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5.エホバの証人の教理の考察④「死後の世界と復活」

エホバの証人の死後の世界観は、伝道の書(コヘレト)などを根拠に人は死ぬと無になるというものです。しかし、ことはそう単純ではありません。聖書そのものも一貫した答えを提供していないからです。

多くの学者が同意している点としては、ヘブライ語聖書(旧約聖書)では、大まかに言えば、霊魂不滅を主張していないということです。創世記にあるとおり、「塵なれば塵に皈るべきなり」(文語)ということです。旧約聖書学者の故関根正雄氏はこのように述べています。

「死後肉体がなくなれば、何もなくなる。しかし、世の終わりの日にすべての人がよみがえさせられ、その時に選ばれる人とそうでない人が右と左に分けられる」

朝日新聞1995新春対談(上)より

確かに基本的には、このような思想であるわけですが、この思想は時代と共に変化してくるのも事実です。これは、変化という部分と、様々な思想との融合という部分があります。旧約聖書自体の編集上の多様性も関係するでしょうか。

学問的な多数派意見では、マカベア期などの戦争の多発で、死後の世界観が変化したと考えられているようです。死んだら終わりでは寂しいので、復活思想が生まれてきたという解釈です。(捕囚期以降のゾロアスター教の影響なども)。メシアがやってくるとき、死者も復活するという思想が生まれてきたのです。それでも全体としては、霊魂不滅とは違う思想の系譜と言えます。

エホバの証人は、死者は「地上の楽園」に復活するという特異な信仰をもっっています。多くの一般のクリスチャンは「そんな教えは聖書にはない」というわけですが、このように考えるとあながちそうとも言えません。スタンダードなキリスト教信仰としてはかなり厳しいですが、ユダヤ的信仰としては十分ありなのです。(ただしエホバの証人が言うような「無存在ではない」)。

私が気になったのは、エホバの証人を含めてあまりに多くの人が、旧約~新約の時代の空白を無視しているということです。(ただ、ダニエルはこの期間とされる)。マラキの後はそのまま宗教的価値観がマタイに(聖書の物理的接続の意味ですが)引き継がれているかのような錯覚を覚えます。しかし、(上記復活をふくめ)その数百年の歴史の間に多くの変質が生じたのは確かです。(70人訳聖書というギリシャ語翻訳が誕生したこと自体その証拠)。1世紀のユダヤ人社会では、霊魂不滅を信じる人も既にいたようですが、明確ではありません。


新約聖書内の例

関連して良く引き合いに出されるのが、ルカ16章の「富んだ人とラザロ」(一般には「金持ちとラザロ」)の話でしょう。簡単に言えば、「強欲の金持ちが死後に地獄へ行き、金持ちの門前で乞食をしていたラザロは天国へ行く」というたとえ話です。

多くの神学者を当惑させる理由は、この種の話が当時のユダヤ教の文学にはほとんど出てこないからです。特に、死後の命を霊魂不滅的に描いているという点でも異質と言えます。この部分は、多くの学者もイエスの真性の言葉と認めている(これは確定しようがないとは思うのですが)ようなので、問題はますますややこしくなります。さらにこの部分の解釈を難しくしているのは、当時のユダヤ人であれば、死後「終わりの日」まで待ってから、裁きが下されるという信条なはずですが、ここでは死後すぐに責め苦にあう(あるいは祝福を受ける)とされていることです。この部分の解釈は三者三様で、議論が続いています。田川建三氏のように、これをイエスらしい風刺の効いた話とするか、当時のユダヤ教とは異質なものが融合されたものととらえるかは学問的議論も相容れないものが多いので、これ以上はふれません。

エホバの証人は、これはあくまで「立場の逆転」を主題にした、たとえ話であり、死後の世界についての言及ではないと解釈します。そのまま受け取ったのでは、自らの教理に反することになるからです。確かにこれは風刺の効いたたとえ話ですが、問題はそのたとえ話の意味ではなく、「イエス」がたとえ話をする際に死後の世界という題材を使っているということなのです。

エホバの証人の男性の多くは、集会の演壇上で話をする機会があります。そのときに、「ある人が死んだ後天国に行く(または地獄の責め苦にあう)」というたとえ話を使ったとすると、そうとうなお叱りを受けるはずです。あくまで、死後は「無」なのですから、たとえ話でも許されないことでしょう。しかし、福音書記者(が描写するイエス)は、そのようなたとえを実際に使っているのです。福音書記者の背景にそのような思想があって初めてこのようなたとえが出てくるはずです。このルカの記述が、(特にエホバの証人にとって)どんなに異質であっても、そのまま受け入れる必要があるでしょう。聖書の解釈に絶対はないとはいえ、自らの教派の教えに都合良く、無理矢理に解釈してはならない一つの例といえます。

いずれにしても、聖書内部の記述もかなりの揺れがあり、時代によってもことなるという点は確かです。

ギリシャ哲学とキリスト教の価値観の違い

さて、話を戻しますが、聖書の「死」に対する考え方については、多くの参考書が出ていますが、有名なのは、オスカー・クルマンの「霊魂の不滅か死者の復活か」でしょう。かなり古い著作ですが、最近また新装再版されています。彼はプロテスタントの神学者でありその学説もどちらかと言えば護教的です。しかし、信仰者でありながらも、批判覚悟で学問的姿勢を貫こうとする態度には好感が持てます。

さて、彼の説明に注目してみましょう。

彼は、従容として毒をあおって死んだソクラテスと、苦しみの叫びを上げ苦悶したイエスを比較します。ギリシャ哲学にとっては、死は霊魂の解放であり友であるわけですが、イエスにとって(ユダヤ教にとって)死は敵であり、征服されるべきものです。

私たちが、復活を信じるキリスト教信仰を理解しようとするなら、物質的なもの、肉体的なもの、形あるものは悪であり滅ぼされなくてはならないので、からだの死は、どのような意味においても真のいのちの破滅ではないというギリシア的思想を全く無視しなければならない。キリスト教的(またユダヤ的)考えにとって、からだの死は、神に創造されたいのちの破滅でもある。私たちのからだのいのちでさえ、まことのいのちである。死は、神によって創造されたいのち全体の破滅である。どのような区別も立てられない。だから復活によって征服されねばならないものは、死であって体ではない。

O.クルマン「霊魂の不滅か死者の復活か」p27,28

これは当時のギリシャ哲学とユダヤ教や初期キリスト教の死への価値観をある程度単純化した解説ですが、大変分かり易い解説です。

ただ、そうは言っても時代や地域によっても微妙な違いがあるでしょうし、ヘレニズム世界においてユダヤ人がギリシャ哲学の影響を受けることは(無意識にも)避けられなかったでしょう。それでも上記解説は、基本原則として押さえておくとよいと思います。

カトリックとプロテスタントの違い

聖書を書いた人たちは基本的に霊魂不滅とは違った観点で物を見ていたのはおおよそ確かです。しかし、さきほどのルカの記述と同様に、パウロの記述なども実に多様で、様々な解釈が出来ることを考えると、その後さらに物事が複雑化したことは言うまでもありません。

その後の歴史で、カトリックおよび、そこから分かれたプロテスタントではこの死後の命に関する見方が異なっていることは興味深いです。

カトリック

カトリックは、煉獄の教義の関係で、連続する霊魂の存在を肯定しています。肉体が滅びても、再び肉体を身につける時が来るとする、ある意味での霊魂不滅であり、これは自己同一性の保持という点からも、分かり易いと言えます。

キリスト教が日本に伝来したとき、入ってきたのはカトリックの教えであったわけですが、当時の宣教師たちの多くがこの「霊魂」の問題に関して記録しています。薩摩の曹洞宗の禅僧忍室文勝とザビエルの霊魂不滅論争は有名です。そこでザビエルは霊魂不滅を主張し、忍室は霊魂は滅ぶと主張しました。仏陀がそもそも何を教えていたかについては、諸説ありますが、今日の日本の仏教が教えている(と我々が考えている)教えとはかなり違ったことは確かです。少なくとも、日本に仏教が伝来してから戦国あたりまでの仏教はこのように霊魂は滅びると考えていたようです。もっとも、その一方で日本古来の先祖供養の習慣とも融合してゆくことになりますが。

ヴァリニャーノも、その報告の中でこう述べています。

外面では霊魂の救済があることを民衆に説きながら、仏僧たちの大部分はその胸中で、来世はなく、物事はこの世限りで終わるものと決め、そう信じている

『日本巡察記』平凡社

キリスト教の霊魂不滅はあくまで「信者本人」の死後の問題です。ここで問題になるのは、(当時の仏教の姿勢がどうであれ)既に死んでしまった先祖は救われるのかということです。当然「異教」を信じて死んだ祖先は救われないので、先祖を大切にする日本人との間で悶着がおこるわけです。日本人の先祖供養と仏教の関係については、様々な研究があります。この問題については、五来重さんとか湯浅泰雄さん、仏教からは最近ですと秋月龍珉さんなどがいろんが議論をしていますから比べてみても面白いのではと思います。

いずれにしても、霊魂不滅は昔からカトリックと親和性が良いということがわかります。

プロテスタント

プロテスタントは、どちらかと言うと、肉体と霊魂を分けず、「全体の死」と考えるので、霊魂不滅論ではないと言えます。先に引用したO.クルマンの著作などに詳しいですが、あくまで復活は再創造であり、無からの再創造という理解です。しかし、この考えは自己同一性の保持という点から理解がしにくく、受け入れにくい人が多いといえます。

上記クルマンの2017年新版の「霊魂の不滅か死者の復活か」には、広島大学の辻学氏の解題がついていますが、そこでもこの「自己同一性」「連続性」の問題に言及されていて、プロテスタント神学の「全体の死」という考えがもつ問題点を指摘しています。(これに同意しないプロテスタント系の神学者もいるそうですが)。

自己同一性の問題

結局死んだあと、何も残らずそれで終わりということなら、この問題は発生しないわけですが、諸説あるにしても何らかの「復活」があるとする場合、これは大きな問題になります。死後その人のアイデンティティである霊魂が抜け出して(つまり不滅で)、復活時の体に戻るというのなら連続性があって心情的にはわかりやすいわけです。そうでないなら、それは単なるコピーなのではないかということになります。

エホバの証人は、この問題をあまり深く考えません。むしろ、神がなさることに不可能はないという理屈で処理されるのです。エホバの証人の出版物で「自己同一性」に言及したものは非常に少ないのですが、「今ある命がすべてですか」(1975)という本の中で少しの言及があります。

では,個々の人について見る場合,復活とはどういうことですか。それは,同じ人物としてよみがえることを意味しています。そして,その人を同一の人物とならせるものはなんでしょうか。その人の体を構成している化学物質ですか。そうではありません。その体を構成している分子は常に入れ替わっているからです。その人を実際に他と区別させるものは,その人の体の全体的な形状,声,性格,経験,記憶,知能的な成長などです。それで,み子イエス・キリストによって人をよみがえらせる時,エホバ神はその人に以前と同じ特色を持つ体を与えることが当然に考えられます。復活する人は,以前の生涯で得たと同じ記憶を持ち,その記憶を十分に意識できることになるでしょう。その人は自分が自分であることをはっきり自覚でき,その人を知っていた人々もそれと認識できるはずです。

「今ある命がすべてですか」p170

当たり前の前提ではあるのですが、「その人は自分が自分であることをはっきり自覚でき」と一応は述べられています。しかし、エホバの証人は霊魂不滅を信じないため、やはり自己同一性や連続性の問題(不安)は残ります。単に完全なコピーであることと、「今生きている自分が」死後に連続して自我を自覚できるのかということとは全く異質な問題です。

このことは一般のキリスト教関係の著作物でも言及されています。八木誠一氏はブルトマンの流れをくむ新約学の研究と、仏教や哲学などにも造形が深い方ですが、以下のように語っておられます。

「記憶は感覚的で、感覚は身体の事柄だ。身体的につながっていない出来事は、他人事で私のことではない。…復活のときはどうなのだろうか。復活したとき、復活した私は『この私はまさしくかつて二十一世紀の東京に生きていた私だ』と ーかつての私の身体は脳を含めて焼却されていて、復活した身体との連続性は全くないのにー 気づき、思い出し自覚するのだろうか。それができなければ復活とは言えないわけである。そもそも復活にせよ転生にせよ、『かつて』の自分と、復活(転生)した『今』の自分とをつなぐ同一性はどこにあるのだろうか。それは不滅の魂だというのは、グノーシス主義ではあっても、キリスト教ではない。両者の同一性を支えるのは神の記憶だという人があるかもしれないが、もしそうなら、神の思考がそのまま私の生であるわけで、これはスピノザ主義ではあっても、新約聖書的キリスト教ではないし、ともに一つの見解ではあっても、実感的説得力に欠ける。そもそも『気がついたら私だった』という自己経験が、私の死後いつの日にか再びあるのかないのか、あったとして、それが今の私の身体と何らかの関係にあるのか、私にはまったくわからない。」

八木誠一「私にとって『復活』とは」

この文を読んだとき、私も本当に同感でした。確かに死後の世界や復活については誰もわかりません。それでも、人はいつか死ぬわけで、その先を考えながら生きてゆくものなのでしょう。死んだ後のことは誰にもわかりません。科学が発達した今日においては、エホバの証人が述べる死んだ後無になるという考えはさして珍しい考えでもないでしょう。(もっとも復活は受け入れにくいでしょうけれど)。しかし、どんなに科学が進んでも霊魂不滅を信じる人は存在するでしょうし、現在逆振れとでもいう現象として霊魂不滅を信じる人の割合が増えている国もあります。

問題の本質

この節であつかった問題は、基本的に結論が出ない問題であり、検証もできない問題です。したがって、エホバの証人の信仰が絶対間違っているとか、霊魂不滅を信じることは間違っているなどという視点では考えませんでした。本節の論旨は、聖書が述べる生死観を概観することや、それ自体が非常に多様であるという視点が大切ではないかというものです。

個人的に思うのは、多少乱暴ですが、「復活するのも、天国や極楽に行くのも結局同じじゃない?」ということです。どちらも「死ぬ」という過程を経る「死後の世界」なわけで、それが天国なのか楽園(地球)なのかの違いでしかありません。「亡くなった家族との再会」にしても、(もしあるとしても)地上でも天国でもいいのではという気がします。この点を若いころ深く考えなかったのは、「自分は生きたまま楽園に行くのだろう」と考えていたからかもしれません。でも、自分が死を考える年齢になると、どちらも同じ気がしてきます。むしろ復活も死後の世界もいらないなとも思う訳です。一度死ぬのですから、復活しなくても、天国にいけなくても、もはやそれに気づくことはありませんので。

先祖崇拝の問題との関連

では、強いて問題点を挙げるとすればなんでしょうか。それは、日本におけるキリスト教宣教を語る時にいつも問題にされてきたことですが、「先祖崇拝をどう位置づけるか」ということです。

上記の通り日本に入ってきたキリスト教は当初から、先祖崇拝を厳しく禁止してきました。これは明治に入って禁教が説かれてからも同じでした。またプロテスタントも基本的には同じで、偶像礼拝、先祖崇拝を厳しく禁止していました。有名な話では、新島襄がアメリカから帰国後に家の神棚を処分した話があります。

日本の先祖崇拝の源泉については、諸説ありますが、基本的に仏教伝来前からの日本(この日本というくくりは厳密には正しくない)古来の信仰が関係しているのは確かでしょう。(お盆の習慣などが基本的に仏教由来ではないことは有名です)。インド仏教は葬祭にあまり関心を示さない一方で、中国という厚葬の習慣を持つ儒教大国を経由して伝来したことも影響しているでしょう。いずれにしても、日本においてはこの「先祖崇拝」が非常に重要な位置を占め、自分の救いだけでなく自分の先祖の救いも大切にしてきたという点が重要でしょう。しかし、キリスト教側はこれを厳しく禁止してきたわけなので、キリスト教が根付くのは難しく、未だにキリスト教人口は非常に少ないのが現状です。(キリシタンが実際に何を信じていたのかは、現在学問的にも様々な議論があります)。

この点で興味深いのは、エホバの証人は日本のキリスト教としては「成功」してきたということです。キリスト教関係の統計では多くの場合エホバの証人を異端として数にいれませんが、実際はかなりの教勢を誇るわけです。ちなみに日本のキリスト教人口は2018年で200万人弱であり、最大宗派のカトリックでも44万人です。エホバの証人は、20万以上(しかも活発な信者だけ)で、キリスト教のランキングに含めるなら2番目に多いということになります。

エホバの証人を研究してきた研究者たちはいろいろな原因を述べますが、私個人としては、この「先祖の救い」が関係していると思うのです。エホバの証人は信仰合同になるような行為や、異教的なものを厳しく禁じています。他宗教の葬祭への参加においても厳しい制限があります。しかし、「先祖の救い」に関してのエホバの証人の教義は明快です。「彼らは基本的にみなこの地上に復活してくる」というものなのです。彼らには、再度人生を「クリスチャンとして歩む」チャンスが与えられるのです。これが「聖書的か」という議論は置いておいて、この教えは従来の先祖の救いを無視してきた一般のキリスト教から一線を画すものであり、仏教・神道的な先祖崇拝は禁止されるけれど、先祖の救いは達成されるという日本人になじみやすい教えなのです。「うちの嫁が葬式で焼香をしないと言っている」など、社会的には物議を醸すことが多いエホバの証人の信条ですが、信仰する本人の心のなかにある親や先祖への思いは、うまい形で昇華されているのです。

もちろん、カトリックなど主教教派もこの問題を座視していたわけではありません。60年代に開かれた第二バチカン公会議ではこの問題が扱われました。「カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実戦Q&A」というカトリックが出している公式な冊子があります。そこには以下のように書かれています。

本人に落ち度がなく、おかれた状況のために、イエス・キリストによる救いを知らない人は、神の恩恵の働きのうちに、良心の声に従って忠実に行動するならば、イエス・キリストの十字架の死と復活の功徳によって、確かに、神の豊かな慈愛に預かることができます。ですから、カトリック信者は、教会の祈りと儀式によって自分の先祖や両親を弔いましょう。それは先祖や両親の意思に反することではありません。

「カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実戦Q&A」p62

このような解説が許されるようになったのは、上記第二バチカン公会議で、それまで「教会の外に救いはない」とされてきた考えを、根本から見直す改革があったからです。イエスズ会のカール・ラーナーら改革派の努力が結実したものと言えるでしょう。もちろん、その一方でカトリック保守派にも言い分はあるわけで、どちらが正しいかというより、時代の流れにそった改革と言えるでしょう。ただ私見では、このような「改革」(保守からすれば「妥協」)は、結果的に宗教そのものの存在意義にも抵触し始めるものと思いますので、今後宗教のあり方そのものが問われてゆくでしょう。

まとめ

すでに私見として述べましたが、エホバの証人が日本で拡大した背景には、否定している先祖崇拝のうち、先祖の救いの部分を一定の部分担保しているという点があると思われます。もちろんこれが入信動機と常に直接関係するわけではありませんが、復活の教理が先祖崇拝を拒絶するかわりに準備されている心のよりどころであることは重要な要素です。ただし、繰り返しになりますが「死んだ愛する家族にまた会えます」というのは、霊魂不滅を教える諸宗教と実質において相違がないということにも気づく必要はあるでしょう。

ここまでで、若干議論が「多岐亡羊」となって参りましたが、死後の世界観というものは、「生きている人間は誰も経験していない」ゆえにまことに多様だということで終わりたいと思います。「聖書的に正しいか」という議論はこのNOTEの趣旨ではないので、このあたりで筆を置きます。


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