ホモソーシャルなYouTuberたちの引力

きっかけは忘れたが、最近こんな記事を読んだ。「elabo」というZ世代向けWebメディアで昨年6月に出た記事。

詳細はぜひ記事を読んでほしいが、要旨はこんなところ。

  • 男性複数名によって構成されるYouTuberが動画投稿を通じて内輪ネタを楽しむところに、男同士の絆(まさにホモソーシャル)を感じる

  • こうしたYouTuberの動画には、テレビから排除された下ネタを補完するという機能がある(筆者はその思春期の視聴者への影響を「複雑な気持ち」と述べている)

  • ネット社会ゆえに、リアルの人間関係における機微を捉えづらくなっており、それゆえにこうしたYouTuberのホモソーシャル要素は憧れの対象となる

  • ただし、こうしたYouTuberが、リアルの人間関係における手本とみなされることで、「友情」の示す内容が狭まってしまうのではないかと筆者は危惧している

私は1994年生まれで、「1995年以降生まれ」という広義のZ世代にすら当てはまらないが、この記事で述べられる考察や意見はかなり的を射た内容だと思っている。特に2つ目に関して、テレビで見られなくなった下ネタによる笑いを求めて、例えば「東海オンエア」の動画を楽しむ友達はけっこう周りに多いし、自分もそうだ。

たまたま最近読んでいた、伊藤亜紗『手の倫理』という本の内容が、もう1つ、ホモソーシャルの権化たるYouTuberたちの動画を魅力に感じている理由につながるものだと思い、ここで紹介する。

「誰かにさわる/ふれる という行為の中に生じる倫理」という本の主題からは少し外れているように思える部分で、しかも本は会社から借りたので今手元に無く、類似した内容が載っている別のメディアからの転載になるのだが、著者はさまざまなところで、一貫してこんな主張をしている。

私が障害を持っている方、病気を持っている方と接するときにいつも強く感じることがあります。それは、障害を持っている方というのは、いつも障害者なわけではありません。普通に家に帰ったらお父さんだったり、会社に行ったら上司だったり、なにか特定のテーマに関しては私の先生だったりするわけです。そういうさまざまな顔というのを人間はもっているわけです。
その一人の人の中にも、さまざまな「多様性」を持っているという事に注目すると、「障害者だから障害者として接する」というのではない、さまざまなかかわり方というのができてくると思います。それは別の言い方をすると、自分の前にいるこの人は、自分には見えていない側面を持っているんだという、そういう敬意を感じながら人と接するという事だと思います。

NHK解説委員室「『多様性と利他』(視点・論点)」
※強調は後づけ

ここで言う「一人の人の中の多様性」というのが、ホモソーシャル感が強いYouTuberにおいてはかなり許容されている。その「多様性」を動画のネタとしてフィーチャーすることだってある。このような許容に対して、どこかほっとした気持ちになる。

ただし、初めに共有した記事の筆者が述べている通り、YouTuberによるホモソーシャルを人間関係の手本とするのは危険で、それがもたらす負の側面を無視または過小評価することにつながる。そして本でも述べられていたように、相手が持っている様々な側面に対して、それが顕れていようと潜んでいようと、これらのYouTuberのように学校や企業や趣味といった共通の軸があろうと無かろうと、敬意を払って接するということが重要なのだと思う。ただし、その状態に至るには、ホモソーシャルなYouTuberの動画を観て、どこか「ほっと」してしまう自分を脱する必要があるのかもしれない。

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