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0628 ジャスミンの香りさえ

人の顔を覚えるのが苦手だ。あと名前も。
だからこの人のことを覚えておきたいと思ったときは、写真を撮ったりSNSを交換したりを意識的にする。SNSには大概名前も書いてあるので、こっそり復習につかう。

先日、覚えておきたい人と出会った。
過ごしたのは1週間くらいだったけれど、買い物に、湖に、ハイキングに、一緒に出かけた。
植物が好きな彼女は、自然を歩くと、新しい木や花の名前を教えてくれる。たくさん教わったのに、結局覚えられたのは黄色い花の名前ひとつだけだったけれど。

道端でふと立ち止まったかと思えば、花の匂いをかいでいたこともあった。家の壁に沿うように咲いている小さな白い花。ジャスミンだよ、と彼女は言った。私も一緒に鼻を寄せて、これがジャスミンなのね、と記憶した。

写真が好きではなくて、SNSもやっていないという。覚えておきたいと思ったのに、忘れてしまうのが怖いまま、写真をとろうと言い出せないまま、別れた。

数日がたって彼女と歩いた道を一人で通ると、知った香りが鼻をくすぐった。
どこかの本で読んだ言葉を思いだす。川端康成の『化粧の天使達』という作品が出典らしい。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます

いつものように、顔の記憶は、だんだんと朧げになっていく。もう少ししたら、名前も忘れてしまうかもしれない。けれど、電子データになった写真ではなくて、細く繋がるSNSではなくて、一緒に嗅いだジャスミンの香りと黄色い花の名前さえ、覚えておけばいいような気がした。そのほうがずっと確かな気もした。


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