運命ってあるのだろうか?
人はなぜ生まれなぜ死んでいくのか?
永遠の謎だとは思うけれどこのことを考えるのは楽しい。
からだを持って生きることは不自由な中で色々な経験をするため。
もしも私たちに肉体がなければ時間の概念などいらない世界に存在するだろう。
肉体があるから三次元に縛られ、有限な時間の中を生きないとならない。
時間の概念のある世界に生きることは限界を知ることになり自分の思うところと実際に起きていることにズレが生じる。
例えば本人は寝ないで本が読みたくても、肉体は一定の睡眠時間を要求する。だから寝ない訳にはいかない。自分の考えと肉体はズレる。ズレて目標を成し遂げられないと悔しかったり悲しかったりという感情が生まれる。
肉体と精神のズレが生じる中で起きる感情の影響を人は受ける。
感情は自分のことに重きをおきかつ目先のことにおいて動く傾向にある。
いつも自分の状況と照らし合わせながら感情は発生する。
精神より下の位置に感情があるのだと言っていいのではなかろうか。
さて、運命はあるのだろうか?
繰り返すが私たちが生まれたのはなぜか?と言えば感情を体験するためだ。
感情を沢山体験することで苦しいことがワンサカと起こり悩む。楽しいことが起き喜ぶ。人は感情に振り回される。(中には一生この目先の感情に振舞わされる人もいるだろうが時に感情の先をみることを体験する場合がある。)
客観的にみる力を養う。感情に流されていては出来ないが人には「客観的に自らをみる力」というものがある。
始めはコツを掴まないとならないが一度掴むと結構出来るようになる。
客観的にみることで精神面を鍛えてくるとなぜこんな状態なのか考える様にならないだろうか?
起きていることは自分の精神面を磨くためにやらされていることなのだと思うとこうなるものだったのだと思えてくる。
必然的にその状態になるということは運命(または未来)は決まっているのじゃないかと思えてくる。
それでは運命(または未来)が最初から決まっていたとしたら人は努力するだろうか?
私は未来が分からなくなっているのは努力して得なければならない「経験」があるからだと思っている。
以前映画「パルプフィクション」の感想を書いた。観た人ならわかると思うがのちに死んでしまうトラボルタが必死に生きる姿を見せつけられる。最初から死ぬ時が分かっていたとしたら多分頑張って色々な厄介事を乗り越えてはこないだろう。
人間のなにが愛おしいかといえば明日はどうなるか誰にも分からない中生きようともがくことだ。そしてそれが正しいありかたなのだろう。
私たちの運命は全く変わらないのだろうか?
それでは運命とは生まれてから死ぬまでガチガチに決まっているのか?と言えば大体は決まっているだろうがガチガチではない気がする。
どういうことかと言えば、私が
「人生での山場のひとつとして女性初の総理大臣となる」
という目標を立ててみたとして、どんなに努力したとして、もとからそんな運命ではなければなることはないだろう。しかし
「きっちり職場に定年再雇用まで働き続ける」
という目標なら行けそうな気がする(例えばこれを「Aコース」と呼ぶ)。
そりゃ当たり前だと言うなら当たり前なのかもしれない。
だけどその目的を達成するためには越えないとならない問題もあるだろう。
業績が悪くなって企業が定年後にも人を採用しないかもしれない。
それならばあと少しで定年する仕事を辞めて「からだの声翻訳家®️」を始めると目標を立てる。そして目標に向かって邁進する(こちらをBコースとする)。
未来は分からないがAコースだろうがBコースだろうが行けそうな気がする。
運命は大体の方向性は決まっていてざっくり範囲も出来ているが、最終の着地点は似たような選択がいくつもあるのではないかと思う。
だから運命(または未来)は全く違うものには出来ないだろうけれど、自分の意思で変化させることも出来るのではないか。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!