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波にゆられて、足し算をする。

そんなことより、春を探しに行きませんか。

左耳の空気が、甘酸っぱく震えた気がした。

『立ち止まりしゃがんでみようたんぽぽが世界をみている高さになって』

右耳の空気が、俵万智をうたう。最近桜ばかり見上げていたし、たんぽぽとしゃがむのも悪くない、気持ちになって、ふらりと春に踏みだした。

たんぽぽをみつけるたびにしゃがみながら、ばしゃばしゃと写真を撮って、すすむ。時折レンズを、たんぽぽの視点にしてみる。ぱっきり晴れた青空と、私の影が写って、怪獣みたいだ、と思う。今にもつみとられそう。

川べりを歩いていたら、残像という言葉が、ふわりと立ちあがった。すばるさんは誰かの残像と会話していたけれど、自分の残像、をみるような時もある。ここを歩いていた2週間前の自分と、そのときもいた黒い鳥。なんとなくつけた名前は忘れてしまった。翼を広げて、水面を滑る、道筋。残像と視点が交差する。桜をみていた、1年前の視界、どうしようもない、先ゆきのみえない不安と、並ぶ桜をみあげる、坂道の角度。

残像は震えだ、と思う。蜃気楼のように立ち上がって、震えてそして気づいたらまた、霧散している。

残聴、が聞こえることもある。そこにある空気が、そこにあった空気を思いだして、波打っている。震えから生まれる音、をきく。誰かの声であったり、足音であったり、鳥の声であったり、水音であったり、する。文字にするにはかすかだけれど、確かな存在感をもってそこにある音、だったりする。今の震えに重なって、かつての震えを思い出す。心の揺らぎも、一緒に。残震、が身体を通り抜けていく。

散歩をしながら、読書と散歩は似ている、と思う。散歩が読書に近い、というよりは、読書が散歩に近い。

心惹かれる背表紙の、心惹かれる森のほうへ、ころころと足をすすめる。言葉の森を散策して、好きな言葉を拾っていく。どんぐり、まつぼっくり、零れ落ちたツバキ、木のうろをのぞけば、リスと目があう。

そうして出会ったものたちを、私に足し算していく。

「足し算の時間」と「引き算の時間」という話を、最近知った。

「引き算の時間」とは、(...) 未来のある地点から逆算して現在の意味やなすべきことを決めるような時間のあり方だ。(...)「足し算の時間」はもっと生理的である。(...)今できることを少しずつ積み重ねて、足していくしかない。できる日もあれば、できない日もある。足し算の時間は、不均一だ。(奥野克己・吉村萬壱・伊藤亜紗,2020年,『ひび割れた日常 人類学・文学・美学から考える』,亜紀書房,p16)

スカラベは毎日、足し算をしている。毎日を不均一に転がして、そうしてできた塊を、今日もふんころ、不均一に転がしている。何ができるかわからなくて、何もできなくてもよくて、でも何か作りたい。

「破壊」と「創造」はやはり離せないと思うのだ。母の身体を「破壊」して、そうして私たちは「創造」された、から。だから今日も、道筋の何かを破壊しながら、気づけばふんころ、何かを作っている。明日怪獣にふみつぶされても、いい。あとものの60秒後に爆発したって、関係がない。止まればいいのに転がしてしまうのは、気になるから、だ。なんでもついつい口に入れて、そうして壊してはじめて、そのものの味を知る、子どものように。

たんぽぽの景色を首からさげて、思考のリズムと足音を重ねて、そうしてまた、ころころと歩きだす。

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