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【詩の森】562 デザインされた僕

デザインされた僕
 
僕の体が
遺伝子の設計図通りに作られ
僕の心が
教育によってプログラムされたのなら
ひょっとしたら僕は
ロボットなのかもしれない
定年になって僕は
仕事で毎日のように使っていた
売上・効率・生産性といった言葉が
僕の日常まで支配していたことに気づいた
それもプログラムだとしたら
ロボットだったといえるだろう
 
それぞれに名前があるので
僕は君とは違うと思っていたけれど
ほんとうはどれくらい違うのだろうか
教わったことをそのまま信じ
教えられた通りに動くのであれば
僕らは似たようなロボットなのかもしれない
もし僕らがロボットなら
それは取り換えが効くということだ
「どうぞ辞めてください」
「あなたの代わりはいくらでもいますから」
僕もそんな言葉を怖れて
職場にしがみついていたのかもしれない
 
高橋秀実さんの『道徳教室』によれば
小学校一年生の道徳の教科書には
次のようにその目的が書かれているという
「どうとく」では、よりよくいきるために
たいせつなことについて、
みんなでかんがえるよ。
しかしこの言葉だけでは
よりよく生きるが何を意味し
大切なことが何なのかよく分からない
さらに分からないのは「みんなでかんがえる」だ
これがドイツの教科書となると
「一人でいる」ことの価値を尊重するという
 
考える行為は本来一人で行うものだ
だから「みんなで」の助詞「で」は
「として」という資格の意味なのではないだろうか
そうすると「みんなでかんがえる」は
「みんなの中の一員としてかんがえる」
ということになるだろう
そこに立ち現れるのは
「個人としての僕」ではなく
あくまでも「集団の一員としての僕」だ
道徳の根本機能は人間の行為に
規則性を与えることだといわれる
集団からはみ出ないことが道徳的なのだ
 
僕が僕であると気づいたのは
いつの頃だったのだろう
僕は長い間
僕自身が僕を作ってきたのだと信じていた
僕は自分の意志で仕事を選び
社会と向き合ってきたのだと
つまり僕が僕をデザインしたのだと―――
しかしほんとうは
そうではなかったのかもしれない
人が社会で生きるということは
知らず知らずのうちに
その社会に適応することだからだ
 
それを社会的デザインと
呼んでもいいだろう
僕自身がデザインした僕と
社会によってデザインされた僕―――
農家の長男に生まれた僕は
農業を継がず都会に出てサラリーマンになった
農業は機械化され余剰人員が
第一次産業から第二次・第三次産業へと
組み込まれていったのだ
そのデザインをしたのは政治である
僕らが政治に無関心ならその大いなる流れに
ただ翻弄されるだけだろう
 
2023.11.5
 
 

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