志村けんの死とそれにまつわる数字を見つめて
こういう非常時にオススメの考え方は「言葉よりも数字を見つめること」なんだよね。
志村けんはわりと好きなんだけど、その死を知っても大して動揺していないのはザックリECMO導入患者の死亡率などを調べており「これはわりと死ぬやつでは?」という知識をあらかじめ入手していたから。
ワイドショーなどで扇情的な言葉ばかりを取り入れて大騒ぎするのは一番判断ミスをしやすい行動なので全くオススメできない。
志村けんの死の前後でコロナのリスクは大きく変動してないんですよ。当たり前だけど。その死がセンセーショナルすぎるだけ。
冒頭の通り、おれは志村けんを全く嫌いじゃないし、その死について一抹の寂しさはあるんだけど、それによって強力な自粛哀悼同調圧力鍋が形成されるのは一種の集団パニックだと思ってる。
よくよく考えて欲しいんだけど、七十歳のヘビースモーカーが肺炎で死ぬことは単なる自然のあり方でしかないからね。
こういうことを書くと人の気持ちのわからないサイコみたいな目で見られることもあるんだけど、そうではなくて明らかな愚行とか判断ミスを減らしたいだけなんですわ。
でも、それはそれとして偉大なるお笑いの天才を悼む気持ちだってもちろん分からないわけでもない。
ただ彼に同情するとしたら、その死よりも(おそらくは)死の直前まで苦しい治療を受けたこと。おれは志村けんと歳の近い自分の親に対しても「長生きして欲しい」という気持ちよりも「逝くときは安らかであってほしい」という気持ちのほうが強いからね。
なんにせよ「ひとまずお疲れ様でした」と言いたいし、おれもかれのように人の気持ちを和ませるものを少しでも世に出していきたい。もちろんあんな傑物とおれのような有象無象が比べるべくもないことくらいわかっているけどね。
それでも「自分のやれることを、やれるだけやるしかない」のが「人が生きて、死ぬ」ということですので。
(了)
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