は見事に変えてくれた。氏にもここで感謝を申しておきたい。ありがとう。


 ここで注意喚起をさせてほしい。今回は超高速スクロールを懇願するといったことではない。代筆に際して、またはその他諸々の喚起である。まず、第三者視点で語られる。それに伴い、依然として“俺”は登場するのだけれど、“俺”とかいう言葉は決して使用されていない。それが俺であるか俺でないかは俺にも不明である。どちらとも取れる可能性だってあるし、どちらとも取れない可能性だってあるし、もしかしたら別の可能性だってあるかもしれない。昔話の老害性を少しでも和らげるために、そしてミリでもエンタメ性を増強させるために、非現実性を混ぜ込みたいというS氏の計らいである。ただ、それによって言葉や言い回しが荒っぽい(もしくは汚らしい)ものになってしまうのは了承してくれ。というのは我が親愛なるS氏の言伝である。くそつまらない話をよりよくしてくれるという確信のもとに、俺は間を置くことなく肯定の返事をしたことは記憶に新しい。俺の文章も、彼の際限ないインスピレーションに刺激されている。S氏の努力の甲斐があり、痛々しく個人的なエピソードはかなり読みやすいものになった。
 しかし、今回に限っては、物語の方も致命的に痛々しいので、いくら読みやすくなったといってもたかが知れている。S氏曰く「中学生の作文のようになっちゃった。これじゃあ参加賞の安いボールペンを貰うのも難しいと思う。お前の話、マジできしょいし痛いしつまらないもん。マジで」、だそうだ。ただ、俺が読ませてもらった感じ、「友達の付き添いというだけの理由で行く『珍しくて変な形の土器展』」くらいには面白くなったのではないかと思われる。
 逆に言えば、それくらい退屈だというのも事実だ。S氏を前にしてこんな事は口が裂けてもいえないが、今でなら告白してしまおうと思える。「そんなに良くなってなくね?」、とこんな具合に。氏には後で菓子折りなり、熱烈なキスなりを贈っておこう。
 ぐだぐだと言い訳を並べに並べて保険をかけまくった末に、第三者へ協力を仰いでしまった。これについても、どうして四か月も就職活動をサボってしまったのかという事の答えの一つとして導かれてしまうだろう。そうか、俺は弱いのか。雑魚なのか。それに比べ、ここまで読み進めてしまった根性のある方々は、俺とは違う。皆様は、きっと強いのだろう。精神、身体、周囲との絆、運命の糸でさえも、強固なものだということを自負していただきたい。その強さこそ、人が生きていくうえで最も必要なものだ。その強さこそ、きっと人生を豊かにしていくだろう。その強さこそ、俺が手にできなかったものだ。


 最後の忠告として、最初に記述した“前書き”を繰り返したい。繰り返すということは、以前よりも強い警告が発せられるということだ。この節を読み終えれば、次に展開されるものは超々個人的な話だ。街中の監視カメラをフル稼働させ、俺の行動を切り取り、ぺたぺたとセロファンでくっつけただけのツギハギのようなものだ。調整の余地はあったにしろ、かなり酷い仕上がりになった。今一度、皆様に確認してほしいことがある。黒鉄の如き覚悟は持ち合わせているか。黄金の常識は捨て去ったか。青銅の悪に支配されることはなかったか。これから登場するのは、白銀の悪だ。不可思議な鈍い煌めきは、人々を魅了し、強き者を欺き、弱き者は心から抹殺されてしまうだろう。ただし、黒鉄を携えた者、黄金を投げ捨てた者は、その魔手から逃れる術を会得できる。そうすればきっと、白銀の悪や、その魔手や、その卑怯極まりない手口すら、笑い飛ばしてしまうのではないか。社会に挑む皆様は、真に強い。俺はそれも承知している。しつこいようだが、ここにも“例のしるし”を設置しよう。
「ブラウザバックを推奨する。」

Ep1

 二〇二一年三月一日、時刻は午後一時から、群馬県は高崎市にあるアリーナにて開催される中規模の就職セミナーへの参加を予定していた。パンデミックが極まっていたのでオンラインでも参加できるのだが、現地へ赴くことにしていた。インターネットを介して行われる無機質なやり取りにも、些か辟易していたからだ。何よりも、生まれて初めての就職活動イベントだ。肉眼で見て、肌で感じて、疲労と達成感を蓄積させることは、きっと成功につながるに違いない。少なからず、彼はそう考えていた。大層な心意気だが、起きた瞬間の鬱々とした全身のだるさに襲われて二度寝せずにはいられない気分に陥っていた。
 時刻は午前八時、二時間後には東武東上線が通る最寄り駅まで行かなくてはならない。午後からなのだが、登校や出勤の時間帯に起きなくてはいけない。高崎駅までは二時間ほどはかかるからだ。そうなることはわかっていた。しかし、いざその日になってしまうと、やる気は削がれて志は霞んでしまう。それは彼の悪い性質だ。心地の良い布団の中から、脱皮をするように上半身を出すと、スマートフォンで日にちと時刻を再確認した。ブルーライトが目に染み、生欠伸の涙と一緒になって頬を流れた。改めて、当日のスケジュールを確認していく。「午後一時~参加、高崎にて」という自分のメモを見て、そのまま枕に顔を沈めた。次の瞬間に顔を上げれば目の前には高崎市があり、自分はスーツに革靴を身に着けているのだ、という期待を大いに抱いて顔面を枕にこすりつけた。しかし、そんなことは起こらない。現代科学や古代黒魔術をもってしても無理だというのにそんなことをしたのは、つまり行こうという気持ちが消えかかってしまったからだ。
 「自分が決めたことなのだから仕方がない」。そう考えなおし、掛け布団を蹴飛ばしてついに立ち上がった。まるで初めての月面着陸を想起させる格好で、ゆらゆらと重心のありかを探っているように。そのままの状態でユニットバスへ向かい、パンツを下ろす。便器に座ってその日の一番搾りを捻りだした。今日も陰茎から勢いよく小便を放出し、尻にある唯一の穴から大便をみりみりと出す。今日も今日が始まるようだ。
 トイレットペーパーで尻を念入りに拭き、蓋を閉めてから「大」の方につまみを回した。そうしてから手を洗った。そのままの流れで、清涼感のある洗顔クリームで顔を洗う。昨晩の内に髭を剃っていたので、剃刀に用はなかったが、念のために剃ることにした。泡を流す前に、そのぬめりを利用して刃を滑らせる。鼻の下に生えている毛を処理するときに一緒に薄皮も切ってしまったが、どうせマスクを装着するので気にならなかった。メントールの爽快感が傷口に沁みる。そんなことはお構いなしにごしごしと洗い流した。そうして顔のぬめりを流した後、少しばかり臭うタオルを使って顔の水分を充分に拭き取った。
 意識も視界も明瞭になったところで、煙草を吸うことにした。“吸うことにした”というよりは、“吸うことになっていた”と言った方が正しいのではないかと思うくらいに、彼の一連の動きには自然なものがあった。手首のスナップを駆使して箱から吸い口を出し、それを咥えてコンビニエンスストアで買った百円のライターで火をつける。深く吸い込み、肺中の酸素と煙草の煙を交換する。そして、すぼめた口から細い煙を換気扇めがけて吐き出す。そうしながら、スマートフォンでSNSを確認する。彼は意識的にそうしているのではなく、義務のようなものに過ぎないのだが。
 ただ何度確認しても、ニュースはコロナウイルスの猛威について講釈を垂れていたし、わけのわからない広告で埋め尽くされていた。他に目立つ投稿と言えば、二月の終わりを嘆く人々の呟きだ。人はなぜ、月日や季節の移り変わりに対してそんなにも感情的になってしまうのだろうか。それらは単に時間の概念に過ぎないものだ。これまでも、これからも、現在も流動的に変化し続けている。逐一反応して、感傷的になってしまうのは病気的だ。彼も深刻な病に罹っているようで、顔も知らぬ皆々に合わせて二月の終わりを惜しむ旨を呟いた。ソーシャルゲームのログインも彼の日課である。二十四時間ごとに無料で貰える魔法の石を求めて、せっせと乞食をする。無駄な行為だということも知らずに。
 そうしている内に、煙草の火はフィルター寸前まで届いており、彼の指先を温めていた。律儀にフィルターとの境目まで吸い終え、灰皿代わりにしているエナジードリンクの空き缶へ放り込んだ。じゅう、という音がしたので、火は完全に消えたらしい。再びスマートフォンを確認したら、時刻は午前九時を回っていた。午前十時二十五分の電車に乗らなければいけないので急ぐ必要がある。そうするためには、まずはティーシャツ一枚とパンツ一丁という服装を改めなければ、と彼は思った。彼のフォーマルは、専らこの格好だ。しかし、初の就活イベントだからなのか、流石にスーツで臨もうという考えに至ったらしかった。
 びりびりと派手にビニルの袋を破り捨て、新品の白のワイシャツに袖を通す。買ってから一度も袋から取り出さずにそのままだったので、少しひんやりしていた。普段はゆったりとした服ばかり着ているからなのか、シャツがとんでもなく窮屈に感じた。ティーからワイに変わっただけでこんなにも肩身の狭い思いをしなければいけないのか、と驚く。彼は同年代と比べてもかなり恰幅のいい体つきをしている方なので、殊更に窮屈を感じてしまう。シャツの第二ボタンから下の全てのボタンを留める。両肩を回して、ストレッチを確認する。それはそのまま、今日の生きづらさが特別性の高いことを暗示しているようだった。
 シャツの点検が終わったので、ズボンを穿く過程に移った。彼は幼いころからガタイだけは良かった。それに高校時代はラグビー部に所属していたのも相まって、ズボンを購入する際には太腿周りを気にする必要があった。スーツ選びもその基準の例に漏れなく引っかかったため、不良が履くラッパズボンの派生形のようになってしまった。ただ、見た目よりも機能性を重視する彼にとっては、そんなことは気にもなっていない様子だ。シャツとは正反対に、すっと容易に足を通せたことに感動すら湧き上がる。そうしてからすぐに腰まで上げ、ベルトを巻いた。
 ここまでのスーツ着用の儀において、特にこれと言って梃子摺ることはなく、順調にステップを踏んでいった。問題はここからであった。ネクタイをしなければいけない。中学・高校ともに学ランで通学をしていた彼の生活の中にネクタイをする習慣なんてなかったし、最後に首に巻いたのは成人式の日以来だ。最初は感覚でやってみる。これはチャレンジ精神の発動でもなんでもなく、彼の少年心がそうさせた。しかし、やはり結び方がわからない。どこをどうして、どうすれば綺麗にネクタイを結べるかなんて、感覚では到底理解できない。
 ふと、ネクタイにはどういった意味があるのだろうか、と彼は思った。マフラーかネックウォーマーか、風邪の時の葱しか首に巻いたことのない彼にとって、ネクタイの意味性は全く推測できない。とりあえず、「巻いておけば就職先が早めに見つかる確率が上がるアイテム」くらいに考えておくことにした。その意味不明な妄想の間にも、ネクタイの結び目はめちゃくちゃな折り目をつけられていた。人生において一回しかやったことの無いものを感覚で実行するなんて、月を手に取るくらいに困難なことだとは知らずに、五分は格闘していた。
 ネクタイとの闘いに疲れ、息が上がりイライラした様子で、とりあえずは煙草を咥えた。ネクタイ対彼の不毛な戦いは、彼の惨敗で終戦を迎えたようだ。火をつけながら、スマートフォンを起動させ、検索画面を開く。「ネクタイ 結び方」。なんて情けない検索ワードだろう、と自分でもその情けなさにうんざりしたが、背に腹は代えられない。動画サイトで結び方の動画を漁った。今度は煙草の半分くらいが灰になったところで、灰皿に放った。そうしてから、彼はまた洗面台に身を置いていた。この部屋には、そこしか鏡が無いのだ。ハンドソープの容器にスマートフォンを立て掛け、動画を見ながら、慣れない手つきでネクタイを首に回していく。何とか覚えようと努力はしているが、全く捗らない。その結び方の特殊さが鬱屈促進剤として血流に混じり、彼の全身を巡る。
 その内に、覚えようという考えや意気込みはどこかへ行ってしまった。この時に彼の脳みそは、「ネクタイ結束専門学校」を開校すれば儲かるのではないか、というくだらない未来予想図を思い描いていた。なんだかんだと考えながらも動画に出てきたハンサム野郎の動きを必死に真似た結果、なんとかネクタイの装着に成功した。その頃には、ワイシャツの脇が汗で変色していた。次にネクタイを巻く時も動画を見ることになるだろうという確信と、動画では他に三種類もの結び方を紹介していたことについての恐怖を心に留とめ、高評価を付けた。
 せっかく鏡の前にいるので、髪をワックスで固めようという気になった。そう言わんばかりに、おもむろにワックスへと手を伸ばした。時刻は午前九時三十五分。そろそろ準備を万端にしておかなければ、いよいよ間に合わなくなってしまう。ギャツビーの紫色のワックスの蓋を回し開け、人差し指で適量を掬い、手に馴染ませた。それをネクタイに苦戦していた時と同じように慣れない手つきで髪に塗りたくる。彼はワックスを好まない。さらさらのストレートがべたつかせるというのは、あまりにも自然なことではない。しかし髪を固めて清潔感のある見た目にしなければならない。公の場に赴くのならば、清潔感を身に纏うことを最優先に実行しなければいけない。
 彼は、自分の見た目に関しては、武器となる特徴は何もないことは彼自身が最も理解していた。そうだとしても、ぱきぱきとしなやかさのないスーツを着ることや髪の毛をべたべたにすることは、本当の意味で嫌いだった。見た目よりも中身だと考えていた。身なりに気を付けるのは、女に媚びたい奴が好きにやればいいと考えていた。見た目を評価する奴は、思慮が浅い奴だと考えていた。しかし彼は気づいていなかった(これは今でもそうだ)。その童貞的な偏見こそ、彼の怠惰で、不真面目で、無教養で、不細工だ。鏡を見ながら悪戦苦闘を繰り広げること十分。真実の魔鏡には気持ち悪い奴が映っていた。「刑務所から脱走して四日目に捕まった婦女暴行犯」の顔写真が全国ネットで放映されることがあるのなら、この気持ち悪い奴と瓜二つの顔面が画面に出るのかな、と思った。
 ワックスの付いた手を洗ってから、昨日の内にまとめておいた荷物を確認する。特別に用意するものはないが、イベントに合わせて実家へ戻り二泊程するので、忘れ物があってはいけない。全然物が入らないリクルートバッグの中を確認する。「イベントのご案内」と書かれたチラシ、スケジュールブック兼メモ帳、筆記用具、ファイル、ガム、ハイライト・メンソールを三箱、ノートパソコン、マウス、充電器、スマートフォン用充電器、電車で読むための本、笑顔の二次元美少女クリアファイル、ワックス、予備のマスク。これら全てが、彼にとっては必要不可欠なものだ。何かが無ければ心は落ち着かないし、全てがあれば超冷静に活動できる。確認のために中から取り出したものを再び詰め込み、チャックを最後まで閉めた。そして、改めてバッグの重みを確認した。彼は、腕力には多少なりとも(定評はないが)自信があった。バッグを持ち上げてみたところ、これから半日も持ち歩くとしたら苦行だな、と思った。そうしてから、ダンベルの代わりになりそうな黒いバッグを床に置き、煙草を咥えて火を点ける。今度は空の腹を煙で満たすために。本来ならば、朝食を摂るべきなのだろうが、どうもその気になれなかったのだ。
 煙を吐き出しながら、足にホイールが付いたラックに置いてある腕時計を手に取り、それを身に着けた。その腕時計は、高校の入学祝に父から贈られた黒のジーショックだ。グレードの高いものではないが、他に何も無いので使っている。そういう事は建前で、実を言えば、相当気に入っていた。まず、彼は父親のことをめっぽう好いていた。幼いころは母親一択であったが、今では(今と言うのは、本当に今)重度のファザコンだ。実家に戻れば、大抵は父親と一緒のタイミングで一服するし、父親の運転で煙草屋に行くし、晩の食卓では共に発泡酒を飲むし、この前は山帰りに二人きりで銭湯へ行った。とにかく父親が好きだし、誇りに思っていた。そんな父親から贈答された腕時計を彼が無下に扱う資格など無い。デザインも、派手に目立つものではなく、マットな漆黒で塗りつぶされていて無骨な趣があるので気に入っていた。それが、彼と彼の父親の感性の間にある共通の認識を感じさせ、血のつながりのような一種の絆を与えてくれた。それを手首にきつく巻き付けてから時間を確認した。時刻は午前九時五十七分。駅までは、競歩の要領で行けば八分程度で辿り着くことができる。午前中最後の一服は、根元まで吸った。
 仰々しい柄の空き缶に吸い殻を捨て、ジャケットを羽織った。一昨日クリーニングから帰還したばかりだったので、多少縮んでいるような気がした。その次にマスクで顔半分を覆い、紐を耳にかけた。何のためにマスクをするのかと言えば、世の中にはそういう風潮が漂っているのだから仕方ないことだった。それについては何の文句も無いし、むしろ堂々と不細工な顔面を隠せることに彼は感謝しか無かった。そういう思いを込め、丁寧にマスクの針金部分を折り、鼻の形に合うようにした。そして、部屋のありとあらゆるごみを一つのごみ袋にまとめた。彼にとっては何でもかんでも燃えるゴミだ。四十五リットルは入るごみ袋をがむしゃらに押し込んでからはちきれんばかりにして、口を固く結んだ。
 右手にはリクルートバッグ、もう一方の手にはゴミ袋を持ち、部屋から出た。見た目はすでに、「出勤前のサラリーマン」である。玄関を出てから、ゴミ袋を通路に置き、尻ポケットに入れておいた財布から鍵を抜き出して施錠した。そして、彼のいる三階から階段を慎重に降りて行った。革靴に慣れてなかったので、一歩一歩に違和感を覚えた。階段を降り、すぐにある入居者専用のゴミ箱へ全部を詰めた袋をぶち込んだ。
 ゴミ捨て場の近くには、「燃えるごみは火・木・金」と注意書きが貼られてあった。今日は生憎の月曜日だった。彼はそれを一瞥し、一瞬止まった。しかし次の一瞬、何の躊躇もなく実行に戻った。彼にとって、全ての曜日は燃えるゴミの日なのだ。なにより、実家に二泊もするのに生ゴミ混じりのゴミ袋を放置できることなどできるだろうか。それを終えて、アパートメントの小さな門を開き、偽サラリーマンは腕時計を確認しながら足早に駅に向かった。

 慣れない革靴で競歩をした結果、くるぶしの皮膚を代償にしたが、約八分で駅のホームまで着いた。時刻は午前十時二十二分、一息つけば乗る予定の電車がやってくるだろう。その間に、スマートフォンでニュースを確認しようと思い立った。他人のニュースが何の役に立つかなど知ったことではないが、世の中の動向を把握するには必要らしい。高校教養すら理解できない愚か者が社会の動きを体系的に理解するなど馬鹿げた話だが、志だけは高く保っていたかった。そういうことが大切なのだと、彼は思っていた。頭の中ではそう考えているが、見ているニュースは「ミロ 出荷再開」という記事だった。幼少期には小便からカフェラテの匂いがするくらいにミロ飲みまくった記憶があった。それほど好きな飲み物のニュースがあったとしても、もう少しマシな記事を読んでほしいものではあるが。彼はその記事を読んで、電車が到着するまでの二分を潰した。
 記事を読み終わるあたりで電車が到着した。そこから池袋駅までは二十分程度だ。乗車してからもニュースを漁ったが、覚えていることはミロの事とみずほ銀行のATMがシステム障害に陥っていたことだけだった。
 時刻は十時四十二分、湘南新宿ラインに乗り、大宮まで行く必要があるらしい。電車から降りてすぐにある階段を下って、東武東上線の改札を出た。池袋駅は相も変わらず人でごった返していた。東京にはいろんな人がいる。「いろんな」という曖昧模糊な表現がぴったりと当てはまってしまうくらいに。田舎だと、この時間に駅へ行くと学生しかいないので、新鮮に感じる。彼は、海を割くようにして人々の往来を歩いてゆき、一直線で次の改札へと歩みを進める。
 改札に入り、ホームについてから判明したのだが、乗る予定の電車を誤っていた事に気づいた。どうやら、新幹線を用いる経路をたどっていたらしい。ここにきて、自身の詰めの甘さを強く憎んだ。とりあえずは、気を落ち着かせるために小便をした。それを心得てから手を洗って、雑にワイシャツで拭う。トイレから出た先の人通りの少ない隅っこに立ち、足の間にバッグを挟んでからスマートフォンを手に取る。改めて調べてみると、大宮まで行って少しの間待っていれば高崎行きの電車に乗れるみたいだ。午前十時五十二分発の大宮行きに乗車した。車内には、程よい間隔をあけて人が乗っていた。大宮までは二十分程度で到着する。
 彼はドアの横に陣取った。足の間にバッグを置いて手摺に寄りかかる。そこならばバランス感覚のない彼でも安心して立っていられる。電車の揺れが安定してから、手持無沙汰なので、最後に読んだ日がいつなのか全く思い出せない読みかけの小説を復習する。読書を死ぬほど嫌う彼だが、買った本はどれだけの月日が経ってもきちんと読むと決めていた。この時は―誰の著作かは忘れたが―確かアメリカの原住民族と日本人の女の話だった気がする。アメリカン・インディアンであるナヴァホ族と未亡人の女性のストーリーで、両者ともにひどい仕打ちを受けた過去を持つ。彼がなぜその本を読んでいるかはわからないが、読書なんてものは何の役にも立たないし、何の意味のもならない。ただの自己満足に過ぎない。これは何の脈絡もなく読書について批判したわけではない。しかも読書へ向けたものではなく、対象は枯れである。その時の彼は読書こそ人生を豊かにするものだと思い込んでいた節がある。証拠にその時の彼は、「他人とは違うんだぞ」と言わんばかりに本を捲っていた。そのまま本の中に取り込まれて永遠に幽閉されてしまえ。
 話を彼に戻そう。片手に本を取り、栞代わりのレシートが挟まれている頁を捲る。まずはレシートの確認を行う。彼は本を買ったときに、そのレシートをそのまま栞にしてしまう習性があった。見てみると、二〇二一年一月十三日と印刷されていた。前に読んだ時の記憶が無くて当然だった。二か月も読んでいなかったことを情けなく思いながら頁の前後を捲り、内容を確認していく。結婚式当日に主人公の女の旦那が軽武装の強盗団から銃弾を喰らって殺された時に栞を挟んでいた。そこは前半章の“転”の部分だった。結構重要そうで感動的なシーンのはずだが、わけのわからないところで中断されていた。なぜそこで中断したのかと過去の自分に問いただしたところで、「魔が差したから」よりもマシな返答はないことは分かっていたので、特に考える事も過去の自分を恨む事もしなかった。
 本を捲り、ぺらぺらと行き来していたら、大宮駅に着くという旨のアナウンスが車内に流れた。彼は素早く電車から降りるために本をジャケットのポケットにねじ込み、財布を尻ポケットに入れ、スマートフォンを右ポケットに突っ込んだ。そうして彼は、ドア横の手摺を信じて一層に体重を任せた。まるでそのまま電車と一体化してしまうくらいに。

 駅についてから十五分程度で高崎行きの電車がやってきた。池袋駅までの電車よりも空いていて、大宮駅まで乗った電車よりは混んでいた。変な臭いのする弱冷房車両に乗り、座席が埋まっていることを確認すると先のようにドア横の手摺にもたれた。これから一時間もこうして立っていなければいけないのかと陰鬱になっていると、二駅くらい通過したところで席が空いた。   彼は安堵の様子で、過剰にスプリングが効いている座席に深く腰を掛ける。まるでそうすることで万事がうまく解決できると思っているかのように。席に着き、バッグを膝に抱えたところで腕時計を確認する。時刻は午前十一時二十分、高崎には一時間程度で到着するので、良い電車に巡りあえた。彼特有のゆっくりとした動作でバッグを開き、がさごそと手を動かしてから本を取り出した。
 そうして本を読もうと思った次第ではあったが、尻ポケットにしまってあるスマートフォンが一定の感覚で震えているのに気が付いた。腰を少しばかり上げ、おもむろに尻に手を突っ込み、それを取り出す。ロックを解除し、通知を見てみると、彼の母親からだった。「きょう何時にくるのー?」というメッセージが不在着信の後に続いて送られていた。親というものはいつだってそうだ。何時に帰ることができるかなんて知ったことではないのに、帰ってくる時間を尋ねてくる。おそらく、大体の時間でいいのだけれども。そんなことは承服していたが、朝から―というか今もこれからも―時間とかいう見えない拘束器具で甘く縛られていてうんざりしていたので、「弟が愛おしくなったら帰るよ、マイ・マム」といかにも冗談っぽく返答した。他にもいくつかの通知やメールがあったので、それらの確認をしてから母親からの連絡通知だけを非表示にした。
 スマートフォンに舞い込んできたろくでもない用事を済ませるうちに一駅通過した。これでやっと本が読めると思い、彼は深呼吸をした。まるで本を読まなければ息もできない新種生物かのように。読書なんて習慣でも、ましてや趣味ですらないのに。ただ、やろうと思ったらやるのは彼の評価するべきところであった。再びレシートの頁を探し当て、読み始める。
 どうやら女と死んだ男の間には養子がいて、その子供にはナヴァホの血が混じっているらしい。男の方の実家に行くと、そこには原住民族が雇われていて、そこでまた新しく物語が始まるそうだ。彼は結婚できるかどうかも危ういのに、もし自分に配偶者がいて、その人が突然亡くなってしまったら一体全体自分はどうなるのだろうと考えてみた。そうしたところで彼女はできないし童貞は捨てられないし、ましてや結婚できるわけでもないのに。浅学で幼稚な彼はそういう月並みなことに想像力のほとんどを使ってしまう。彼が想像力を持ち合わせている、という前提があるのならば。

 主人公の女が死んだ旦那の姑にいびられている場面で、高崎の一つ前の駅である倉賀野に止まった。上を向いて窓の外に視線を飛ばしてみると、コンクリートの灰色よりも木々の青葉色や土の茶色の方が多く見受けられた。自然と人工物が混在している様は、魅力的な景色に見えた。車窓がキャンバスだとするのなら、それを強引に切り取ってどこかの美術館へ持っていき、『クラガノ』というタイトルの札を付けて展示したいくらいに見事な片田舎風景だった。決して美しいとは言い難いが、都会人が思い描く田舎には無い真実性が込められている気がした。絵を描いている時間など無いので写真におさめようと思ったが、向かいに座っていた本物のサラリーマンが座っていて、自己啓発の宗教まがいの本を紙に穴が開くほどの眼力で真剣に読みまくっていた。その邪魔になってしまうと思ったので、撮るのを止めた。そうしている間にドアが閉まり、田舎にそぐわない風体の電車は弱冷房を利かせながら速度を上げていく。
 次に止まる時には高崎駅だ。彼は本を閉じ、それをバッグにしまった。すると使命的な何かに駆り立てられたように、スマートフォンを見始める。まだミロのニュースが人々の間で話題になっていた。彼は久しぶりにミロを飲みたくなってしまったので、通販サイトで検索してみることにした。見てみると、普通に販売されていたので、なんだか要らぬことに興味を割いてしまったな、と思った。他にやることもないので、そのままニュースの見出しを上から下まで見る。面白そうなニュースはないかとなまはげの如く目を光らせていると、一つだけあった。元保育士が園児にわいせつ行為をしたことで懲役六年の判決が下されたそうだ。それに関連するような事でもないし無理やり結びつけるようで悪いが、どうしても比較対象が欲しいので、彼についての下らない暴露話を打ち明けることにする。実を言うと、彼はプラトニック・ラブであれば誰と誰が愛し合ってもいいという心情のもと、密かにロリコンを掲げていた。と言っても、彼が本気でそう言う思想のもとに生きているのかは、親しい私から見ても定かではないのだが。
 しかしここだけの話、ナボコフが書いたハンバート・ハンバートの手記を嬉々として読んでいる彼を見たときには背筋が凍って思わずタイーホしちゃいそうになってしまったこともある。ただ、彼の対象というのは、現世で生きている生身の女ではなくて二次元のぺらぺら美少女に限った話で、園児などは全然好きじゃないのだと主張していた。それもこれも本当なのか冗談なのかは判別できなかったが、どちらにせよ気色悪いという事に変わりはない。彼こそ今すぐにでも土に埋めるべき存在だ。
 ただ、気色悪い性癖を身に忍ばせている彼としても今日の話題はいただけなかった。職権を乱用し、幼気な子供たちに性欲剥き出しの汚い手で触れるばかりではなく、口止めまでしてやがったらしい。幼少期の恐怖体験は将来に響く。それはありとあらゆる側面でトラウマとして蘇り、本人の自覚している以上の重さで五体にまとわりつく。時には自己意識とかに関係のないところで神経が過剰に働いてしまい、神経衰弱に陥る事もおかしくはないだろう。彼は、保育士というものはそういうこと(倫理観、道徳観、一般常識、やさしいこころ)を心得た上で就くことのできる神聖な職種だと思っていた。
 「やっぱり人間は人間か」。また一つ教訓を得てしまったと言わんばかりに、彼は眉を上げた。アナウンスが鳴ったので、電光掲示板に目をやる。その時にサラリーマンが視界に入った。「はちゃめちゃにやる気が出て仕事がばりばりに出来るようになる秘訣199」みたいなタイトルで、小太りのおじさんが表紙を飾っている本が膝の上に置かれていた。サラリーマンもまた、眉を上げてスマートフォンを凝視していた。同じ記事を見ているのだろうか、と彼は勘違いをした。そうして、笑っちゃうほどの愚か者を乗せた電車は、高崎駅に足を止めた。

 高崎駅は、相変わらず高崎駅だった。固有名詞を固有名詞で説明すること、しかも同じ言葉で表現することは断じて禁じられているのだが、高崎駅については他になんとも形容し難い。適切な説明かはわからないが、彼の言い方をそっくりそのまま引用すると、「駅だけは立派だよね。高崎は都会まがいの田舎でこれからも発展させようと躍起になっている地方都市だけど、いかんせん金も人も発想力もなく、非の打ちどころのない都市構想だけが独り歩きをしているなんだかよくわからないが魅力にあふれている場所。かなり的を外している言い方だとしても、俺の目にはそう映るし、高崎駅の西口だか東口を出たときには直感としてそう思ってしまう。駅だけは立派だから、余計に目立っちゃう。」と言っていた。かなり酷い言いようだし的外れも良いところなので、私から付け加えておきたい。これは代筆を頼まれている私個人の感想になって申し訳ないが、少し踏み込むことができればとても素敵なところだと思う。これは高崎駅へのフォローとか良心が働いたとか、彼の酷い物言いについての謝罪とかそういったものではなく、本心から思ったことだ。本当に、“少し踏み込むことができれば”とても良いところだし、飯もうまかった。
 話を戻そう。腕時計を確認すると、時刻は正午を少し回ったところだった。彼は朝から煙草しか飲んでいないので、腹はぺこぺこだし頭は回らないし不機嫌だった。改札、そして西口まで出てきてマップを確認する。そういう時に彼が真っ先に探す地図記号は喫煙所の記号だ。しかし探すまでもなく、彼の記憶は西口を出てすぐに左の方へ彼の足を運ばせた。そこに喫煙所があるということを思い出したからだ。そこでサラリーマンたちと私服のひと時を過ごした。一時間半もの間は禁煙を強制されていた彼はうまそうに煙草を吸った。
 昼飯は駅近くのジャンクを食べようと腹の底から決意していたので、駅近くでなにか油っこい食事をとれる店はないかと探した。しかし、前述の通りだが、“少し踏み込まなければ”真に美味な食事にありつけないことは変わらない。それに、忘れてしまいそうになるがイベントに参加する予定があるのだ。その会場には、彼が今立っている場所から十五分くらい歩いていけば辿り着ける。時刻は午前十二時十分。時間は無いし、腹が減っている。それを解決できるような店があればいいなと少し歩いていたら、計っていたかのように牛丼チェーン店が目の前に現れたので、そこで済ませることにした。「牛丼大盛り」の食券を購入してカウンターに座った。店員に券を渡してからものの二分で丼が配膳された。それを十分足らずでたいらげると、彼は居ても立っても居られないといった様子で席を立ち、「ごちそうさまです」と小声で言いながら店を後にした。
 愛煙家と自称するにしては特に煙草を愛していない彼が飯を食った後に行く場所といえば、喫煙所か喫煙ルームの設置されたパチンコ店以外にありえない。彼にとって、喫煙という行為はもはや小便を垂らしたりうんこを漏らしたりするのと何ら変わりない生理現象だった。牛丼を腹におさめて―マスクで隠れてはいるが―唇をてかてかに光らせた彼は、十数分前くらいに世話になった喫煙所でまた煙草に火をつけた。そこにはさっきとは別のサラリーマンがしかめっ面で吹かしていた。その中を似非サラリーマンが堂々と横切り、奥の方を陣取る。どちらが本物のサラリーマンかと問われれば真っ先に彼の方を指さしてしまうくらいには威風堂堂たる擬態ぶりだった。彼も眉間に皺を寄せて煙を吸い込んでいた。
 真サラリーマンと違うところは、しかめっ面の要因が単に食いすぎて腹がきついということだけだ。彼はスマートフォンで懲りずにニュースを見ていた。「小学五年生が透明マスクを発明 なんと原料は蟹の甲羅」という記事が面白そうだったので、それを閲覧することにした。彼としては、てっきり蟹の甲羅を洗いまくって衛生的にも外見的にもきれいにして、四隅に穴をあけて紐を通したものが取り上げられている微笑ましいニュースだと思っていたが、どうやら違うらしい。なんでも、松葉ガニの甲羅からとれる素材で透明な糸を作り、それをマスクに流用するという発明だった。貝殻をブラジャーみたいに使っているセクシーな姉ちゃんよろしく、蟹の甲羅を顔面につけた可愛らしい少年少女が画面に表示されると考えていただけに、面を喰らってしまった(マスクだけに)。小学校時代などろくに勉強せずゲームばかりに勤しみ、究極の泥団子の作り方とかいうあほみたいな自由研究に精を出していた彼にとって、このニュースはまさに目から鱗だった。「松葉ガニは鳥取県の名産」という周知の事実を教訓として得た彼は深呼吸の要領で煙草を吸い、煙を吐いてから吸い殻を捨て、喫煙所を後にした。
 イベント会場は西口とは反対の東口から出てさらに東へ向かう必要がある。駅構内を足早に歩きながら腕時計を確認する。時刻は午前十二時半、ゆっくりと足を運んでも問題はない。彼は少しだけ速度を落とした。ロータリーの上に伸びている通路を歩いてゆき、階段を下りて全面を舗装されたコンクリートの道を歩く。普段は履かない革靴は地面と接する度にこつこつと小気味よい音を奏でる。まるでその音色が人々を癒すものとして機能するみたいに。そこからグーグルマップを頼りにして少しすると、周りには彼と同じくスーツ姿の人々が多く見受けられるようになってきた。彼の就活がいよいよ始まる。既に出遅れているのかもしれないが、彼にとっての始まりはそこだ。春の到来とともに始まる黒の集団行進、その一端を担う彼は同族よりも歩幅を大きくして歩いた。まるで自分だけが違う次元で生きていることを証明するみたいに。
 喉が渇いていたし、会場で水道水と排尿以外の液体を確保できるとは思えなかったので、コンビニエンスストアで飲み物を買うことにした。その日の午後は春の陽気というよりは夏を先取りしたような暖かさだったので、スポーツドリンクを購入した。ついでに設置された灰皿を借り、約四時間の禁煙に耐えるべく最後の一服をした。周りにはスーツを着た青年が一人とスーツ姿のサラリーマンが三人いた。もしかしたら、全員の目的地が同じなのではないか。そうだとしたら、ここで煙草を吸っている真サラリーマンたちは人材を見定める側であり、ここでけだるそうに煙草を吸っている様子と顔を覚えられたらアウトなのではないか。そんなことには万に一つもならないが、彼は緊張しながら煙草を吸った。
 会場を肉眼で確認出来てからは、周囲はスーツの民だけで賑わっていた。スーツの民と一口で言っても、共通点としてみんな揃ってスーツを着ているというだけで実に様々な人がいた。男もいれば女もいて、美男がいるなら美女がいて、できそうなやつがいればさえなそうやつもいて、意識の高そうなやつとダルそうなやつがいて、もちろん声がでかいやつもいた。そして間もなく建物内へ一挙に収納されるのだ。近未来的なつくりの昇降口を上がり、入り口で待っていたのはマスクの上にフェイスシールドを装着したスタッフだった。内戦時の検問かと思ったが、そこでは参加者に配布された参加資格確認用のバーコードの確認と、検温と強制消毒を行っていた。幸い、銃口を突き付けられることなく建物へ侵入できた。それでから彼が真っ先にしたことは大便だった。牛丼を食って煙草を吸えばうんこをしたくなっても仕方がなかった。できるだけ排便音が漏れないよう、細心の注意を払って事に当たった。うんこスパイは、またしても快便だった。

 時刻は午後一時を少し回ったころだった。本会場入りを果たし、青と白の「企業案内パンフレット」を受け取った。会場は工業製品の展示会に使われるガレージのように無機質な灰色で塗りつぶされていた。そして、至る所に企業用ブースと思しきテントがきれいに配置されていた。もう始まっているものかと思われたが、参加者全員が入場した上で偉い人の号令が無ければ始まらないらしい。彼らは全員が入場し終わるまで、ばか広い間隔をあけて整列させられていた。少しでも乱れたものは韓国軍の鬼畜教官みたいな案内係のスタッフに注意されていた。「コロナウイルスの感染防止のため」だそうだ。しかし、想定よりも人が流れ込んでくるのでその間隔はどんどん狭くなっていった。彼はパンフレットを凝視していたので、感覚を詰めなければいけない事に気が付かなかった。鬼畜スタッフ中尉殿から間を詰めるようにと注意された時には、何が新型コロナウイルス対策だよと思ったが、それについて癇癪を起す方が無意味だなと思い直した。アルトの声色を出す要領で喉を開き、感じのいい青年を演じて謝りながら、まったくもって無意味な間隔を詰めていった。
 ようやく全員の入場が完了したころには、彼らの間に「新型コロナウイルス対策」のための間隔など皆無だった。そのことについていちいち目くじらを立てるべきではないと承知していたが、彼はそういうことを気にしないと生きていけないそうだ。いらいらした面持ちで偉い人の号令を待つ。そうしている間、右隣にいる二人組の会話を聞いていた。その二人は現在の就職活動の現状について笑いながら小声で話し合っていた。その話によれば、地方銀行とか一般企業は“よゆー”で、片方ののっぽは大手を受け、もう片方のメガネインテリは急成長中で将来性のあるなんとかいう企業を受けるつもりらしい。そいつらが本当に有能で、本当に“よゆー”で一般企業をパスできるかは不明なのでさておき、その会話を聞いた彼は陰鬱にならざるを得なかった。

 その理由はよく考えなくとも二つある。第一に、就職活動におけるスタートダッシュの遅さだ。活動を始める時期がその他大多数よりも遅いことはわかっていた。その理解の上で、大規模イベントに赴くことにしたのだから、隣から急によく研いだ果物ナイフのようなものが飛んできてもおかしくはない。今回はナイフそのものではないし、よく研がれてもいなかったからよかったものの、もっと深いことについて会話が成り立っていたなら吐血と腹部からの大量出血で不可解な死を遂げていたことだろう。周囲の会話についていけない自身の不甲斐なさに腹を立てていた。二つ目に、その推定インテリコンビの「一般企業なら“よゆー”」と抜かして笑いあってしまう愚かさだ。何が、何をもってして“よゆー”なのか理解不明だった。これは未熟すぎて理解が追い付かないということだけではなく、「一般企業だから“よゆー”」というのはこの世の大多数の人々をひどく貶める発言だということだ。たとえそれが事実だとしても、軽視していい資格など誰も持ち合わせていない。
彼は陰鬱となるだけにとどまらず、静かに憤慨した。彼が敬愛する父も、彼を小うるさく諭す母も、彼の唯一無二の大好きな弟も、“この世の大多数の人々”という集合を形成する個なのだから。ただその二人組にとってそれはどうでもいい話で、実に関係のない話だということは分かり切ったことだ。インテリコンビの会話と家族の事柄を結び付けてしまうのはかなりナンセンスだとしか言いようが無い。
 さて、彼を陰鬱にさせた理由として、よく考えなくとも二つあると前述しただろうか。これについて、よく考えた末の第三を告白したい。いや、よく考えたとはいったものの、それは既に分かっていた事で、あまりにも当たり前過ぎたが故に見えなくなっていたと言った方が正しいか。それというのは、彼が何も知らなかったということだ。とにもかくにも、彼は致命的に無知だった。それがなぜ致命的なのかを説明するにあたって就職活動をゲームで例えたい。競技性が似通っている何のゲームでもいい。特にこれといって例を挙げることはない。本当に何でもいいのだから。彼は、就職活動の情報に限った話ではなく、全ての物事―それには森羅万象まで含めてしまってもいい―を知らなかった。ただしこと就職活動(ゲーム)において、 “知らない”ことはそのまま敗北につながる。そういう事で彼は敗北していた。席を取られていたし、跳満を打たれていたし、圧倒的なスコアで敗北していた。その「無知」という第三の見えざる理由こそ、彼を陰鬱にさせた理由の根幹でもあった。それなのに、彼は憤慨までして頭の中ではその二人組をくそみそに言っていた。まるで本当に肉親の陰口を横耳にしてしまったみたいに。

 アナウンスが鳴った。続いて、どこかに存在している偉いおじさんの話が始まった。こういう時の話は長いのがお決まりである。しかし、就活生たちを長らく待たせたことを忍びなく思っていたのか、想像の百万倍は短縮されたスピーチだった。山も谷も波もないスピーチっぽいスピーチは「全集中で乗り切ってください」という最低最悪の文言で締められた。それと共に、うろうろと周りのスーツが動き始めた。時刻は午後一時十七分、彼の就活はその瞬間に始まった。

 「最初の就職活動についての記述」としては、ここらで終幕とした方が適しているのだろうが、彼を見張っていた防犯カメラや高性能ドローンで撮影された映像はその日一日分ある。加えて、その日丸ごとを描写することが彼の所望するところなので、このまま続けたい。代筆執行者として彼の言葉をひったくるのは非常にしんどいこと極まりないのだが、彼に責任を押し付けられるし、辞書を引いても適切な言葉が無いので使わせていただこう。「次章に進みたい方々は高速スクロールを、飽きた方々はブラウザバックを推奨する」。

 時刻は午後四時五十四分。一社当たり二十分程度のオリエンテーションを十社と、中規模ブースで行われていた三十分もある銀行のオリエンテーションを聞くという苦行が終わろうとしていた。周囲の人々は顔色一つ変えずにいた。彼の方は眠くて仕方がなかったし、それと同じくらいに煙草を吸いたくてたまらなかった。早めに切り上げてしまっても構わないのに彼がそうしないのは相応の理由があった。なんと十社の説明を受け、そこでもらえるシールを十枚集めれば通販サイトで使える千円分のギフト券が贈答されるというからだ。せっかくならば、それを貰ってしまおうと躍起になっていた。四社目あたりから膝や首が痛くなっていた彼にとっては苦しい時間だったが、無事にもらえるようであった。
 本当にうつろな目をしてみせ、あたかも精力の無くなった顔をしながら出口兼ギフト券交換所に向かう途中に、一人の女性に話しかけられた。その女性がどのような人なのかというと、彼曰く「少し歳上の女性を表現するときはどうすればいいんだ。おばちゃんかお姉さんかのどちらが適切なのかわからなくなる時ってあるよね。そういう時には何と言えばいいか本当に困るな。マージナルウーマンなんて呼べばいいのかな」。外見的にはそういう風な女性に話しかけられた。要するに、綺麗な大人の女性だ。女を一ミリも理解できない(する気が無いと言った方が正しいのだが)彼に言えることは、見積もった年齢よりも少し下だと考えて接することで、特殊な方ではない限り年上の女性とのコミュニケーションは円滑になりやすいということだ。あるいは齢相応の受け答えをすれば事は丸く済む。
 その女性は中古車販売店に勤めていて、すぐそこの設けられたブースで説明会を開いているのだが一人分の空席があり良かったらオリエンテーションを受けないか、という旨だった。「いいですよ」と最上級の大嘘笑顔で答えてから彼女についていき、席に着いた。
「ありがとう!ここに名前と電話番号を書いてもらえるかな?」と女性も最上の営業スマイルで彼に用紙を手渡した。「はい!」と彼は快い返事をし、一緒に渡されたカルテを台にして言われたとおりにした。それから十五分程度の間、十一社目のオリエンテーションをおとなしく聞いた。大学の大講堂の一番前の席を陣取る学習意識の高い学生と同じくらいに熱い視線と疲労を感じさせぬ姿勢の良さで。
 オリエンテーションが終了し、啓蒙度の高い感想の提出が済んだので、改めて出口へ向かう。去り際に「今度うちの会社で説明会と店舗見学会があるから来てね!」と女性に言われた。「はい!超前向きに考えておきます」と返したが、結局行かなかった。彼は生まれながらのあまのじゃくなので、来いと言われたら行かない。彼自身に自覚があるのかは不明だが、とにかくそういう一面がある。
 過剰な疲労困憊と暴走寸前の喫煙欲求でくたくたになりながらも、ギフト券を交換した。シールの枚数を確認する作業があまりにもあっさりと遂行されたため、本当に千円分のギフト券をもらえたのか怪しいところだったが、確認しなかった。それより一刻も早く外に出て解放されたかった。

 外に出た彼は今日のイベントを振り返った。覚えていたのは開始前に隣にいたあの二人組の会話と、銀行のオリエンテーションで聞かされた「群馬いいとこ論」と、結局行かなかった中古車販売店の店舗見学会の日程だった。あとは、その日だけで「全集中でなんとやら」という文句を十数回は聞いたことだった。六社目あたりから数えることを止めていたが、彼は一生分の「全集中」を聞いた気がした。もしこの世界に鬼が存在するならの話だが、志望する業界の一つに「鬼退治業界」を入れようと真剣に考えた。しかし、この世界には鬼もいなければ鬼退治業界も存在しなかった。
 真剣に鬼退治業界への就業を考えていた彼であったが、その夢物語の妄想は必要以上に膨れ上がった喫煙欲で頭の隅に追いやられ、やがて闇になった。そういった経緯で正気に戻った彼は、次に「全集中」という言葉を耳にしたら発狂してやろうという決意を心に秘め、灰皿が設置してあるコンビニエンスストアへ向かった。
 喫煙所付近には誰もいなかった。昼にここで一服を共にしたサラリーマンたちは仕事なのか、家へ帰ったのか。しみじみとそんな物思いに耽ったが、約四時間ぶりの喫煙がうますぎたのでどうでもよくなった。もともと、彼にとってサラリーマンたちの事などどうでもいいことだし、気にするだけ骨折り損のくたびれ儲けなのだが。
 乞食みたいに根元まで吸い尽くし、コンビニエンスストアに入った。帰り道が来た道と代わり映え無く用意されているのなら、飲み物を買っておくにはその店が最後だった。それに灰皿を使用させてもらった身としてはなにかしら買わないと割に合わない、と常識人ぶった考えのもとの入店だった。甘いスポーツ飲料で口の中がいかれていたので、お茶を買うことにした。彼はお茶だけを手に取り、愛想のない店員に愛想を撒きまくった。「ありがとうございます!」と彼は店員よりもでかい声で感謝を伝え、購入済みを示すためのシールが張られたお茶を手に取って店を出た。そしてバッグに入っている空のペットボトルと買ったばかりのお茶を入れ替え、外に置かれていたごみ箱に空の容器を捨ててから駅までの道を歩いた。

 駅に着き、電車に乗る前の小便と一服を済ませた。ここからは久しく乗っていなかったローカル線を駆使して超田舎駅に行くことになっている。彼の本日の楽しみはここからであった。彼のノスタルジーは最高潮の一歩手前でメーターの針を前後させていた。それに伴いエクスタシーの開花も寸前のところでとどまっていた。彼は改札の前の、少し離れたところに立って電光板を見た。時刻は午後五時四十分。彼が乗るべき電車は三十七分後にある「両毛線伊勢崎行き十八時十七分発」の便だ。電車に乗るために三十分以上も時間を潰さばければならない事は久しいし、彼としては今すぐにでも腰を下ろして休みたかった。その感情を押し殺し、通路の端の壁まで行ってからそこに寄りかかり、何をしていようかと使い物にならない脳みそを働かせた。不意に与えられた何をしても良くて何もしなくて良い無の三十分は永遠に等しかった。
 スマートフォンをいじりながら、不機嫌そうな顔をして壁にもたれているのもなんだかつまらなくなってきてしまったので、駅構内をぶらつくことにした。西口側には特に何もないので、入ってきた東口の方へ戻った。彼は再び人の海に飛び込み、するすると猫が小さい穴をくぐるみたいに肩をすくめて人と人の間を抜けていった。向かって右手には、大きい土産屋だかスーパーマーケットだかがあったが、そこで時間を潰しても面白くはなさそうだし、何も買うものはなかったので素通りした。その土産屋を過ぎてから右手の奥の方に書店があった。一瞬、彼の目には書店がサハラのオアシスのように見えた。暇をつぶすのなら本屋しかあるまい、そう言わんばかりの早足で革靴を鳴らしながら書店へ入った。

 外見的にこぢんまりとした書店は中も狭かった。ただ、狭いからといって書店としての機能を損なうことなく、コンパクトに本たちは整列させられていた。彼が書店に赴く理由は決まって“ぺらぺら美少女漫画”とか“ぺらぺら美少女原画集”とか官能小説にあるのだが、この日は異なっていた。彼が真っ直ぐに向かったのは、「就活・資格」のコーナーだった。
 そこには何かの一級になるための参考書や資格試験の過去問集がずらりと並んでいた。彼の目当ては一般常識問題が大量に記載されているもの、いわゆる「SPI」試験のための参考書だ。それについての参考書は棚の横一列に隙間なく並んでいた。その中からいちばんやさしそうなものを手に取った。 「初心者向け」と表紙に書いてある、若草色の表紙が素敵なものだった。雑にぱらぱらと開くと、最初の百五十頁くらいは算数で残りの二十頁くらいは国語の問題が用意されていた。算数の部分に関しては、全然わからなかった。わかるのは足し算引き算くらいで、意地の悪そうな引っかけ問題は考えるのも億劫になった。彼の数学との戦争は高校数学ⅠAの対二次関数・睡眠学習戦で見事なまでの敗北を喫したことが最後だ。元より彼は、数字や図や記号をいじって何やかやすることが嫌いだし苦手なのだが。算数にまつわる部分を一気に飛ばし、漢字と熟語の問題をいくつか解いてからその参考書を棚に戻した。その様子を見る限り、彼とその本が交わることは二度とないように見えた。
 参考書の付近には、小学生向けのさんすうドリルや中学生向けの英単語帳があった。少し首を回すと、くそみたいな赤本とか、ばかほどつまらないセンター試験過去問集が視界に入ったので空気が悪かった。彼は新鮮な空気を求めてそこを離れた。そして彼が向かったのはぺらぺらハーレムだ。さっきの墓地みたいな空間とは全く異なる場所にいるみたいな感覚と高揚感を得た彼は、思わず安堵のため息を吐いた。彼にとって、本当のオアシスとはそこだった。彼はとりあえず棚の端から端までを流し見する事にした。愛読していた漫画の最新刊が発売されていないか、浮世離れしたほどに端正な容姿の美少女が表紙を飾っている面白そうな漫画はないかと目を光らせた。まるで深海生物が光の届かない海底で獲物を探すみたいに。
 ぺらぺら美少女漫画コーナーには彼の購買意欲をかき立てるような本は無かった。まだ十分くらいは時間があるので、「今週のおすすめ書籍」という見出しのポップが貼られている売り場に行った。そこには見た事の有る本と見た事の無い本と、読んだ事の有る本が並んであった。全ての本の表紙が見えるように積み重ねられている山を目でぐるりと追った。今日の話題作はどれも面白そうなタイトルで鮮明な表紙をしていた。買ったところで読むことも無さそうな本ばかりだったので、そのまま小説売り場に向かった。特に興味も無いし読む気も無いのに、さも興味ありそうな顔で売り場を徘徊する。目に入ってくる小説はどれもこれも小難しそうに見えた。この徘徊が早く終わりますようにと祈りながら十分間の徘徊を続けた。
 結局、彼はサリンジャーの短編集を一冊だけ買って退店した。海外作家の書籍などには興味が無いにも関わらず、それだけを購入したのは、「参考書よりかは実の有ることが書いてありそうだ」という彼特有の偏見に満ち満ちた根拠の無い考えがあったからだった。自身の実際問題に向き合わなければ何も実ることは無いと知らずに。彼はレジスターで会計作業を進めている間にも、必要以上に謙虚に賢人っぽく振る舞った。何事もなく決済処理を終え、偽賢者の大噓つきは遂に永遠の三十分間を潰し、改札へと向かった。

 正真正銘の、電車に乗る前の小便と一服を経て、彼は改札に入っていった。抜けてすぐ左の階段を下ったところが両毛線のホームだ。時刻は午後六時十五分、あと二分もすれば電車がやってくるはずだ。彼は人の乗り降りが激しくなさそうな先頭車両が止まりそうなところまで歩いてゆき、バッグを足と足の間に置いて挟んでからスマートフォンでニュースを見る事にした。政治や経済のニュースは彼の貧弱な脳では到底理解できないので、いつもくだらないニュースを見ている。SNSは、知能指数およそ六の彼にとって優しいものである。考えても考えなくてもいい簡単なニュースがたくさん組まれているからだ。
 「バーは夜の病院 #コロナを生きる言葉集」という見出しの記事があった。なぜだか気になってしまったので、閲覧する事にした。その言葉は新宿でバーを営む店主に向けて客から贈られた言葉だそうだ。その記事を上から下まで見てから、彼は考えた。その末に「その言葉には響くものがあるが、たかが酔っ払いの言葉を取り上げるのもいかがなものか」、というこれまたエゴをたっぷりと含んだくずみたいな考えが導き出されて終わった。
 電車が来た。わざわざ先頭車両を選んだ甲斐もあり、着席に成功した。ここから伊勢崎まで四十分間は揺られなければならない。彼はリクルートバッグから本を取りだして膝の上に置き、それを机にして読書を始めた。行きの電車と同じ格好だ。違うのは読んでいる頁と行先と、心身の疲労感だった。重い瞼をむりやりに開かせながら、字の続きを追っていく。旦那が死んでも毅然とした態度で振る舞う主人公がまだ姑にいびられていた。それどころか小姑まで参戦してきたので、ますます修羅場みたいになっていた。なぜ嫁姑の問題はなくならないのだろうか。どこまでいってもくだらないことで争っているのに、ずっと無くならずに一定の周期でメディアが取り上げている。もしかしたら生理の周期と同じ間隔なのでは、と彼は考えたが流石に失礼すぎたのでそれ以上の深読みはやめた。同時に、本の内容も単調で物足りなくなってしまった。そこらへんで電車の心地良い冷房と揺れと、反対席で騒いでいる女子高生どものでかい声ですっかり眠気がピークになってしまった。伊勢崎までは乗り換えもないので、彼はうたた寝する事にした。

 「やば!もう伊勢崎じゃん」という女子高生の声を目覚ましに、無事に伊勢崎駅で降りることに成功した。彼女らへ心の底から感謝をする。車両から出て少し引き返したところに在るエスカレーターを下り、そのままの体の向きで降りた先のトイレに向かう。そこで小便をしてから、トイレを出て真っ直ぐに改札へ歩いてゆく。伊勢崎駅は小綺麗な駅で、外観的にはあまり田舎を感じさせないが、やはり何も無いので長居するほど田舎感を実感せざるを得なかった。
 高崎・前橋方面行きの電車に乗るための改札を出てすぐに右へ歩くと、駅員窓口と券売機が設置されている。そこを通り過ぎれば太田・館林行きの電車に乗るための改札が現れる。上の方に吊らされている電光掲示板を見たところ、「東武伊勢崎線当駅始発館林行き一八時五十分発」の電車が予定されていた。時刻は午後六時四十七分。ちんたらしていたらこの何もない駅で真の無を永遠に体験していないといけなくなってしまう。一服を挟みたかったが、そんな事をしている場合では無いと承服した様子で、彼は急いで改札を通り、その電車に乗ることにした。
 普段よりも一段と重くなった体でどすどすと階段を昇って行った彼を待っていたのは、三両編成のチンチン電車だった。その電車が三年前に彼を乗せていた車両と全く同じものかどうかは不明だが、彼は約三年ぶりの再会を果たした。思わず笑みがこぼれる。にやにやしながらホームから車両へと足を跨ぐと、冷風と共に中古車の空調みたいな臭いがマスクを貫通して鼻を突き抜けた。緑色の座席には所々に空席があったので、その中からいちばん端の席を選ぶことにした。腰を下ろした瞬間にスプリングの悲鳴が聞こえた。彼には、「久しぶりですね」と座席から言われている気さえした。
 懐かしさでにやにやの収まらなくなっている気持ち悪い顔を落ち着かせると、間もなく動き出した。そこから約二十五分、ゆりかごみたいに心地の良い三両電車に揺られていれば、実家の最寄りにある駅に着く。彼は、あまりの心地良さと安心感のせいで本を読む気になれず、そのまま寝てしまった。まるで本当の赤子のように。
 ジャーキングで目を覚ますと、目的の駅の一つ前の駅で電車は止まっていた。田舎で乗り過ごしてしまうと戻るのにとんでもない時間をかけなければいけないので、そこで目を覚ませたことを幸運に思う。彼は首と腰を回し、ぱきぱきと音を鳴らしてから血走った眼で車窓から外を見た。外は暗かった。夜の暗さとは思えないほどに黒々としていた。その中にちらほらと街灯が光り、蛍のような車たちが列をなして走っていたり信号で足止めを喰らっていたりしていた。窓が開いていたので、マスクから鼻を少し出して空気を吸った。その空気には土や草と、畑に使われるたい肥と、乗り物の排気ガスと、誇り高き虫々の哀愁が混じっていた。懐かしさで感無量なはずだが、寝起きでぼおっとしているせいで感情が表に出ることは無かった。
 次の駅に間もなく到着するという旨のアナウンスが流れてきた。ようやっと懐かしの駅に着く。彼はポケットをまさぐってスマートフォンを取り出した。緑色のアイコンのメッセージアプリを開くと、母親からの電話と折り返し連絡するように、というチャットが合わせて十件は来ていた。焦って確認すると、文面から怒りの感情がじわじわと滲み出していることがわかる。メールが新しくなる度に文面が丁寧になっていくのは怒っている証拠以外の何物でも無い。きっと不精な息子に嫌気がさして不機嫌になっているに違いないと思い、不承不承ながらも丁寧な謝罪と「電車に乗っていたから」という些か無理のある言い訳を返す事にした。そうするとすぐに「そ」という、まさしくどら息子に呆れているといったような返事が送られてきた。それからすぐに彼も謝罪を返し、家には午後八時前に着くことを送信した。加えて、車で迎えに来なくてもいいという事も送信した。母からは「なんで?」と返されたが、なんでも何も必要がないし、久しぶりだから自分の足で歩いて実家まで帰りたくなるのも当然だろう。そういう風なことを思ったが、彼は穏便に済ませたいので「ダイエットのため」と簡単に返信した。すると再び、「そ」というメッセージが返ってきた。帰ったらまたしつこく説教されるだろうな、と憂鬱な気分になりながら静かにスマートフォンの電源を落とす。それとともに電車の速度も落とされてゆき、車窓には駅のホームが額縁にスライドされるようにはめ込まれていく。駅の風景を見て懐かしいと感じるよりも、つい昨日まで毎日のように目にしていた感覚の方が勝っていた。
 時刻は午後七時十分。ドアが開き、粗いコンクリートで作られたホームに第一歩を踏み出した。数年ぶりに吸うはずの空気は彼の海馬を刺激し、駅にまつわるありとあらゆる記憶を引き出した。まるで死ぬ寸前に見る色彩豊かな走馬灯のように。路線は館林・行きと伊勢崎行きしかない駅。改札が伊勢崎行き側のホームにしかない不便すぎる駅。そのくせに自動改札が設置されている。少し生活感が見える駅員窓口。第二次大戦中、工業地帯で富士重工の飛行機工場が近辺にあったことから敵軍戦闘機の機関銃掃射による流れ弾を受けても、無くなることのなかった駅。遊びに行くときも、通学するときもお世話になった駅。どうしようもないくらいにとめどなく記憶が掘り起こされた。そのせいで感動していた彼は片側にしか自動改札機が設置されていないことを忘れ、そのまま平然と駅を出ようとしたところを駅員に止められた。平謝りをしながら反対側のホームに向かい、電子マネー決済をしてから帰路とは逆の出口から出る事にした。彼は注意してきた駅員とすれ違いたくなかった。
 彼は回り道をし、いつも歩いていた実家までの経路と合流した。周囲の景観は最後に歩いた時に比べても変わったところは特に無かった。あとはいつも通りに歩いていく事ができれば、何をしてもしなくても愛しの実家に到着する。敢えて以前との相違点を言うならば、彼は煙草を吸うようになり、今まさにジャケットの内ポケットから取り出そうとしている事だけだ。彼は運命めいた動作で箱から吸い口を飛び出させて、神々によって吸うことを決められている一本を口に咥え、安物のライターで火をつけた。都会と違って道には人がいない。虫や犬猫の方が多いくらいだった。然るに、歩きながら煙草を吸ったとしても気にならないし、咎めるような輩もいない。実にうまくて、実に気持ちのいい歩き煙草だった。
 ゆらゆらと蠢く煙を残像の如く漂わせながら、彼は帰路を真っ直ぐに進む。住宅地に入ると街灯の数も少なくなってゆき、視界は暗がりに包まれてゆく。やがて暗がりは音の無い何も見えない暗黒界へと性質を変化させ、彼を取り込んだ。彼もそれを拒むこと無く、むしろそうすることを望んでいる様子で闇に溶け込んでゆく。まるで空気のように、煙のように、透明な水に垂らされた水彩絵の具のように。

 彼が実家に着いた時には午後八時を回っていた。庭石を革靴で踏みしめながら、玄関前まで歩いてゆく。外からでもリビングにある液晶テレビの騒がしいバラエティー番組の音と団らんの暖かさが伝わってくるようだった。扉の前に着くと、センサーが反応して玄関灯が点灯する。尻ポケットに入っている財布を取り出し、小銭の中から赤いカバーの付いた鍵を選び出す。そして上下にある鍵穴の上の方から鍵を差し込んで開錠の方に回した。次に下の穴に差し込んだが、そちらは元から施錠されていなかったので、回す際の重さは感じられなかった。扉を開くと夕飯の匂いがした。何が出されるかは全く見当もつかないが、とにかくそれは夕飯の匂いだった。
「ただいま戻りました」
 彼はわざとらしく他人行儀で帰宅の報告をした。皆に聞こえるように、テレビの爆音に負けないくらいの声を出した。それが聞こえたのか、まず母親が反応した。「きた」と一人が小声で言いだすと、次に父親、弟の順番で山彦する。それを聞きながら、家の奥に入ってゆき、洗面所兼脱衣所へ手を洗いに向かう。そうしていると、洗面所と台所を区切っている戸が開けられた。開けた主は母親で、当人は再び台所へ戻っていった。
「なんで全然連絡寄こさないの」と、母親が怒った風に彼を責める。どうやら彼に文句を言うために戸を開けたようだ。彼は母親の思慮を汲み取ることも無さげに、電車に乗っていた事と会場にいる時は返信する暇が無かったことを盾に弁解する。
「そうなんだ」と、怪訝そうに母が言った。
「そうだったんだよ」と、反省の色を全く示さずに彼が答えた。
 それらのやり取りをしながらも、彼の手はスーツを脱ぐためにせわしなく動きまくっていて、母親の手は鍋に入っている何かしらの液体をかき混ぜていた。ワイシャツまで脱ぎ終わったところで、バッグの中のお茶を冷蔵庫に入れるために台所に行った。そこからリビングが一望できるため、ソファでくつろいでいる父親をちらと見たたが、何も言わずににやにやしながらテレビを見ていた。
「先にお風呂に入りなさい。晩御飯まではもう少しだから」と、母親。
「あーい」
 ハンガーにかけたスーツとリクルートバッグを持ち、二階にある元彼の部屋現弟の部屋に行くために階段を上がる。実家用に残しておいたパンツと部屋着を調達するためだ。部屋に入ると弟らしき男がベッドで横になっていた。やたらと背丈が高くなっていたので、本当に誰だかわからなかった。弟は戸が開いた音に気付いたようで、首を彼の方に回して「あ、久しぶりです」と遠い親戚と会ったみたいに他人行儀で兄をおちょくった。どうやら本物の弟のようで、兄弟ともにやることなすこと似通っていた。嬉しそうに、にやにやしながらスマートフォンでゲームをしている。
「おう、久しぶり。先に風呂入るよ」
「うん。おまえと母さん以外はもう入った」と、弟が言った。視線は既にスマートフォンの方に向けられていた。
「そうですか」と、言いながらクローゼットから替えのパンツと高校時代の体操着を取り出して部屋を後にした。

 入浴も済み、食卓に向かうと、既に彼以外の家族は食べ始めていた。今宵の献立は白飯、豆腐とわかめの味噌汁、塩サバ、スーパーマーケットで買ってきた寿司、スーパーマーケットで買ってきた値引きされたポテトサラダ、キャベツの千切り、金星食品の冷凍餃子、祖母が作った里芋の煮っ転がし、昨晩の残りかと思われる生姜焼き。それらがところ狭しと置かれていた。
「先に食べているよ」と、母親が彼に向かって言った。彼はそれに返事をしながら、彼は冷蔵庫から発泡酒を二缶取り出した。それから炊飯ジャーの横に用意されている彼用の茶碗に飯を盛った。そして米の盛られた茶碗と発泡酒を携えて食卓についた。月曜日にしては豪勢なメニューなので、わざわざ用意してくれた家族(特に母親)に礼を言ってから発泡酒を開け、ちびちび啜った。それでから餃子に手を伸ばしたところで、すでに顔がほんのりと赤くなっている父親が口を開いた。
「どうだった、今日は。就職先はみつかりそうか」と、彼に向かって問いかけた。
 見つかりそうかも何も、今日から就職活動を始めたばかりなのに、その日に就職先が決まりそうになるのなら就職活動なんてものは存在しないのである。あまりにも急な質問だし、一刻も早く餃子を口に入れたかったし、就職活動については何も情報がない上にお頭も足らない彼が報告できることは一つしか無かった。
「うん、それはわからないけど。今日のイベントには色んな会社がいっぱい来ていて、たくさんの説明が聞けた」と、彼が言った。
 いろんな会社とは具体的にどのような業種や職種があって、たくさんの説明とはいったい何なのかはもう覚えていなかった。そんな事よりも腹が減っていたので、餃子に醤油を付ける方に意識を集中させていた。
「そうか」と、父親が言った。酔っているし仕事で疲れているせいか、はたまたもう眠いのか、それ以上は聞いてこなかった。
 身も蓋もなく、実りもない会話がなされたところで、彼についての話題は、一人暮らしは大変ではないかという事にシフトチェンジした。母親からのマシンガン念慮を聞き流しながら飯をつまみ、酒を飲んでいる内に食事は佳境を迎えていた。弟と父は既に食事を終え、各々の時間を過ごしていた。
 卓上に置いてあるものは餃子と塩サバの一切れ以外は空になり、何も乗っていない皿は片づけられていた。彼も白飯のひと固まりを頬張り、咀嚼し、それを発泡酒で流し込む。食事を終えてもすぐに席を立たずに、満腹感が眠気に変わるまでそこでテレビを見ることにした。母親が茶を淹れるというので、彼もそれにあやかって淹れてもらう。母親が淹れる熱いお茶はいつ飲んでも落ち着く風味がしたし、やすらぎの渋みが全身に染み渡った。
 テレビにはバラエティー番組が映し出されていて、父親が好きなミステリー特集をやっていた。世界各国で起こった不可解な現象の映像が流れ、それについて芸能人があれこれと話していた。その内容に目新しいものは無く、出回っている映像の使いまわしばかりだった。それについての芸能人のリアクションが面白いかというとそうでも無かった。一番面白かった映像は、中国人の男の子が何かの柵に頭がはまって抜け出せなくなってしまい、電動のこぎりで救出されるものだった。そのムービーも何回か見た事は有るが、何回見ても面白くて笑ってしまう。月曜日のテレビは色々な方々と中国人の身を削ったボケで成立しているのだなと思いながら、彼は茶を啜る。
 煎茶を三杯くらいは飲み干したところで眠くなってきたので、外で一服をする事にした。就寝前には欠かせないことだ。茶を飲んでも残る餃子の余韻と魚臭さが、煙の吸引を加速させる。ふと、空を見上げると星が輝いていた。幼かった彼が家族の皆から、死んだ者は星になることについての話と、死んだ犬の星はあれだという出鱈目な話をされたことを思い出し、犬の星を探す。いくらか酒を飲んだので目の焦点が合わないが、おそらくは一番の輝きを放っているあの星だろうと“あたり”を付ける。その星は本当に煌めいていた。当時飼っていた犬が餌の時間になると、その星のように目ん玉を光り輝かせていた事と重なった。死んだ犬(コロという名だった)の眼が何かの拍子に宙を舞い、重力を受け付けないまま何光年も彷徨い、やがてはあの星になったのだろう、と考えてしまうのも当然だったのかもしれない。
 彼はその周りに輝く星々を無理やり組み合わせ、「コロ座」と名付けた。祖父は三年前に亡くなったので、近くに同じくらいの光を放っている星があるのではないかと思った。ヤニとアルコールと眠気で重くなった頭で天を仰いだが、それは見つからなかった。彼の祖父は無限のどこかをまだ彷徨っているのか、それとも目立ちたくないのだろうか。彼の内なるロマンティシズムが妄想を加速させる。本質から目を背けるために。
そうしていたら二本目も灰にしてしまった。眠気は充分積もっていたので、さっさと歯を磨いてうんこをして就寝してしまう事にした。

 その日の就職活動イベントが彼をどのように刺激したのか、またどの器官に経験として内包されたかはわからない。三月一日に得たであろう知識なり経験は何一つ活きていないからだ。はたまた、彼の中にはなにも残っていないのかもしれない。それは責任転嫁できるものではなく、全ては彼の怠慢にある。そうだと言い切ってしまえるのは、単なる結果論としてではなく、過程をも検討した上でのことだ。前述のとおり、彼の行動は監視カメラとドローンによる究極追尾で一挙手一投足を記録してある。それ以上の証拠を提出できる者が他にいるのだろうか。否、彼の怠慢では無いという事や、それ以上の証拠を用意できる者はいないはずだ。
 この事は地球が巨大隕石で粉々の散り散りになったとしても変える事のできない真実として、酸性雨のように彼自身に降り注がれ、体を蝕み、多種多様な症状で表れる。将来の不透明さで失明し、周囲との格差によって動機不整脈を起こし、親からの施しは悪性腫瘍へと変貌し、世間からは弾き出される。これは悲劇でもなんでもなく、不変の条理とか普通の出来事に過ぎない。それらを招いた理由として彼の怠惰を挙げたが、それも些細なことで特別性を孕んでいるわけでは無い。いたって通常の概念だ。
 レールの先に就職という駅もあれば、その他の可能性の一つとして分岐し、存在しているだけなのだ。世間の有象無象は、怠惰とうまく折り合いをつける事で列車を操縦し、努力によって分岐を操作している。誰もが等しく(大小は無い)自堕落な側面を持っていて、それを抑制する器官を持ち合わせている。その事は彼も例外では無い。それなのに彼は、自身の怠惰を特別なものだと思い込んだり、異端ではないかと自問自答をしたり、そういう自分を受け入れてしまおうと愚考していたのだ。実に滑稽で電波な話である。

 元から無であった彼の三月一日は終了し、就職活動へと本格的に移行される事になる。彼が実際にどういった就職活動をして、具体的にどのような企業の選考を受けたのかは語られることは無い。それを記述してしまっては匿名もくそも無かろう。次に語られる八月一週目のいつかの話は全てにモザイク処理をした上で露わになる、彼の最後の就職活動だ。彼は約五か月を徒労で終わらせてしまった。それがどれだけの怠慢で愚かな行為だという事は、八月いつだかの監視映像でついに明らかになる。それは三月一日とは比べ物にならないくらいにどうしようもない彼が散見されるし、それと相関を示すように品性を欠いた文になっている。逃げ道を自ら作るようで悪いが、それは作っただけで逃げているわけでは無い。彼の写し鏡としての役割を文に込めるためには、そうする他に手段が無かったのだ。逃げてばかりの彼と一緒にしないで欲しい。
 さて、彼の就職活動は企業説明会で終わる。終焉とは、何事であっても刹那的で、儚いものなのだ。しかし、彼の場合はそのようなものは感じない。憐れなだけだ。それだけでも怠惰の極み・愚の骨頂であることは見受けられるのだが、実直なドローン部隊はまたしてもその日の細々をほとんど記録してしまった。故に綴らなければならないのだ、果たして何が怠惰の極みでどうして愚の骨頂であるかを。それが彼の望みで、私はそうしてくれと頼まれたのだから。
 序章だけでも腹がいっぱいだという方は、ここらで“あれ”をしてくれた方が身のためかと思われる。これ以上の時間を潰すことは、それこそ憐れである。こちらも頼まれたから仕方が無く書いているだけなのだ。そういうなし崩し的な事情で書かれたものを読む事は無駄以外の何物でも無い。ただ、そうだとしても、それらの憂いは令和三年最後にして最高の咎人である彼の前では、余りにもちっぽけな事になるが。

Ep2

 おそらくは八月一週目のいつの日か、午後三時から行われる説明会に参加を予定していた。時刻は午前十一時三十五分。けたたましい目覚まし時計は脳みそを揺らし、骨を震わせた。その日の予定は説明会しかなかったので、昨晩から午前四時あたりまでテレビゲームをしていた。そのゲームが面白いかと疑問を呈されたならば、間違いなく首を縦に振るのだが、実際はほとんど義務付けられた習慣のようなものであった。
 この時期の彼は、ゲームという無を司る悪魔に魂を売っていた。彼の中にはもう、ゲームしか無かった。それなので、志望業界もそれに関係のあるものに絞っていた。そう、今日行われる企業説明会というのは、ゲーム制作会社の説明会である。彼は、自身の考案した面白ゲームを世に普及してやろうと躍起になっていた。そうとは言ったものの、真剣にゲームをプレイするばかりで、論理的な構造の理解とか基本的技術を学ぶことは一切していなかった。志の高い事は良いのだが、表面に出ていない件については全くの論外である。そうとは考えもせず、多種多様な作品をあれやこれやとプレイしていた。それが何のためにもならないと知らずに。
 世に生きるどうしようもない大学生みたいに(彼も例外ではない)昼間に起きだし、今にも破裂しそうな膀胱と、同じく大質量になったペニスを抱えてトイレに急ぐ。ナイアガラの滝と同じくらいの水圧で小便がしぶきを上げる。よもや水洗トイレに穴が開いてしまうのではないかとよく見ていたが、そんな事にはならなかった。
 七月に入ってから、穏やかだったお天道様は態度を一変したようにかんかんと照っていた。そのまま八月に入ってしまったら、日本列島は鳥取砂丘みたく何もない砂場になってしまうものだと思っていたが、この日は雨が降っていた。外からは雨粒の地面を打つ音が聞こえてくる。どのくらいの勢いで降っているかは外を見ていないので具体的な事はわからないが、雨音から推測する限りでは、幼児が使うための象を象った上呂から出てくる水が地面に注がれるときの音と類似していたため、相当優しい雨だと予想した。そうでは無いにしても、今しがた出し切った小便の水勢よりかは遥かに劣っている事は確かだ。
 小便のついでに大便が出てきそうだとアナルが訴えてきたので、それに従うように便座に座った。パジャマのポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、指紋認証でロックを解除する。全国の天気を確認すると、中国四国の方が厳しい暑さに見舞われているらしかった。いつしか中国砂丘になるのではないかという夢想と、そういえば中華人民共和国の方の中国は砂漠化が進んでいる地域があると聞いた事を思い出しながら、ゆるい大便を出した。
 次第に便意がおさまってきたので、汚い尻をトイレットペーパーで入念に拭いた。それでから立ち上がり、水洗のつまみを大の方に回す。そのままの棒立ちでぐるぐると渦になっていくペーパーとうんこを見ていると、ブラックホールの原理を解明できる気がした。なぜ急にブラックホールの喩えなんかを持ち出すのかというと、当時の彼のうんこが異様に黒かったからだ(昨晩の飯がイカ墨パスタだったからとか供述していた)。徐々に流れが静かになり、水の音が小さくなっていく。完全に流れたことを視認してからもう一度座り、目覚まし代わりであり生き甲斐でもあるマスターベーションを済ませることにした。
 便意、尿意、朝勃ち、眠気。それらを一気に片付けたところで、全身が気だるさに襲われた。もう一度布団の上で横になりたいが、そうしたら二度寝をしてしまい、説明会すら参加できなくなる事は必至だと理解していた。仕方が無いので、まずは一服をする。煙草を咥えて火を点けながら、乗らなければいけない電車をスマートフォンで検索する。驚くべき事に、午後一時三十二分発の池袋行きに乗らなければ間に合わないらしい。時刻は午前十二時十分。彼は急がなければいけなかったのだが、きっちりと根元まで煙草を吸った。そうしてからティーシャツとハーフパンツを脱ぎ、そこらへんに放り出してパンツ一丁になった。世界が雨に濡れても暑いのは変わらなかったので、その恰好が日を過ごすのに最も適している服装だった。しかし、今日は予定があるので、パンツ一丁にこだわってばかりはいられない。とりあえずは部屋の隅っこの方に引っかけてあるスーツを手に届くところまで持ってくる必要があった。
 改めてスーツの方を見やると思ったよりも離れていたので、それは後にして靴下とワイシャツに着手する。靴下の方は新品同様のクオリティーが健在なのだが、ワイシャツはアイロンやら何やかやと手入れをしているわけでは無いので、少しばかりよれていた。ただ、彼の体格は不摂生をしていても少し細くなるだけで平均よりはしっかりとしているので、よれたワイシャツは彼が着るだけで皺が伸びてしまう。新たな皮膚のようにぴったりとしたシャツを着たところで、部屋の隅まで行きスーツをハンガーから取り出した。ジャケットはそこらの床に投げ捨て、まずはズボンから穿いた。あまりクリーニングに出していないので僅かな汚れや埃が目立つ。彼はその中でもカレーをこぼした痕跡が目立っていたので、クリネックスティッシュを湿らせてからごしごしと拭いた。その部分だけはスーツ特有の黒が目立つようになり、クリネックスにはカレーの茶色とスパイスの匂いが付着した。その紙くずを昨日食べたカップ麺の容器に入れ、ごみ箱に捨てた。
 そうしてから、下着類を入れている収納ボックスを開き、ネイビーの靴下を抜き取る。夏であるにもかかわらず、脹脛まで伸びてしまう靴下を穿かなくてはいけないのも気に入らないが、スーツに合う靴下はこういうものしか用意していないから仕方が無い。片足立ちで、尻を冷蔵庫にくっ付けて支えにしながら装着する。冷感仕様は施されていないので、このまま蒸れて水虫になってしまうのではないかと思うくらいに生地がもこもこしていた。或いは冬用ではないのかとも思い、クローゼットケースを漁って他の物を探したのだが、スーツ用の靴下は本当にそれしか無かった。彼は、無理やり靴下を穿かされる猫の気持ちがわかった気がした。
 靴下を穿き終ると、彼はちゃぶ台に向かって座った。卓上には、筆箱、本、ゲームのコントローラー、何やらの数値を記録した紙切れ、ノートパソコンが彼の使い勝手の良いように散乱していた。彼はノートパソコンを開き、オレンジ色のアイコンのプレゼンテーションアプリを開く。ゲーム制作に関わる企業を志望し、プランナーを志すにあたって、まったくのど素人である彼はインターネットでゲーム企画書の作り方を調べまくり、自己流に完成させていた。その企画書が適切なものかどうかはさておき、その時点で三つは用意していた。一つは二か月で作り上げたタワーディフェンスのコンシューマーゲーム、二つ目は二週間で捻りだしたパクリノベルゲーム、三つ目は四日で思いついた知育菓子みたいな幼稚スマホゲームの企画書だ。それらの最終確認をしようと起動させる。確認と言っても何やらの仕様やデザインを変えるとかでは無く、単に誤字脱字が無いかを見るだけだった。何回か行っている作業なので、ほんの数分でそれを終わらせた。
 パソコンの電源を落とし、再び立ち上がる。冷蔵庫の前まで歩いてゆき、扉を開けて二リットルのミネラルウォーターのボトル一本とフルーツヨーグルトのカップを二つ取り出す。煙草をのんでしまったので、彼にとってはそれが充分な昼食だった。食器棚からデザートスプーンを取り、丸くなっている部分を唇で挟み、まずはヨーグルトの蓋を開ける。その時期の彼は苺の果肉がごろごろと入っていて口当たりが濃厚なヨーグルトを好んで食べていた。例に漏れずそれは苺のヨーグルトで、蓋を開けた瞬間に甘酸っぱい匂いが広がり、辺りを漂っていた煙の残り香と混ざる。メビウスオプションレッドはこんな匂いだったな、と思いながらヨーグルト二カップを平らげると、喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲んで胃に流し込む。空腹を少し落ち着かせたところで煙草を手に取る。まるでプログラムされているかのような動作で一本抜き、口に咥えて火を点ける。ヨーグルトの甘さとハイライトのメンソールが口の中で混ぜこぜになり、げろを吐いた後のような気持ち悪さと吐き気に見舞われたが、圧倒的な自制心と胆力で見事に吸い切った。
 嗚咽交じりでひどい顔をしながら無事に吸い終わり、歯を磨くためにユニットバスに足を踏み入れる。微かに精液臭かったので、消臭スプレーをこれでもかと噴射しまくった。「爽やかな森の香り」とスプレー缶に記してある通りの香りが拡がったところで、歯ブラシを手に取り、先の方を少し水で洗う。そして、アクアフレッシュのチューブから三色の歯磨き粉をブラシの上に小指の爪くらいの大きさで押し出す。それを口の中に突っ込み、じゃこじゃこと力任せに磨く。五分くらいそうしていると、歯磨き粉の味の他に血の味がしてきた。彼は歯茎からの出血が歯磨きの締めだと思っているので、そうなったら水道の蛇口を捻り、ブラシを洗って口腔の歯磨き粉をきれいに落とす。水を口に含み、頬を膨らませる要領でぐちゅぐちゅと躍らせ、口の中の泡とミントと血を洗い落とす。その後にタオルで口周りの水気を拭い、洗面所の鏡で歯と出血箇所を確認する。歯はヤニで少し黄色くなっているが、相変わらずの歯並びの良さについ自惚れてしまう。それは矯正しているわけではなく、元からのものなので、見入ってしまうのは尚の事だった。大きくも小さくもない上顎の前歯の歯茎を確認していると、かなり出血していた。指先で少し押し込むと白い歯が少し赤くなる。その部分を舌で舐め、それ以上、確認することはやめた。
 洗面所から出て、洗濯ラックに置いてあった腕時計を確認すると、時刻は午後一時を回りそうになっていた。ただ、準備はほとんど終わっているし駅まではすぐに着くので、まだゆとりはあった。先ほど清潔にしたばかりの口で煙草を咥えて火を点ける。彼は、そうしていないと落ち着かないのである。煙草を吸いながら、灰を落とさないように慣れた手つきでネクタイを装着する。今日は緑色のネクタイをセレクトした。緑色のネクタイは協調性や穏やかさを示してくれる、というネクタイの色についての薀蓄をスーツ売り場の店員から聞かされたので、その色にした。咥え煙草で咽ながらも綺麗に結び終え、極楽の喫煙に舞い戻る。タイで絞られた首は窮屈で息をするのも苦しいが、煙を吸い込みたい衝動は止められない。いつものように根元までを灰にし、水を入れてある発泡酒の空き缶に吸い殻を捨てた。
 時刻は午後一時十分。掃除が行き届いていない床に放ったジャケットをはたきながら取り上げ、そのまま羽織った。それでから洗面所へ行き、鏡に映る自身の姿を確認する。短髪で太眉の、目の下はくまがかった、知恵遅れみたいな寝ぼけ顔がそこにはあった。ハンドソープに並んでいるギャツビーを手に取ったが、「ワックスで髪を固めたところで変化はない」と思ったので使用することはなかった。彼は右目のやにだけを処理して、それ以上の点検はしなかった。
 そうしてから、リクルートバッグに履歴書、メモ用紙、エントリーシート、筆記用具、ゲーム企画書のプリント、ノートパソコン、財布を雑に押し込む。ジャケットの内ポケットに煙草一箱とライターを忍ばせる。左のポケットには、既に封を切られてある煙草の箱を入れる。持参する必要がありそうなものの用意がすべて完了した。あとは尻ポケットにスマートフォンをねじ込んで、腕時計を左手首にぐるぐる巻きにすれば出発できる。その状態になってから改めて部屋を見渡し、忘れ物は無いかと指さし確認をする。洗面所の電気は消し、クーラーを除湿に設定してから二時間後には消えるようにし、換気扇を止め、枕元に置いてあった精子が封印されてあるクリネックスをごみ箱に投げ捨てた。これ以上にやるべきことは無くなったので、実家から盗んできたマスクを耳にかけ、中型犬くらいの重さはあるリクルートバッグを左手に、黒い傘を右手に部屋を出た。

 外は雨が降っていた。小雨でもなく、大雨でもない、何とも言えない勢いの生温い雫が、天より降り注いでいた。アパートの階段を降りて道路に出ると、道端の所々に水たまりができていた。その水面を温い雨が優しくたたき、淑やかな波紋を作り出している。道中にある一つの小池を見やると、煙草の吸殻が浮いていて、蝉の死骸が沈んでいた。それに関しては何でも無い、夏の季節にならいくらでもあるような光景だ。
 彼は、それに吸い込まれるように視線を奪われた。体の向きを四十五度ばかり回し、池に向かって歩き出す。脇にある電柱に倣い、空から糸で吊らされたような佇まいで、足元の水たまりを見る。彼はそれを見続けなければいけなかった。それらが何を示すのかわかっていなかったが、何かしらのメッセージを発信している。彼はそう感じた。ぐにゃりと曲がった吸い殻と何の傷もないように見える蝉。ふと、蝉と目が合った。
「行くのかい」
 言葉を話すはずもない、ましてや息絶えて水たまりに沈んでいる蝉が、彼に話しかける。彼の方は疲れていそうな目を大きく開けて驚いた様子をしてみるが、内心は別にどうとも思っていなかった。もう一度、蝉が全く同じ調子で全く同じ言葉を発した。ただ、今の彼には行かないという選択肢は無かったので、頭を縦に一回だけ振った。すると、またしても蝉が流暢に話し始めた。
「なあ、お前は今、スーツなんてものを着て利口そうな態度をとっていやがるな。その姿を見れば、誰だってお前の事をいかにも真面目で真っ当そうだと思うだろう。でも、俺にはわかるんだが、お前は全然真面目じゃないし、人生で一度たりとも本気で物事に取り組んだ事なんかないんだ。あー、否定はするなよ、これは真実だ。今もそうやってやる気ありげに、自信ありげに革靴鳴らして優雅に闊歩しているけど、本心では労働をくそみそに蹴散らして『自分は何もしないで生きていたい』とか『できる限り努力はしたくない』、なんて世迷い事でいっぱいなんだよ。または社会で健気に働いている大人たちを見て『くだらない。仕事の大体は無意味で無価値に終わる徒労なのに、なんでそんなに真剣に取り組んでしまうのだろう。もっと本質的な物事に精を出すべきだ』、とか考えている。そういうお前なんか何も知らないし、何も経験した事はないし、もっと言えば生まれたばかりの赤子同然だ。そんなのを考える時間も、権利も持っていないよ。もし、これから行くのなら、そんな考えは捨てちまえよ?俺の上に浮いているだろう、愚かな人間の汚れた嗜好品が。それみたいに道端に捨てろ。捨てたらまるで他人事みたいに振る舞ってさっさと歩くんだ。そうしないとまた拾い上げて自分の中に入れたくなっちまうからな。とにかく、仕事とか社会と向き合うとなれば、そういうことが大事になってくるんだ。自分のかすみたいな考えとか信条とか美学とかは、全くと言っていいほど必要じゃないんだ。どれだけシンプルでピュアな心を持ち合わせているか、そしてその心を器にして、社会についてのあれこれや常識を詰め込まなきゃならないんだ。さぁ、捨ててから行くんだ。さもなければ、お前は何にも成れないのだから」。
 彼は蝉の言っている言葉の意味を理解できずにいた。蝉の話す言語がわからないというわけでは無く、蝉が言葉を喋っている事について驚きすぎて理解が追い付かないわけでも無い。純粋に内容を理解できなかった。そもそも彼にとって労働は尊いものだし、大人たちは偉大だし、本質などは二の次だとも考えていた。それを蝉に否定された。彼はその蝉を否定し、自身の性質を全く見誤っている事を主張しようとした。しかし、蝉の視線と彼の視線が結びつく時間が長くなればなるほど、蝉の目はどんどん彼の中へ侵入してゆき、腹の中や脳内、潜在意識までも捜査していった。
「お前は理解できていないんじゃない。必死に目を逸らしてそのことについて考えないようにしているだけなんだ。考えてみろよ。思い返してみろよ。これまでのお前の言動をさ。そうして―」。
 蝉はさらに何かを言おうとしたが、辛抱ならなくなった彼の右足によって、ぺしゃんこに踏みつぶされた。彼は濡れることも厭わずに、六秒間はぐりぐりと革靴を押し付けた。その後で、蝉がいたはずの場所と革靴の裏を確かめたが、死骸は見当たらなかった。彼の額は雨水と冷や汗が一緒くたになったもので濡れていた。手の甲でそれらの水分を拭ってから顔を上げると、見知らぬおばあさんが不思議そうにこちらを見ていた。気まずくなったので、そそくさとその場を後にする。

 駅までの凡そ八分間、蝉の言葉が体中をこだまし続けていた。一体、脊髄と本能でしか動けない昆虫如きに何がわかるというのだ。しかも蝉なんて言うのは成虫してから長くても一か月程しか生きられない。そんな奴に何がわかるというのか。いや、わかるわけが無いし、わかったところで何の意味もない。第一、あの蝉の主張だって主観だ。身勝手で独善的な、奴特有の論理で無理やりに丸め込もうとしてきただけだ。それは何にもならない、ただの子供の口喧嘩に過ぎない。大丈夫だ、思い悩む必要はない。虫けらの戯言はきれいさっぱり忘れ去ってしまおう。
 改札を通り、ホームに着いた。彼はジャケットの左ポケットからイヤホンを取り出して、端子をスマートフォンに差し込み、イヤーピースで耳を塞いだ。こういう時に流す音楽は決まっている。アニメーションの声優が歌う、わざとらしく媚びた声が特徴の、キッチュで可愛らしい(萌え~な)曲だ。その曲たちが、全部の面倒事をうやむやにしてくれると信じていた。彼はその中でもお気に入りのナンバーを爆音でハイパーローテーションした。次第に蝉の言葉が彼の中から消えてゆき、右からは池袋行きの電車が見えてきた。ブレーキをかけながらホームに横付けされてゆく。途端に、甲高いブレーキ音がイヤーピースと耳の穴戸の隙間から入り込んでくる。
「逃げるなよ」
 ブレーキ音と共に、幻聴まがいのなにかが聞こえた気がした。蝉は殺したはずだ。彼は人目を憚りながら辺りを見回したが、蝉の姿はどこにも無い。本当の幻聴だろうと思い込み、冷や汗を拭った。彼は一刻も早く電車に乗りたい気持ちに駆られた。ちんたらとブレーキを踏んでいる電車にいらいらしながら完全停車を待ち、何度も腕時計を確認した。午後一時三十二分発。間もなく電車は完全に止まり、扉が開いて弱冷房の空気が吐き出された。彼は「待っていました」と言わんばかりに先頭で、しかも大股でホームから電車へと乗り移る。まるで何者かから逃げるかのように。


 時刻は午後二時二十分。埼玉県はさいたま市にある浦和駅に降り立った。今日も今日とて東武東上線は遅延し、湘南新宿ラインはいつも通りに運航していた。駅はとても綺麗で、清掃も行き届いていた。本来ならば、風光明媚な浦和駅についてペーパー二枚分くらいはあれこれと描写しなくてはいけないのだが、いかんせんキャメラの映像が粗いことと私の文章力の乏しさによって叶う事はない。彼は、ビッグシティ・サイタマにある駅は格が違うなと感心しながらエスカレーターを下り、改札を抜ける前にトイレに寄って小便をする。隣の便器で、うーうーと呻きながらペニスを揺さぶっていたおじいさんが小便をしていたので集中できなかったが、無事に膀胱を空にする事に成功した。用を足し、手を拭き、鏡に映る間抜け面に異常がないかを確認してから改札へ向かう。
 改札を出た彼は待ち人たちに混じり、駅を支えているであろう円柱の一つに身を寄せた。尻ポケットからスマートフォンを取り出し、青と白のアイコンが目印のアプリケーションを開く。今日の説明会はどこかのオフィスで行われる予定だ。土地勘が全くない彼は、インターネットを駆使しなければ到底辿り着けそうに無かった。住所を検索し、到着予定時刻を確認する。駅から説明会会場までは十分ほどで着き、道も大通りを真っ直ぐに歩いていくだけだと表示された。今の時刻は午後二時三十分。もう少しだけ余裕があるので、駅構内のキオスクでコーヒーと甘いものを買った。
 バッグにコーヒーを入れ、チョコレート菓子をつまみながら駅を出た。昼間と同様に雨が降っていたので、急いで傘をさす。そして、まだ時間があるのをいいことに、きょろきょろとミーアキャットみたいに近辺を見回し、喫煙所を探す。目の前にはバス乗り場があり、右手奥の方にはデパートらしきものが見受けられる。左を向けばコンビニエンスストアや飲食店が跋扈していた。すぐにでも一服をしなければ時間も無くなってしまうし、なにより煙の女神が彼を許さないであろう。そういった個人的で天命的な事情は、彼を喫煙所へと導く。
 バス乗り場を過ぎたあたりに―庭園のオブジェのような―近代的なデザインの、洒落た喫煙所が設置されていた。彼はそこへ、あたかも数年前から利用していると言わんばかりの落ち着き払った歩みで中に入る。分厚い曇りガラスで覆われていて、天井の無い喫煙所は空虚でいっぱいだった。誰もいないし、何も閉じ込めないし、雨だけがしんしんと落ちていて、無力非力な彼がいた。
 器用に傘の持ち手を脇に挟み、左のポケットから煙草とライターを抜き取る。ポケットの中はかなり窮屈だったらしく、紙箱は皺だらけで、紙煙草はあらぬ方向へねじ曲がっていた。乳首をつまむような優しさと慈愛と下心を込めた手つき(彼は童貞だがその手つきは本物だった)で、煙草を元の真っ直ぐ状態に戻す。そうした紙煙草への熱い愛撫を経て、ようやく口に咥えて火を点ける。湿度の高い夏の空気を吸い込み、重量を帯びた煙をゆっくりと吐き出す。どうして煙草の味というのは度々に異なるのだろうか。全く同じ銘柄を年中無休で吸いまくっているというのに、場所や時間、気候や気分、雰囲気や季節などの条件が一つでも変化してしまうと、煙の口当たりや喉越しや香りは、全く別のものに感じてしまう。世間一般に潜む似非詩人の如く無駄な夢想で感傷的になりつつも、時間を気にして根元まで灰にする。
 煙草を灰にしてハイになった彼は見事に空虚からの脱出を遂げ、再びオフィスへの道に戻る。時刻は午後二時四十分。スマートフォンで目的地までの予想到着時刻を調べる。画面に「予想到着時刻 午後三時二分」と表示されていた。説明会の開始は午後三時からなので、非の打ち所がない完璧な遅刻になる予定が立てられていた。
 おそらく、現在の彼ならばこの時点で踵を返して駅に戻り、さっさと改札に入ってしまうだろう。しかし、過去の彼は志が高かったので、全力疾走でオフィスに向かった。風の抵抗を弱めるために傘をすぼませ、バッグを腕でがっしりと抱えて力強く走り抜ける。道行くギャラリーは彼に白い目を向けながら避け、彼の方も通行人を謎のステップで躱す。その時の彼は、もしかしたらスーパーラグビーの選手に肩を並べるくらいに、ハイパーな運動能力を無意識に引き出していたのかもしれない。そう思わせるくらいに素晴らしい走行だった。
 息が切れてジャケットを脱ぎ捨てたいくらいに体が火照ってきたので、走るのをやめて歩くことにした。その過程でポケットからスマートフォンを抜き出して道案内を確認したところ、オフィスを少し過ぎていた。彼はすぐさま引き返し、大厦群の中から目的地を探す。ジャケットを脱ぎながら歩く。ほんの十数歩戻り、左手を見ると目的地はあった。
 時刻は午後二時五十三分。肩で息をし、足は限界、胸に激痛、首元は汗で湿っており、雨風で髪は乱れている。考え得る限り最悪の状態で建物に踏み入れる。入り口に設置されている郵便受けで、オフィスがある階層を確認したところ、忌々しくも六階を本丸にしていた。最悪の場合、階段を使うことも視野に入れなければならなかった。両脚が使い物にならなくなってもいい、という覚悟のもとに侵入した。廃墟のように薄暗く、蛍光灯の鈍い光が照らされていた。
 この絶望的な雰囲気の中を駆け上がらなければならないのかと心底苦しい思いが込み上げてきたが、階段のすぐ近くにエレベーターがあったので、思わず笑みがこぼれた。ボタンを押して扉が開くのを待つ間、バッグに入れてあったコーヒーを飲む。髭面の男のロゴがあるボトルを左手に持ち、右手でキャップを捻る。ぱきりと快い音と共に、コーヒーの香りが鼻を突き抜ける。飲み口を咥え、一気にボトルを逆さにし、喉を鳴らして胃へ流し込む。真水を飲んでいるのかと錯覚するくらいに薄すぎるコーヒーが喉を潤し、胃の中に流れ込む。彼は半分まで飲み、息を整えながら、再びキャップを閉める。水分補給と深呼吸で息が落ち着いたところでエレベーターが到着した。
腕時計を確認すると、その時点で午後三時になっていたので、ゆっくりと行く事にした。「いくら急ごうが遅刻は遅刻、予定を過ぎてしまったなら仕方が無い」と、彼は考えていたからだ。エレベーターに体を入れ、“六”のボタンと“閉”のボタンを押す。がたがたと恐ろしい音を立てながら扉が閉まり、壊れかけのジェットコースターのように、ゆっくりと上がってゆく。
 その間に、彼は荷物の確認をしてしまおうとバッグやらポケットやらに手を突っ込んで漁った。用意してきたものはバッグの中で静かにしていたし、財布は尻ポケットにすっぽり入っていたし、煙草とライターも左ポケットを盛り上がらせていた。胸ポケットにある煙草も無事のようであった。夢中で地面を蹴っていたので、道のどこかに何かしらを落としていてもおかしくは無いだろうと思っていたが、その憂いを吹き飛ばしてしまうくらいに健在であった。そうしてから傘を畳み、髪と服装を整えていると、エレベーターが停止した。無事に六階に到着したようだ。彼は息を大きく吸い、謝罪の言葉と申し訳なさそうな顔を用意してから、勇気の一歩を踏み出した。まるで、今から取引先の企業に土下座をしに行く新入社員かのように。

 オフィスは冷房が効いているようだったが、涼しく無く熱くも無かった。もしかしたら、空調装置は意思を持っていて、業務上義務的に冷気を放出しているのではないのかと思ってしまうくらいにだらしない冷房だった。入り口手前には消毒液が置いてあり、「必消毒」と赤文字でプリントされた紙が張り出されていた。彼は雫が床に滴るくらいに、たっぷりと消毒液を出して両手に塗りたくった。
 オフィスの中に入ったのは良いが、案内人はおろか案内を示す張り紙すらなかったので行き場に困った。仕方が無いので、奥に進む事にする。中はキーボードで何かを打ち込む音と、コピー機で何かを印刷する音と、男性の声が響き渡っていた。ただならぬ雰囲気を感じていたが、ここで引き返しては栄光の激走が無駄になってしまう。そう考えると体は勝手に前へ進んでくれた。
 忍び足で奥に入っていくと、塾の自習室に似た空間が現れる。扉の上にあるフックに会議室と記された札が垂れており、それが四つほど連続していた。その中で「会議室二」と書いてある札の下に説明会場を示す紙がセロファンで張り付けられているのを見つけた。時刻は午後三時七分。
 エレベーター内で準備していた謝罪と、申し訳なさそうな態度を身に纏い、赤べこのように頭を振りながら中に入る。すると入ってすぐに、おそらく主催者用かと思われる長机一つとパイプ椅子三つがあり、それと向かい合うようにして彼ら就活生用の長机三つと、それに合った数の椅子が用意されていた。主催者側の一組にはまだ誰も座っていなかった。説明会が開始していないことに安堵したが、他の就活生たちは彼に向けて一直線に視線を向けていたので、尋常ではない脇汗がシャツに滲み出す。他の就活生たちというのは、女子学生が六人と男子学生が四人という構成になっていた。
 視線による牽制が徐々に鎮まってきたところで、背を丸めながら長机の方へ歩いてゆく。控えめな態度を示していても、遅刻をしたという罪は消えない。彼はできるだけ目立ちたくないので、端の方の席に座ることにした。音も出したくないので、パントマイムの芸者みたいなスローモーションで全ての動作を実行する。席に辿り着くまでは忍び足。椅子を持ち上げ、床との摩擦音を取り消す。座る際には足腰の筋肉を駆使し、空気椅子の要領で腰を下ろす。傘とバッグは丁寧すぎるほど丁寧な―銃剣を突き付けられて武器を地面に置けと命じられているかのように―動作で床に降ろす。息を吸うのも吐くのも至難の業だった。
 時刻は午後三時十一分。室内には通夜中盤のような、何とも言えない空気感が漂っていた。女子が六人も集まっているのなら、幾らか話し声が聞こえてきてもいいはずだが、それすらも聞こえない。彼以外の学生たちはスマートフォンをいじっているか、メモ帳を確認しているか、誰も座っていない虚無空間を眺めているか、の三通りだった。当の彼はというと、未だにパントマイムを夢中で披露していた。今はどうすれば無音でリクルートバッグのジッパーを開けられるかを試行錯誤しているらしい。秒速二ミリメートルでスライドさせれば音が発生しないことを突き止めたので、それを実践する。誰もそんな事を気にしていないというのに、そこまで神経質になる必要性がどこにあるというのだろうか。
 彼が机の上に筆記用具と書類の入ったクリアファイルとメモ用紙を置いたところで、企業の関係者が入室してきた。「おうぃーす」と、先頭の一人が気の抜けた挨拶をしながら戸を開け、それに続く形で二人が入る。一人は白色のカジュアルなワイシャツを着て眼鏡をかけた細い男、一人は赤色と黒色のチェック柄のシャツを着た中肉中背の男、そしてもう一人は灰色のトレーナーに鳶色のズボンを履いた太めの男だった。
「ごめんなさいねー、遅れちゃって」と、細い男が形式的な謝罪の言葉を口にする。そうしながら、その三人は書類やら何やらを机の上に置き、自らも着席していく。
「はい、では、説明会来てくれてありがとうございますね。んー、まあ、点呼から始めていこうかな」
 持ち込んだ書類の整理が終わったらしく、細い男の号令で説明会が開始され、各々の名前と所属を読み上げられるという地獄が始まった。女子学生は皆、美術系やいわゆるミッション系の学校に所属している方々で、男子は彼も含めて文系か理系の四年制大学の出身者だった。他の就活生が陰気そうに小さな声で返事をしている中、彼だけが気色悪い猫撫で声で高らかに返事をした。
「頭悪い悪い大学のエタ=ヒニン君は出席していますかー」と、細い男が言った。
「はい!」 

 参加者全員の出欠確認が終了したところで、主催者三人の自己紹介が行われた。細い男はゲームプランナーの代表者で、今回の採用担当ということを簡潔に述べた。中肉中背の男はプログラム部門の代表者で、部門構成員の中でも暇だから新卒採用の一端を担うことになった経緯を皮肉交じりで言った。最後に太めの男。デザインやその他諸々についての業務を行う部門で、しかもその会社で一番長い間勤務している事について朗らかに述べた。「雨天の中であるにも関わらず、足を運んでいただきありがとうございます」と、就活生のささやかな根気を讃えてくれたのは太めの男だけであった。
 そのローテーションが終わると、次周で各々の仕事内容や会社の雰囲気について、雑談まじりに紹介された。今までの企業説明会だとは感じさせないくらいに和んだ空気で会が進んでいく。そのことを珍しいと感じた彼は、必死に耳を傾けメモを取り、目を輝かせて拝聴した。目を細くして、自分の勤める会社について談笑しあう大人たちを見るのは初めてだった。その光景を見ている内に、彼の志望度は正の相関を強めていった。
 昔はブラックな環境で働いていたが、今では法律に則った労働時間を守っている事。委託開発がほとんどだが、最近は自社タイトルに力を入れている事。今日の昼食はラーメンだった事。それ以外にも他愛のない話題が展開された。その話を聞いている就活生の中で、メモを取っているのは彼だけだった。彼は、「どのようなことが役に立つのかわからない」と考えているので、手当たり次第にメモをするしかなかった。それが何の役にも立たないと知らずに。
 続いて、企業についての説明に移行された。といっても、説明自体は配布された資料を読み上げていくだけの作業なので、それについては特に支障なく、順当に進められていく。沿革、資本金、正規雇用者と非正規雇用者の比率、男女比率、社内の部門、開発作品タイトル。淡々と形式的に述べられていく。就活生たちは背筋を伸ばし、読み上げられている部分を目で追っていたり、ペンで線を引いたりしていた。一方、彼は爆走の疲労感による眠気が荒波の如く押し寄せてきているようで、目を擦ったりコーヒーをちびちび飲んだりしながら、眠ってしまわないようになんとか凌いでいた。ただ、読み上げている細い男の声が小さい上に弱弱しいので、二十頁程でまとめられた資料の半分が過ぎた時には、彼の睡眠への反抗は限界に達していた。

 配布資料に書いてある事などは、あとから読めばわかることなのでどうでもよかった。そんなことよりも彼は、午前中に説教をしてきた奇妙な蝉を思い出していた。あいつは彼の全てを見透かしたかのように説いてきたが、一体あれは何だったというのだろうか。一時はそれについての幼稚なアンチテーゼを低能な脳みそで考えていたが、改めて思うことがある。それは“あの蝉の言っていたのは、紛れもない真実ではないか”、という事だった。反証を唱えようにも瞬時に導き出せないのは、“彼の中の一部の要素或いは全てにおいて正論を言われてしまった”という事に帰結するのではないか。つまりは、あの蝉の言葉に対して、穿った物言いを考える事も踏んづけてぶち殺した事も含め、それら全ては図星を指されてしまった故のものではないか。そう考えてしまえば、あの蝉を肯定せざるを得なくなる。彼の頭の中はそればかりになっていて、どうしてもあの蝉を打ちのめしたいと奮起する反乱軍は少数だ。
「真実なんだよ。実に。火を見るよりも明らかなのだと、なぜわからない?」
 はっと目を大きく開くと、主催者三人の顔が全て、蝉になっていた。蝉になった細い男が口をパクパクと動かし、彼に語りかける。
「ここへ来たというのに、まだ何も捨てていないようだな。そうそう、君の疾走は拝見させてもらったよ。遅刻は咎めるだが、失踪せずに来た事は褒めてやろう。だけどな、そんなに眠たそうに聴いているとばれちまうぜ。お前の本心、本性、頭頂から足のつま先まで何で構成されているかってこともな。それは、それは赤子の手を捻ってへし折るくらいには簡単にできちまう。それから、今のお前がこの会社の選考に参加したとしても、落とされるのが関の山だ。このことくらいは把握しているだろう?うん、何も反応しなくていい。俺はお前が何を考えているのか、手に取るようにわかるからな。しかし、それなのに、なぜ俺の言うことに従わなかった?なぜ何も捨てずに、要不要に関らず全てを持ってきてしまったんだよ。それじゃあ社会に向き合うことはできない。流れに抵抗することもできない。俺みたいに沈むか、容赦なく弾かれるだけだ。今一度考え直せよ。お前のためを思って言ってるんだぜ?さあ、さっさと捨てろ。慢心、怠惰、虚栄、矜持、展望、欺瞞、楽天、無気力、神経質、夢想、厭世、皮肉、遊戯、自慰、堕落。あとは―そうだな、いやそれくらいだ。これだけ懇切丁寧に言い並べてやったんだから、多くても半分くらいは今すぐにでも捨てられるだろう。そして、この会が終わる頃には全てを捨てろ。いいな、それでようやくスタートラインなんだぜ?驚くな、当然だよ。どれくらい当然かというと、生きている者はいずれ死を迎えるということくらいには当然だ。逃れることはできないんだよ。逃れたとしても、その先にはまた別の社会があって、そこでも何かを捨てることを希求される。でも、何かを捨てるのなら今が良いと思うぜ。今だからこそ、捨てるべきものが少ないんだ。そのことに気付いてほしいんだよ。いいか、俺がさっき言ってやったものを少しでも多く捨てておくんだ。そうすれば、きっと楽になれるんだよ。そうすれば、きっと―」
 
 かたん、とボールペンが落ちた音がした。どうやら居眠りをしていたようで、マーカーで引いていた線が波打っていた。彼は慌てて―しかし動揺を隠しながら―主催者席の方を見る。企業関係者の男たちの顔は元に戻っており、会もそのまま進行していた。「―では、選考の段取りとか日程とかについて説明させていただきます」と、細い男は熱心にペーパーに沿って司会をしていた。彼が居眠りをしていた事に気づいていないのか、はたまたそういうふりをしているのかは不明だが、居眠りに関しては釘を刺されることはなかった。これではいけない、と彼は残り少ないコーヒーを飲み干し、手で顔を覆い力強く擦った。そうしてから、血走った眼とむくんだ顔を主催者側に向け、受けるかもしれない企業選考の詳細を耳で聞き、手に持っている赤いボールペンで資料へ直接殴り書いた。
 その間にも、蝉の言葉が引っかかっていた。というよりかは、両耳の鼓膜に―粘度の高い液体のように―べっとりとへばりついているみたいだった。彼は、眠りから覚めても、未だに何も捨てられずにいた。蝉の言っていた不要なものをどれか一つでも捨ててしまうと、その歪みからぼろぼろと零れて崩れていってしまうのではないか、という気がしていた。全てが彼を形作るなにかで、なにかは彼の全てだから。
 せめて、彼奴の文言の鮮明度が高いうちに理解を深めから、自分の築き上げた負の遺産を崩してしまおうと考えたし、実行しようと本気で考えた。しかし、躍起になればなるほど、彼の中のあるどこがしかの器官が激しく反発し、蝉による人格改造を拒んだ。なにより蝉は、捨てればどうなるかと具体的なことは言っていなかった。“きっと”なんていう無責任な誤魔化し言葉を使われたところで、誰が従うというのだろうか。いや、そういう考えを持っているから、変化や進化の機会を自ら忌避し、飛べない鳥になってしまうのではないだろうか。或いは、水の底で美しく息絶える黒茶色の蝉になってしまうのではないだろうか。どちらにせよ、何かを捨てなくてはいけないことも、それが急務に求められているということも承服していた。それにも関わらずに、何も捨てることすらできていない。その頑固さこそ、彼が捨てるべきものだというのに。

 選考についての説明が終わり、質疑応答の時間が設けられた。彼は(誰しもそうだが)あらかじめ、質問を用意していた。しかしそれは知識や技術を問うためのものではなく、全てを熱意に委ねた、甘えた質問であった。それ故に、周囲の出方を気にせずに先手必勝の一番乗りで質問するようにしていた。ゲーム開発に関することについては無知な彼の防衛本能がそうさせた。そうすることで、質疑応答時間に装備されている敷居の高さを取っ払えるし、知識不足をなんとか熱意で誤魔化せると思っていたからだ。
「質問っていうのは、例えば弊社のタイトルに関するものでも、先ほど説明した選考で不明な点であっても、何でもいいので気になったことがある方は挙手してください」と、細い男が後付けした。数秒ほどの様式美みたいな沈黙があり、適切なタイミングを見計らった彼が最速で挙手をした。「はい、じゃあ、そこの。お願いします」と、細い男が差し伸べるような手ぶりをし、彼を指名した。
「はい、ありがとうございます。頭悪い悪い大学から来ました、エタ=ヒニンです。この度は説明会に参加させていただき、ありがとうございます。ここで手を挙げさせていただいたのは、質問というか、私のすごく個人的なものになってしまうのですが、よろしいでしょうか。」と、彼はさも恭しい態度で、さっさと質問してしまえばいいのにどもりながら謎の前置きをする。
「はい。全然良くないなんてことは無いんで、なんだっていいですよ」と、細い男が微笑みながら続きを促す。
「ありがとうございます。私はゲーム開発に関しましては全くの素人です。と言いますのも、ゲームは子供のころから真剣に遊んでおりますが、開発に携わりたいと思い立ったのは最近のことです。なので、技術や知識はほとんど何もありません。プランナー職を目指しているのですが、企画書も自己流で自信が無いんです。本日の説明会に参加したのも、なんというか、思い付きとか衝動で来ただけって気もします。そこで聞きたいのですが、私のような人でもプランナー職に就けるのか、活躍できるのか、という事をお聞きしたいです」と、長々と蛇足まみれで質問くずれの痛い自分語りを吃音気味でやり遂げてしまう彼は実に滑稽だった。しかし、相手は社会で揉まれてきた大人たち、嘲笑せずに頷きながら聞き、どう答えようかと模索する。どうやら返答が用意されたようで、細い男が口を開ける。
「はい、エタ=ヒニン君ありがとうございます。じゃあ、プランナーを志望したのは最近の事なんだね?」と、細い男が再確認の返答を求める。「はい、そうです」と、彼が食い気味で反応する。
「僕もね、文系の大学で夏頃からゲームプランナーを志望した。ちょうど、君みたいにゲームが好きだからっていう理由でね。その時はインターネットで手探りに企画書の書き方とかを調べたよ。プログラムとかわからなかったけれど、こうやってプランナー代表を任されているよ。君も、今はそうしているんでしょ?―うん、だからね。そういうことは気になっちゃうと思うけど、あまり考えないようにして、手探りの企画書作りを楽しんだほうが良いと思うよ。そうすれば、どこかが君を採用してくれるはず。期待させるようで悪いけど、もしかしたら僕らが採用するかもしれないしね。あとは、熱意だけしかないっていうのがわかっているなら、色んな事に興味を持って、見聞を広めて、たくさんの知識をインプットするのが良いと思うよ。ゲームだけじゃなくてね。いつ、どこで、どんなシチュエーションで、その蓄えた知識が要求されるかわからないからね。以上の事をやっていれば、残りは努力で良い企画書が出来上がると思うし、良いプランナーになれると思うよ」
熱意には熱意で返すしか方法がない、という事を示すようなやり取りが行われた。
 双方の男たちは、どちらも納得した素振りでうなずき合う。回答者の細い男の方はわからないが、質問の当事者である彼の方は「はい、わかりました。回答していただき、ありがとうございます」と、まるで完全に心得たかのように礼を述べた。程度が低く、熱量しかない茶番が終わったところで、彼以外の他の就活生たちが、ちらほらと挙手を始めた。

 ここからの質疑応答における描写は、朽ちた糸瓜くらいに貧相なものになる。それは、会議室を見張っていた隠しカメラたちが不調を訴え、映像が乱れてしまったからだ。簡潔に言うと、質疑応答自体は正常に執り行われているようであった。しかし彼に続き、第二第三と質問が重なるにつれ、専門性が高いのか違う言語なのか、よく聞き取れなかったし、全くと言っていいほど理解できなかった。ただ、ぷつぷつと途切れたり白黒になってしまったりコマ送りになっている不完全な映像の中でも、終始流暢に何かの言葉を話すバルバロイたちとあほ面の彼がしっかりと確認できた。主催者側も言語を切り替え、何かしらの特異な言葉を話し始めていた。とにかく、こうした時間が三十分は続いた末に質疑応答の時間は終了し、映像は次第に鮮やかさを取り戻す。

 「他に質問のある方はいますか。…いないようなので、以上を持ちまして弊社説明会を終了させていただきます。この後は弊社の開発タイトルや開発に関わった作品の見学を行いますので、時間のある方は見ていってください」と、細い男の言葉で説明会は終わった。彼は、机の上に出していた荷物の片づけに移行した。ファイルに資料を入れ、筆記用具を筆箱に戻し、それらをリクルートバッグに押し込んだ。空のペットボトルは、すぐに捨てられるようにジャケットのポケットに突っ込んだ。バッグのジッパーを閉め、傘を持ち、会議室を出た。
 彼が向かったのは、エレベーターだった。ボタンを押すと待ち焦がれていたように扉が開き、年季の入った小空間が彼を招き入れる。スライド部分が壊滅的に噛み合っていないのではないかと思うくらいの雑音を奏でながら扉が閉まり、一階へと降りてゆく。不吉な揺れ方をしている小さな箱の中で、彼は目を瞑っていた。目を休ませるためや疲れているためでも、何を考えるでもない、意味もなく瞼を閉じていた。
 一階に停止し、今にも壊れそうな扉が開け放たれる。外はまだ雨が降っていた。それに伴い、湿った空気が彼を包み込む。ゆっくりとエレベーターから出て、マスクを顎まで下げると同時に空気を一気に吸う。そして吐き出す。真新しい酸素が足のつま先まで行き届いたのを感じたところで、傘をさし、走ってきた道をそのまま戻ってゆく。
 時刻は午後五時十二分。外はたっぷりとした夕日の橙が満ちていてもいいはずだが、空を支配している絨毯のような黒い雨雲がそうはさせない。辺りは薄暗くなり、車道にはライトを照らす車がせわしなく走っていた。道行く人々は彼と同じくスーツを着ているか、学生服を着ていた。それらの影が同じ方向に歩を進めている。流れを乱さぬように一定の速度で歩いていると、駅が顔をのぞかせてきた。彼から見て手前には例の喫煙所があり、バスロータリーを超えて浦和駅が構えている。何を血迷ったのか、彼は喫煙所を素通りし、人の流れに合わせて駅構内に足を踏み入れた。
 傘を畳み、左上腕にハンドルをひっかけて改札に向かう。歩く速度をそのままに、電子マネーをかざして改札を通り、無意識的に湘南新宿ラインが通る五番線に向かう。靴音を鳴らしながら階段を一気に踏破し、見晴らしのいいホームに着いた。時刻は午後五時五十分。池袋駅行きの快速電車はすぐに来た。混雑が予想されていたが、肩身の狭い思いをするほどではなかった。彼を含め、池袋駅を目指す老若男女を収容し、駅員の合図によって扉が閉まった。ホーム全体にブレーキの緩解音が鳴り響くき、電車は速度を帯びていく。

 電車は、あっという間に池袋駅に到着した。まるで時間旅行によって、距離的なものを無かった事にしたかのようだった。彼は早歩きで改札に向かい、電子マネーによる高速決済を行う。JRの改札出た彼が一直線に向かうは、濃い青色が目印の某路線。十分後には成増駅行きの電車が出発する予定だ。男を避け、女を抜き去り、目当ての改札に入ってゆく。階段を上がると、そこには既に扉の開け放たれた電車があった。それに乗り込み、座席の端に腰を下ろす。ようやく肩の力を抜ける、と言わんばかりに深く座り、ネクタイを緩めた。周りの人が少なかったので、腰を捻り、肩を回すストレッチを行った。そうしてから、膝にバッグを抱え、それを支えに頭を置いた。彼は背を丸めて目を閉じ、その日のあれこれを振り返る。朝起きてから今の今までを順番に思い起こす。しかし蝉の事などは全然思い出したくないので、蝉が登場する前の段階で思い起こす作業を止めた。代わりに、彼は昨晩から今朝までやっていたゲームの、モンスターに施すパラメータの割り振りについて考える事にした。そうしている内に気が遠くなってゆき、駅特有の喧騒の中で浅い眠りに落ちた。


 彼は、湖のような、塩気が全く含まれていない水の底に沈んでいた。しかし、それが海でもなければ湖でもなく、池でもない事はすぐに分かった。これは単なる水たまりだ。というのは、彼の隣には今朝に見たような蝉がいて、水面にはもみくちゃにされた吸い殻が浮いていたからだ。両者ともに仰向けで、草原で夜空の星々を見るかのように天上へ意識を集中させていた。水面は雨粒が落ちるたびに波紋が広がっている。
 不思議な事に、水中にもかかわらず正常に呼吸ができる。まるで水の中の酸素だけを体内に吸収しているかのようだった。そのせいか、寧ろ地上で深呼吸する時よりもスムーズに酸素を補給できている感じがした。それに伴い、意識が普段より一層研ぎ澄まされている気がした。しかし―先ほどから実行しようとしているのだが―、一向に体を動かせない。彼は必死になって、まずは右手を握りしめようとしたが、ぴくりとも動かない。ある程度もがいた末に、首から下の感覚がまるで無いという事だけわかった。脳が指令しても、どこかの段階で、その伝達が無かったものにされているようだった。どうもしようが無いので彼は諦め、隣の方で寝転んでいる蝉を見やった。蝉もまたぴくりとも動かずに、ただただ上の方を向いていた。
 どうやら、口だけは動くので、話しかける事にした。声を出した瞬間に、ごぼごぼと大量の気泡が零れる。なにしろ、そこは水の底だ。口は動かせても、声を出せるわけがない。それでも彼は、どうにかして蝉に話しかけるために力一杯に喉を震わせた。声は届かずとも、酸欠寸前まで泡を出している彼に気づいてもいいはずだが、いつまで経っても蝉は微動だにしなかった。それどころか蝉は、さっきから彼が散々やっていたような、呼吸に伴う気泡の放出すら行っていなかった。蝉は死んでいた。体表は黒々と光っていて、蝉の王子だとしてもおかしくは無いくらいに美しかった。しかし(彼は気づいていないのだが)中身は何もなく、抜け殻のようにそこにあった。彼がそれに気づいたのは、絶叫によって肺の酸素を三回ほど空にした後だった。
 そうしてから、もう一つ気づいた事があった。彼もまた、死体に近づいていたのだ。息が上がらないし、体は動かせないのはそのためだった。彼の体から、中身が少しずつ消えていく。今は、骨が溶け始めている段階だった。次に筋肉、臓器、脳。最後には意識が全身の毛穴から滲み出し、水の中に溶けてゆく。おそらく、あの蝉は最後の力を振り絞ることで、彼とのコンタクトを成功させたのだろうか。だとしたら酷い最期だし、憐れなものだな。そう思いながら、身に降りかかる異常現象を受け入れ、ぼうっと水面の吸い殻を見続けていた。波打つごとに漂い、徒然なるままに彷徨い、そこかしこを往来しているが、視界より外に出ることはなかった。ただ、彼の視力の方が先に限界を迎えてきたようで、その光景はモザイクがかってきた。
 もはや水面に表れる波模様の判別すら危うくなってきた。瞼も閉じてしまおうかと思っていたその時、一瞬で天上が黒に染まった。何事かと驚いたが、慌てるための膂力を持ち合わせていなかったので、とりあえず目を開くだけに留まる。力を失った目で見上げていると、色の判別だけは出来た。大部分は黒色なのだが、一部(寝ている彼から見たら上の方)は白色というか肌色というか、とにかくそういう配分の物体の影になっていた。ただそんな分析をしたところで、わが身が溶けて無くなる運命に変わりなかったので、それ以上は何も考えずに見上げていた。
 その間にも、彼の体は液体化の一途をたどっていた。遂に歯が溶け、眼球も溶け始め、意識も飛びかけていた。舌は既に無くなっていたので、溶けた歯の味はしなかった。溶けた眼球は鼻涙管を通り、口の中に溜まっていった。最初の方は嫌な気分になっていたが、その嫌悪感というか不快感も、意識が消えていく内に希薄になっていく。もしかしたら、誰も彼もがこういう感覚の下で死に向かうのかな、と彼は思った。
視界は完全に暗闇になり、何も考えられなくなった。そうして彼も中身のない抜け殻になってしまった。外見的には仰向けで心地良く眠っているようにしか見えないが、息もしていないし眉一つ動かない。ひたすら、山のように横になっていた。
 意識も、水の中に溶けた。それは、未だ分解されることはなく、集合体として機能しており、容れ物だった肉体を俯瞰的に見下ろす事が可能だった。一種の幽体離脱のようなものだ。彼の意識は、かつて彼だった何かと、その隣にいる蝉を観察する。まるで、ハイエナが動物の死体を漁る時みたいに。やはり両者ともに眠っているように死んでいるし、骸にしては余りにも綺麗すぎる。
それを確認してから、水面の更に上にいる、謎の黒い物体の方を注視する。すると、天上の方に吸い込まれていった。それも、凄まじい吸引力だ。なにか特別な機械によって吸われているのではなく、万有引力というか全ての理が逆転してしまったかのように思ってしまうくらいに測定不能な力が働いていた。しかし底にある二つの遺物は数センチすら動いていなかった。梃子以上の力が働いているというのに。彼の意識は、抵抗の余地もなくして水面寸前まで引き寄せられる。
 そして、水たまりから放出されたその刹那だった。世界の法則がまたしても逆転し、元に戻った。放たれた意識は空気と融合しようとしたが、完全に一体化する直前に水の中へと引き戻される。
 水の中に戻った意識は、何かしらの容れ物の中にいた。何に入れられているのかはわからないが、おそらく生き物だろうというのは分かった。しかし、相変わらず目と口しか動かせない。目玉をぐるりと回して辺りを見回すと、自身以外は何も無かった。蝉の死骸も彼の死体も無かった。なぜか先ほどよりは視界が明瞭だったので、また何も見えなくなる前に雨粒の波紋でも見ようと思い、天井を見上げる。水面には曲がった吸い殻と、彼がいた。


 ブレーキ音、アナウンス、人が出す物音。雑音三重奏の圧倒的に不快なアラームによって目を覚ました。寝ぼけ眼で車内の電光板を見やると、アパートの最寄り駅名が左から右に流れている。扉は解放されていて、彼の乗る車両の降車は既に終了していた。眠りから覚めた彼は慌てふためくことなく、傘とバッグを右手に持ち、座っていた座席や床の周辺に忘れ物が無いかを確認し、電車から降りた。そして、駅員による指差し確認の後に扉が閉まり、電車は次の駅へと加速してゆく。時刻は午後六時四十一分。どうしても煙草を吸いたかったし、腹も空いていた。
 まずは腹を満たそうと思い立ち、駅の近くにあるココ壱番屋へ向かった。彼はその店舗を本当に日頃から利用しているので、慣れた足取りでいつものカウンター席に座った。そして荷物を足元に置いてから、ベテランの手つきでメニューを捲る。注文するものは元から決まっていて、メニューなど見なくていいのに。店員が水と食器を提供したタイミングで注文を申し出る。
「ご注文をお願いします」
「はい、ポークカレーソース、ライスは三百グラム、辛さは四、トッピングは納豆、豚しゃぶ、ホウレンソウ、オクラ山芋でお願いします」と、早口言葉にならないようにゆっくりと詠唱する。「かしこまりました。品が出来上がり次第、お運びします」
 やがて、注文した通りの品が彼の前に現れ、最小限の租借で飲む。同じように水を飲み干す。マグマのように煮えていると思われる胃の中身が少し落ち着いてきたところで、ひりつく唇をマスクで隠し、会計を済ませて店を出た。雨は降っていたが、気にするほどではなかったので傘はささずに帰路を歩いた。
 
 欠陥アパートの高級独房みたいな部屋に着いた。ドアノブに傘のハンドルを引っ掛け、腰を曲げて丁寧に革靴の紐を緩めて脱ぐ。半日も動いていないのに、あたかも重労働を終えたような疲労困憊で、スーツという名の拘束具を脱ぎ、白色の肌着とチェック柄のパンツとソックスだけになる。彼はそのままエアーコンピューターを除湿モードで起動させる。正常に起動したのを確認してから、専用のハンガーにスーツをかけ、靴下を脱いで洗濯かごに入れる。そうして、換気扇を回し、煙草を咥えて火を点ける。彼はまるで、世界一うまい空気を吸っているかのように力の抜けた表情で煙を飲み、肩を落としてそれを吐き出す。彼は煙が換気扇に吸い込まれていくのを眺めていた。煙草を飲む以外の事は何も考えず(何も考えられなかった)に、邪悪な深呼吸を繰り返す。いつの間にか、右手の人差し指と中指に熱源が迫っていたので、最後の一吸いをもって喫煙の儀を終了した。
 一服が無事に完了したので、うんこをするためにユニットバスへ入る。便座に座り、腹部に力を集中させる。しかし、今日はカレーの他に食べたものと言えば、ヨーグルトとチョコレート菓子くらいなので、兎のうんこみたいなものしか出てこなかった。もっと出てくると思っていたので、残尿感と残便感がありありと感じられた。しかし腸がむき出しになるくらいに超踏ん張っても出てこなかった。彼は諦め、尻を拭いて水を流した。
 その日の予定はもう無くなったので、彼はシャワーを浴びる事にした。パンツと肌着を脱いで洗濯かごにぶち込み、もう一服を済ませてから、再びユニットバスに入る。高級独房のシャワーは親切にもお湯が出てくる。最初に熱湯を出すための栓を一気に捻り、流れてくる水を手に当てる。熱すぎてもいけないので、冷水の栓を緩めながら温度調節をする。夏に熱いシャワーを欲するほど彼は粋ではないので、銭湯にある子供用風呂くらいのぬるま湯(つまりは小便と同じ温度)にするためにつまみを調整する。まずは頭頂からシャワーを当てて、全身を流す。キリスト教とかで行われている洗礼の儀式もこれくらい気持ちの良いのかな、とか訳の分からない事を考える。
 その後は通常通り、致死量はあるのではないかと思うくらいの量のシャンプー液を手に溜め、頭に垂らしてわしわしと洗う。彼は泡だらけになる事が滅茶苦茶に好きなので―節約しようとも考えてはいるが―、死ぬほど泡立てるためならシャンプー液を浪費する。頭が泡で白いアフロヘアーみたいになってくる。膨れて溢れてきた泡が目の中に侵入し、激痛を感じたため、シャワーを頭に当てて全ての泡を落とす。
 次にクリームを使って洗顔をする。先日、メントールを含む洗顔料を新たに購入しておいたので、そいつを使った。太った芋虫くらいの質量をチューブから出し、手に馴染ませて顔面に塗りたくる。肌に伸ばしたそばから、灼けるような爽快感に顔中が包まれ、思わず失敗した福笑いみたいな顔に歪む。クリームが残っている内に髭も剃ってしまおうと考えていたのだが、表皮が火傷のようにひりついているので、急いで洗い落としてしまった。しばらくの間、メントールのこびり付いた顔を湯で流した。
 顔の調子が戻ってきたところで、湯を出したままのシャワーヘッドを壁にある突起に引っ掛け、その壁と対面にある壁に掛かっているボディタオルを手に持つ。それを軽く濡らし、そこへ大匙二杯くらいの量でボディソープを垂らす。タオルを二つ折りにして擦り、泡を立てる。やがて液は質量を増してゆき、両の手を覆うくらいになったところで、タオルを力強くなぞらせてゆく。鮫肌くらいに粗いタオルが皮を削り、新しい皮膚が顔を覗かせる。心地の良い痛みと暖かい泡を全身に隈なく行き渡らせる。夏場に痒くなりがちな首周りを熱心に洗って泡まみれにし、革靴で蒸れた臭い足をこれでもかというくらいに擦った。しまいには睾丸袋と尻の穴の間でタオルを往復させ、包皮を剝き、やさしい手つきで入念にペニスを磨いた。痒い箇所が無くなったので、纏った泡をシャワーで洗い流す。
 極上のシャワータイムを終え、頭からつま先までの水気を乾いたタオルで拭き取った。顔から発汗するくらいには熱を帯びていたので、パジャマは着ずに全裸で煙草を吸った。エアーコンピューターが吐く除湿冷房の涼しさが全身を吹き抜け、解放感でたまらなくなる。その中で、彼は本物の乞食みたいに煙草を吸い、水の入れてある缶の中に吸い殻を捨てた。体の火照りが落ち着いてきたので、パジャマに着替える。クローゼットケースの中からパンツを取り出し、今朝に脱ぎ捨てたティーシャツを拾い上げてから体に通す。衣類の冷たさに体を撫でられる。あまりにも心地良さに、彼はこの瞬間こそ一番の幸せだと言わんばかりに目を細めた。

 そうして、そこらへんに放ってあったゴムの緩いハーフパンツを穿き、座椅子に腰を下ろして机に向かう。彼はバッグから、おもむろにパソコンを引っ張り出して机の上に置いた。充電のためのアダプターをコンセントに差し込み、大して使わなかったパソコンを充電させる。そうしながら画面を開き、パスワードを打ち込んで起動させる。整理整頓のされていないホーム画面が表示され、マウスの接続が確認できるや否や、カーソルをあるアイコンに持ってゆく。
 それは、二か月で作ったゲーム企画書だった。彼はそれをダブルクリックした。何度も推敲を施したのに、何を修正しようというだろうか。彼は一頁の一文字目から六項の最後までを目で追い、今まで以上の慎重さで確認する。それでから、合点を得たかのような顔つきでソフトを閉じ、それをごみ箱のアイコンまでドラッグした。
 残り二つの企画書も、同様のやり方で確認し、ごみ箱のアイコンまでドラッグした。彼はそれに飽き足らず、ゴミ箱を開いて全ての保存データを抹消した。企画書のプロットが記されたデータが残っているのにも気づいたので、それらもまとめて処分した。それに至るまでの全ての操作を無表情でやり遂げた彼は、そのままの顔でパソコンの電源を落とした。
再びユニットバスに入り、歯を磨く。カレーの刺激的な臭いを消すために、力を込めて磨いた。口の中の歯磨き粉を水に流し、掛けてあるタオルで口周りを拭い、ユニットバスから出る。冷蔵庫に向かい、ミネラルウォーターを取り出して一口だけ飲んだ。
 そして、窓側に敷いてある布団の上に横になる。彼の中には、何の憂いも、後悔も無い様だった。彼は仰向けのまま目を瞑り、明日の朝まで眠る事にした。
 それはまるで、棺桶の中に横たわる死人のように、安らかな姿だった。

 僕はこんな事を書くために就職活動をしていたわけでは無いのです。将来を見据えて、死ぬまで衣食住に困らないために活動していたはずです。結局、それ自体は徒労に終わってしまいました。ただ、僕としても、それを無駄にはしたくなかったので、こういう形にしてしまっただけなのです。メタ的なことになってしまいますが、自分の書く力を評価してもらおうとか、インターネットで話題になってやろうとか、そんな風に考えてはいません。これは本当の事なのです。更に言うのであれば、慰めてほしかったとか、僕は悲劇のヒロインなんだとか、俺ってまじで可哀想な奴なんだぜとか、そういう考えも全くありません。それだけはわかってほしいのです。
 おそらく、これをアップロードする頃には、僕は就職活動を再開していると思います。でも未だに、どうすればいいかわからないのです。どうすれば皆みたいにやりたい事を見つけられるのですか。というかやりたい事って何なのですか。何をしていたら働きたくなるのですか。どうして先の事も分からないのに、そんなに頑張れたのですか。活動を続けたところで成功するとは限らないのに、なぜ続けられたのですか。行動あるのみだと頻繁に言われますが、行動したところで変わらないものの方が多いのではありませんか。
 全否定するわけではありません。なにかしら変わるものもあると思いますよ。でも、それって本当に変わるのですか。本当に“行動”して、“変わった”ものなのですか。もしかしてそれは幻とか蜃気楼とか夢の可能性だってありますよ。既に習得していたものが表面に浮き出たにすぎない可能性だってありますよ。なにも確約されていないではありませんか。ギャンブルの方が“まし”なのではありませんか。
 大人たちや勝ち組で上昇志向の学友たちは何かを悟ったのか、狂ったように「まずは行動だ」と抜かしてきます。何なのですか。なぜなのですか。行動して何もかも変わらなかった人間に言う事がそれなのですか。
 何も変わらなかったとは言いましたが、そういえば変わったものがいくつかありましたよ。無駄になった交通費、無駄になった時間、新しく開拓された偏見、大人を自称する資格が無いという事実が浮き彫りになり、自己価値の無さに気づき、モチベーションはどこか彼方へ。それくらいですよ、変わったことを敢えて挙げるのであれば。

 逆に問いたいのですが、あなたは何が変わりましたか。就職先も決まり、企業から提示された課題やら何やらをこなしてしまい、今は金と女と酒の話しかしていないあなたに聞いているのですよ。返答を用意できないのなら、本質的には僕と同類だと思います。強いて言うなら、僕の運が無かっただけですね。僕の学友にいますよ、そういう人。そんな輩に限って自分の話しかしないし、自分の物差しを押し付けてくるし、自分の都合でこっちの予定を変えてくるし、遠慮しないし、やたらと風俗に誘ってくるし、自販機に行くと言えばじゃんけん大会を始めるし、決まって高値のスニーカーを履いています。僕はそういう人が大嫌いなのです。何の根拠も無しに行動しろだの変われだのお前ならできるだの、気休めにもならない事を言ってきます。僕はそいつらじゃないから、そのシーンでは何も言い返せません。でもそいつらは僕じゃないのにとやかく言ってくるのです。就職活動のアドバイスを勝手にしてくるのです。だから何もかも嫌になってしまったのかもしれません。しかも、それで僕に焼き肉を奢らせようとしてくるのだから大したものですよ。
 ―少々取り乱してしまいました。ここにゾーイーがいたら説教されてしまうかもしれませんね。だとしても僕はそういう人種が死ぬほど嫌いで、そういう奴にああしろこうしろと命令されるのにうんざりしてしまうのですよ。愚痴を言ってしまって申し訳ありません。それと、これは見下しているわけではないのです。先ほど述べたとおりに、そいつらと僕は同類というか、同レベルなのです。あいつらの方が、運が良かっただけなのです。それをわかっているのに、そいつらによる不要の思慮や打算的な慰めに腹を立ててしまいます。それをわかっているのに、僕は行動もせず変わろうとせず、なぜか自身以外の何かに責任を擦り付けたりしているのです。僕は程度の低いフラニーなのかもしれません。
 それに、輩に具体的な事を聞いても無意味だと思ってしまいます。先ほども述べましたが、彼らは僕じゃないし、僕は彼らじゃないのです。僕が何かしらのアドバイスを煽って、輩に返答を貰ったところで、それが僕自身に効能があるわけじゃない。それは、僕が輩の鼻につくことを列挙してあたかもそれと自身の就職活動を責任があるかのように結びつけてしまうのと同じく無為なのですよ。それらと就職活動は全く関係ないし、どうでもいい事です。つまりは、輩や(もっと言えば)やかましい大人たちのもっともらしいアドバイスなんかも、僕にとってはつまらないものになってしまうのです。僕は僕のやり方で、やりたいように行動し、変化し、道を開拓していかなくてはいけないのです。


 そういう見解を見出した今になっても、僕は何にもなっていないのです。動いても考えても無駄になってしまう事が怖いのです。僕はどうすればいいのですか。無駄なことは決して無いという僕の考えについての反証というか僕への慰めというか一般的な綺麗事というか、そういう事を毎日のようにチューリップに牛乳を注いでそうな人が言ってくるかもしれません。そういうような、花が枯れた事を何かしらの変化だと思ってしまうような残念で悲しい人に言っておきたいのですが、無駄な事はあるのですよ。あなたたちの言わんとしている事はわからなくも無いです。無駄だと決めつけてしまえば、本当に無駄になってしまう。だからこそ、無駄な事は決してないのだと主張しているのでしょう。一応は尊重します。だって、実際に花は枯れているのですから、意味のある事なのでしょうね。僕の方はというと、枯れもしないし、太りもしないし、実りはないのです。僕は究極の植物人間なのです。何をしても、何を施されても、無になってしまうのです。

 今回のように長い文章を書けたじゃないか、と言ってくる人もいるかもしれませんね。で、それが何になるのですか。こんなの誰でも書けますよ。一週間か二週間くらい暇ならね。その慰めと対になるように、これを書く時間があるならどこかの企業の選考を受けろと言ってくる人もいるかもしれませんね。で、そうしていたら内定は確約されていたのですか。そう返せば、「それはわからないけど、動かないと始まらないよ」と同じ文句が返ってくるのが限度でしょうね。それはまるで何かに取り憑かれた教信者のように復唱してくるであろうことは存じ上げています。それが悪いとは思っていません。ただ、僕にとっては、毒にも薬にも、森の奥深くの泉から数千年に一度しか湧き出ることのない神聖なエリクサーにもならないというだけなのです。
 「若いから、視野が狭くてそういう考えしか見えてこない」と、思う人たちもいるでしょう。若いとか老けているとか、果たしてそういう問題なのでしょうか。それを言ってしまえば元も子もない気がします。年を取っていれば何かを成せると思っている愚者の物言いです。そういう事を言うのは止してください。僕は今の話をしているのです。“年を取ればわかるようになる”なんて、それこそ不確実で不明瞭ではありませんか。それを悟ったように言ってくる人がいますが、悟りとか達観とは程遠い思考だと思うのです。それは単に、“理解したつもり”でいるだけですよ。
 勘違いしないでほしいのですが、僕は年配者をこけにしているわけではありません。人一倍尊敬していると自負しております。ただ、年齢を引き合いに出してほしくは無いのです。それって、腕っぷしの強さで人間の価値を決めるのと同じくらい短絡的だと思います。それに僕は、自身が若いという事を熟知しています。僕はまだ青い果実なのです。かわたあつやの青の時代なのです。一体全体、熟れる事はあるのでしょうか。とにかく、若さを指摘されたところで何の肥やしにもなりません。
 年齢という下らない指標に重きを置かずに生きている人に聞きたいのです。どうすればたっぷりと口紅を塗ったように深紅の果実のようになれるのですか。「行動あるのみ」と、言いたげですね。生きてきた年月では無く、他の物を指標にした場合にはそういう答えの方が多く返ってくる事はわかっていました。「行動あるのみ」ですか。はい、僕もそう思います。そうですね、高層ビルから飛び降りれば、否が応でも赤になれるのはわかっているので、その助言を有難く頂戴しておこうと思います。

 話が蛇の這った後のように右往左往してしまいました。それもこれも、僕が何もわかっていないことの裏付けになってしまうのです。話を戻しましょう。結局のところ僕は今も、どうすればいいのか、どうしたいのかが分かりません。僕が進むべき道を教えてもらう事はできますか。説教は要りませんよ。機械的に、形式的にやってください。そうしてもらうことができるのなら、どれだけ楽なものか。大体の人は欠点を突きまくるのに夢中になってしまいます。それは僕の就職活動夏の陣と同じくらい無駄なので、是が非でもやめてほしいし、そういうものが火の粉になって我が身に降りかからないようにと祈るばかりでごぜーます。
 そういう杞憂ばかりが先行してしまうから、僕は何もできずにいるのでしょうか。僕は分別のないガキです。何を求めるにしても、与えられるにしても、自分の都合の良いように塗り替えて、必要以上に考えてしまいます。それか、自分の都合の悪いように考えてしまうのです。だから動き出せずにいるのだと思っています。
 哀れな自分を受け入れ、変化の兆しに向かおうとしている今でも、逆説的な接続詞を打ち込みたくて指が震えています。それを克服することは、刀を打つよりも難しいことです。みんなは刀を打ってきたのでしょう。業物になるか鈍になるか、そんなの分りもしないのに。
 どんな刀になったとしても研磨を重ねればいいのでは、と考えている事だろうと思います。僕にはそれも出来ないのです。だって、研ぐための石も熱するための火も無ければ、小槌もありません。刀が無いのです。玉鋼が内蔵されているかすら怪しいのです。そんな奴に一体何ができるというのでしょうか。

 もういい加減、僕も気づき始めているのです。苦心していても仕方のないことだって事は。それと同じく、行動に移すにしては遅すぎるかもしれない、と考えてしまいます。ただ、そんな事は言っていられないし、考えだしたら動けなくなってしまうでしょう。
 ちんけな苦悩と意味不明な文筆活動の終着点を探していましたが、今がその時だと見切りが付きそうです。というよりかは、ここから抜け出さなければ何も始まらない。無理やりにでも終わらせなければなりません。
そして、僕も変わるのです。次のステージへ駒を進めなければいけません。こんな僕でも、変わる事ってできますか。何者になりたいか、自分でも分かりません。それでも、機会を勝ち取る事ってできますか。




 そうは言っても、そんなことは誰にもわからない。彼は実に何も気づいていない。実に何も分かっていない。彼こそ、そういう“ふり”をしているだけなのだ。そうすれば、上手に逃げられる事を知っているから。そうすれば、良い顔をしていられるから。変わろうとか動こうとか息巻いているが、何に向かっているのかが明確ではない。それはガスの漂う山道を半壊したおんぼろ車で走るようなものだ。彼に至っては、ヘッドライトとスピードメーターが故障し、サイドミラーが割れているような自動車を操縦している感覚に近い。ブレーキの利きも甘いのかもしれない。もちろん、保険などは存在しない。しかも乗組員は彼一人なので、どう頑張っても彼の視野角では限界がある。それで、一体どうやって登りきるつもりなのだろう。断崖絶壁から森の奥深くまで落ちてしまったら、誰に救助してもらうつもりなのだろうか。
 私にはもう、何をする事もできない。施そうにも、邪魔になるだけだ。退く以外に道はないのだ。彼が、彼自身のピリオドを見つけたのだ。私としても筆をおかざるを得まい。

 これからの道、先にある分岐、行先不明の列車、損なわれた燃料。棘の道よりも険しいに相違ない。それもこれも、自身の過去の遊惰が原因になっている。細い糸のような因果関係で繋がっている。直接的ではなくとも、どこかで固く結ばれている。それらが束になった末に、現在のような悲惨な状況があるのだ。体中に絡みついて、肉に食い込むくらいに強く縛りついている。振り解くには死ぬか、死ぬまで努力しなくてはいけない。
 出来るのだろうか。否、やらなければいけない。実行するのは簡単だ。あと一歩を踏み出すだけだ。彼はそこに躓いているだけだ。踏み出せれば、暗闇から解き放たれ、新たなる旅立ちを遂げることができるだろう。どのような旅立ちを遂げるか、どのような景色になるかはわからない。もしかしたら、再び暗闇の中にぶち込まれるかもわからない。それに怖がっていてはいけないし、踏み出した先が足場のない崖なんて事は万に一つもない。
 崖とは過去のことだ。後退の一歩を踏み出してしまえば、そのまま地獄の大釜へ真っ逆さまだ。だからこそ、前へ進まなければいけないんだ。今いる場所に安寧を求めてはいけないんだ。現状に甘んじることはつまり無なんだ。過去に縋りつく事はつまり死なんだ。どうか彼には、それを理解した上で一歩を踏み出してほしい。そうでない内に安寧や過去を求める資格は無い。理解してから、次に踏み出すための一歩を決めてほしいのだ。
 果たしてこれからの道、彼はどうするのだろうか。

 僕はどうするべきなのでしょうか。


 俺はどうしたいのだろうか。

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