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津阪東陽「杜律詳解」全釈 覚書 津阪東陽とその交友

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2023年11月の記事一覧

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(8)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(8)

著者 二宮俊博

附㈡ 先人追慕の詩―藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞

 東陽は京に遊学して間もない頃に、嵯峨の二尊院にある伊藤仁斎・東涯父子の墓を展じ、「古学・紹述両先生の墓を拝す」と題する五言古詩(『詩鈔』巻一)を詠じている。そのことは「安永・天明の京都」で述べたところであるが、ほかにも在京時代に藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞の墓や祠堂を訪ねた作があるので、それを見ておきたい。

 藤原惺窩(永禄

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(7)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(7)

著者 二宮俊博

画人―十時梅厓・大原雲卿・岡田米山人

 岡田米山人(延享元年[1744]~文政3年[1820])

 名は国、字は士彦。通称は彦兵衛。安永ごろは大坂で米屋を営み、臼を踏みながら読書に励んだという逸話がある。寛政2年に津藩の大坂蔵屋敷の下役として召し抱えられて以降、藩との関係が生じた。東陽より13歳上。
 七絶に「席上、米山人に贈る」詩(『詩鈔』巻九)がある。この詩は米山人が津に

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(6)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(6)

著者 二宮俊博

画人―十時梅厓・大原雲卿・岡田米山人

 ここに便宜上、画人として一括りにしたが、東陽との関係からすれば梅厓はむしろ儒者として扱うほうがよいし、また雲卿も『国書人名辞典』には「経世家」とするように、たんなる画師という枠には収まりきれない人物である。

 十時梅厓(寛延2年[1749]~享和4年[1804])

 名は業、字は季長。半蔵はその通称。大坂の人。伊藤東所に学び、天明4年

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(5)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(5)

著者 二宮俊博

その他の儒者・志士・詩人―神保蘭室・亀井南冥・広瀬蒙斎/高山彦九郎/梁川星巌

 神保蘭室(寛保3年[1743]~文政9年[1826])

 名は行簡、字は子廉。通称容助。蘭室と号す。米沢の人。江戸で細井平洲(名は徳民、字は世馨。享保13年[1728]~享和元年[1801])の嚶鳴館に学んだ。藩主上杉治憲(鷹山。寛延4年[1751]~文政5年[1822])が平洲を米沢に招くと、そ

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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(4)

覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(4)

著者 二宮俊博

尾張の儒者・隠士―恩田仲任・岡田新川・秦滄浪/西河子発

 尾張は東陽が15の歳から3年間、村瀬氏に就いて医術を学んだ曾遊の地である。また天明8年(1788)の大火に遭って京での暮らしが立ち行かなくなり一旦帰郷したあと、一時逗留した場所でもあった。その間の東陽の動静や交友関係はよくわからない。ただ東陽の集には、恩田仲任・岡田新川それに秦滄浪といった尾張名古屋の儒者および海西郡鳥地

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