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5.エホバの証人の教理の考察⑫「中立、兵役拒否を中心に」

しばらく入院で更新が滞りました。後遺症などで若干文面などへの不安があるのですが、ご容赦ください。(以下note beta版で記述)

エホバの証人の信条で有名なのは、身近では選挙に行かないとか武道の授業拒否などでしょう。この「中立」の考え方は非常に範囲が広く、他のnoteの内容とも重なるため、ここでは関連する初期クリスチャンの歴史や「兵役拒否」などに的を絞って考慮します。

エホバの証人の定義

定義: 二者あるいはそれ以上の紛争当事者のどちらの味方もしない,あるいはどちらも支持しない者の立場。古代と現代とを問わず,真のクリスチャンがあらゆる国で,またあらゆる状況のもとで,世の党派間の紛争に関し徹底した中立を保持してきたことは,歴史上の事実です。真のクリスチャンは,愛国主義的儀式への参加,軍務に携わること,政党への加入,行政職に立候補すること,投票などに関して他の人々が行なう事柄に干渉しません。しかし真のクリスチャンは聖書の神エホバだけを崇拝します。それらのクリスチャンは無条件で神に献身しており,神の王国を全面的に支持します。

出典:聖書から論じる p317

基本的にこの「中立」という考え方は、かなり現代的なものです。古代には今のような民主的な選挙があるわけではないですし、逆に現代には皇帝崇拝はありません。聖書に書かれていることは、その書かれた当時の価値観を反映したものだということは重要です。(もちろん、時代を超えた共通の価値観も存在するでしょう)。

エホバの証人が「中立」の根拠とする聖句

では、エホバの証人が根拠とする聖句を、複数の翻訳で掲載します。(新世界訳は改訂版)。

イエスの言葉(とされるもの):

■マルコ 12:17
新世界訳:
カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい。
聖書協会共同訳:
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。

■ヨハネ 17:16
新世界訳:
私が世の人々のようではないのと同じように,彼らも世の人々のようではありません。
聖書協会共同訳:
私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではありません。
田川訳:
私が世からの者ではないのと同様に、彼らは世からの者ではありません。

パウロの命令:

■ローマ13章
新世界訳:

全ての人は上位の権威に従わなければなりません。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によって相対的な地位に据えられています。
聖書協会共同訳:
人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。
口語訳:
すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

上記の聖句のいくつかは、翻訳そのものの問題もあります。ここでは2つだけ指摘したいと思います。

一つ目は、ローマ13章1節の新世界訳の翻訳です。新世界訳は、本文にはない「相対的」ということばを追加しています。これは明かな意訳であり、翻訳者の立場を越えたものです。原文にはそのようなニュアンスさえもないので、誤訳と言っても良いレベルでしょう。「相対的」という言葉がないからこそ、この聖句は後々色々な議論の的にもなったのです。

二つ目は、よくエホバの証人が使う「世の者ではない」(改訂版「世の人々のようではない」)という表現についてです。この翻訳は、他の翻訳と比べるとわかりますが、翻訳上(解釈上)の問題が存在します。「世から」というニュアンスが正しいようだという点だけここでは指摘したいと思います。

さらに、戦争に関係しては、旧約聖書で有名な聖句も上げたいと思います。これは中立というより、「平和」に関係して良く上げられる聖句です。

イザヤ2章4節:

新世界訳:
神は国々の中で裁きを下し,
多くの人々を正しい方向に導く。
彼らは剣をすきに,
やりを鎌に作り替える。
国は国に向かって剣を振り上げず,
彼らはもはや戦いを学ばない。

聖書協会共同訳:
主は国々の間を裁き
多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に
その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦いを学ぶことはない。

国連にも刻まれているごとく、昔から「戦争と平和」に関係して言及される聖句です。

このイザヤの聖句の文脈を見ると、これは終末的な預言の一部であることがわかります。最終的に神による終末が来ると、諸国民が神に従い戦争もなくなり平和が訪れるというものです。したがって、この聖句自体は未来のことを述べており、現在戦争をすることの可否をのべてるわけではないと言えます。今現在の戦争の存在や戦争の遂行を否定はしないけれども、理想として戦争がなくなる未来を予言しているのです。

これらの聖書の言葉は、後世に大きな影響を与えてきました。ここではその価値そのものをすべて否定するものではありません。ただ、書かれた当時の意味と、現代に「解釈」される意味とは多くの場合異なることは重要です。

最初の1世紀のクリスチャンたちが直面した問題

1世紀から2世紀にかけての時代において、クリスチャンたちはどんな問題に直面したのでしょうか。ちょっと長くなりますが、考えたいと思います。(あくまでも一般的な学説に基づくものです)。

1世紀のクリスチャンたちが直面した問題は、1.教団内部の問題、2.ユダヤ教(ユダヤ人)との問題、3.ユダヤ教からの分離に伴う問題の3つだったと思われます。もちろん、早くはネロやドミティアヌス(最近これはなかったとする学者も多い)の迫害などもありましたが、これらは例外的だと考えた方がよいようです。帝国に迫害され続けたというのはあくまでイメージだったというのが主流の学説なようです。帝国(政治)が関係してくる問題は、主に2世紀になってからのことです。エホバの証人が考えるような「中立」「兵役」などの問題も2世紀に入ってから現実化します。

この時代のクリスチャンについて、ドイツの新約学者のH.F.v.カンペンハウゼンは以下のように述べています。(「空虚な墓・キリスト者の兵役」~新教新書。以下「カンペンハウゼン」と表記)。

教会の初期にあって、キリスト者の例外的権利が宣言され、実施されていたという、素朴な自明な事柄は、ただ当時の情勢という背景のもとでのみ理解できることである。実際に兵役の義務のない、秩序の整った国家の平和な内部における、小さな、多かれ少なかれ小市民的なサークルにとって、一切の軍事的事柄に関与しないことは、たやすいことであり、その場合、外部からも、内部からも、困難にぶつかることはなかったのである。まだキリスト者は政治的責任の外部にいたし、古代の国家哲学的考察とも、深い意味では触れることはなかった。

カンペンハウゼン p105(太字筆者)

つまり、まだ小さな団体であるうちは、「この世」の事との矛盾はなく、兵役も免除されているユダヤ人である以上は政治的問題はあまり起こらなかったのです。(宗教的問題や共同体内での反対は別にして)。

では、初期の問題点3つを具体的に考えて見ましょう。

1.クリスチャン内部の問題

エホバの証人が「理想像」として語る1世紀のクリスチャンたちのイメージは、聖書そのものが示唆する「現実」とは乖離しています。

エホバの証人は、使徒行伝(使徒たちの活動)の(既に美化されている)記述をさらに美化して解釈します。使徒たちがいるエルサレム教会(会衆)の指導体制に、世界のクリスチャンが従い、パウロもその指導に服しながら異邦人伝道をする「一糸乱れぬ組織」というイメージです。ここには、現在の「統治体」という指導組織が「聖書的である」という意図も強く働いているのでしょう。しかしこのような解釈は、やはり無理があり、聖書をそのまま読むなら、当初からかなり多様性のあるものだったと解するのがよいと思われます。そしてその多様性を「中央」のエルサレムががなんとか統制しようとするという歴史なのです。

聖書で組織内の対立は、できる限り「オブラートに包んで」書かれていますが、それでも隠し切れてはいません。一番最初は、ユダヤ人からの激しい迫害でステファノが殉教する部分です。(使徒6章以降。これは公的迫害ではなくユダヤ人による私刑)。ステファノはギリシャ語を話すヘレニストのクリスチャンでしたが、使徒行伝(使徒たちの活動)の文脈にはヘレニストとヘブライスト(ヘブライ語を母語とする人達)の対立が言及されています。言語的な問題もあったのでしょうけれど、ステファノの殉教の際の彼の説話をよく読むと、教義的な理解の違いもあったことがわかります。(神殿批判など)。

何より象徴的なのは、その後使徒8章1節に、ステファノの死後「使徒たちの他は[エルサレム外へ]皆・・散ってい」ったとあることです。つまり、ペテロらをはじめとする首脳部(ヘブライスト)は、追放されず、ヘレニストだけが追放されるのです。このことは、ユダヤ教の体制側に近かったペテロら指導部と、神殿体制そのものを批判するほどラディカルだったヘレニストたちの相違を示唆しています。(この部分は護教的に解釈することももちろん可能でしょう)。

その後パウロが活躍するようになります。彼はヘレニストほどラディカルではありませんでしたが(神殿を否定はしない)、それでも異邦人伝道でめざましい活躍をします。しかし、彼の活動はユダヤ教の体制とエルサレム教会の指導部の両方から警戒されます。この組織内の対立も隠し切れておらず、特にパウロのガラテア書などには如実に表れています。彼はエルサレム教会の当時の指導者ヤコブにかなりの不審感を持っており、その介入を厳しく批判しています。

この「不和」は、パウロの逮捕時にさらに明らかになります。パウロはエルサレム側との約束を果たすため、献金をもってエルサレムへ上ります。(使徒21:10~)。これは彼の精一杯の誠意だったでしょう。この上京の旅は、エルサレムにはパウロの敵が多いので行くべきでないと周囲の友人たちが助言するほど危険なものでした。エルサレムでは「形式的な」歓迎を受けますが、エルサレムのヤコブをはじめとする指導部は、パウロに神殿での儀式に参加するよう要求します。これはとても目立つ行動なので、危険であることは誰の目にも明らかでした。パウロは従い、案の定逮捕されます。これはもう、意図的にパウロを排除しようとしたとしか思えません。

このような、ステファノやパウロに関係する出来事は、決して一枚岩ではなかった当時の「キリスト教」の様子を示すものです。自らをこの世の「一時的な居留者」(「世の者ではない」)と考えたクリスチャンたちも、まず内部に問題を抱えていたということです

2.ユダヤ教(ユダヤ人)との問題

当時のクリスチャン(そう呼ばれるのは後の話ですが)は、「キリスト教」という枠組みではなく、あくまでユダヤ教の一派という意識だったという認識が重要です。(この点は色々な学説あり)。ユダヤ教内部では多くの考え方があり、有名なものでもパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などがあります。聖書でもパリサイ派とサドカイ派がまったく違う考えを持っていたことが描写されています。クリスチャンもあくまでユダヤ教的背景から誕生したのであり、それ故に割礼や安息日、食物規定などが問題になったのです。

もちろん、その新しい教えゆえに衝突も絶えませんでした。異邦人が割礼を受けずに信者になれるとか、食物規定をはじめとする律法への見解などはセンセーショナルなものだったでしょう。その結果、聖書中にも多く記されるような、ユダヤ教の体制側や、共同体内からの私的な迫害が多く起こったのです。(もちろん、異教徒に伝道すれば異教側からの私的迫害も始まる)。

このような新しい教えは、異邦人クリスチャンの増加にも貢献したでしょう。ユダヤ教に改宗する場合のいろいろなハードル(割礼・食物規定など)が下がるからです。しかし、割礼を義務としないようになると、もはやユダヤ教ではないのではという見方もなされるようになり、ユダヤ教体制側からの反感はさらに大きくなったでしょう。そうなると、さらに別の問題も生じてきます。それは次の3つめの問題です。

3.ユダヤ教からの分離に伴う問題

1世紀の後半は、クリスチャンの増加やユダヤ戦争などの影響で、クリスチャンの立ち位置が大きく変わって行く時代なのだと思います。異邦人信者の増加と、西暦70年の神殿崩壊(ユダヤ戦争)は、ユダヤ教とキリスト教の分離を鮮明にするものとなります。

ちなみに、この「分離」問題は、どのあたりから自己認識的に「分離」していたのか(または他者から見ても)という点では様々な学説があります。良く取り上げられるのは、使徒11章26節の「アンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった」(聖書協会共同訳)の解釈です。「クリスチャン」と「他者から呼ばれた」のか、「自称」したのかで学説は分かれます。基本的に通説は「他者から呼ばれた」というもので、多くの聖書はその翻訳を採用しています。E.トロクメも、他称説をとり「この言葉が政治用語であり、…皮肉のこもったものにもなり得る」(「キリスト教の幼年期」p87)と述べています。その後、自称として採用するようになったというものです。(もちろん、「呼ばれた」のが誰からなのかが曖昧なので自称と無理に言うことも可能ですが)。一方で、トロクメのお弟子さんである田川建三はそれに真っ向から反対し、自称であり「クリスチャンと称した」と訳すべきだと田川訳の脚注のかなりのページを割いて論じています。これが特にアンティオキア教会の特徴から来ていると考えるなら、やはり他称説の方が分がいい感じもします。いずれにしても、かなり早い時期から異邦人との交流は進んでいたということなのでしょう。とはいえ、会堂の通常利用などを見ると1世紀中頃では「分離」とまではまだ言えない状況ではあったことがわかります。

この「分離」は、有利な面と不利な面がありました。「有利」というのは、キリスト教のアイデンティティーのようなものがこれによって確立して行くことです。「不利」な面は、カエサルの時代以来(ヘロデ大王のおかげもあって)ユダヤ人が得てきた「保護」が受けられなくなるということが上げられます。時代によって変わりますが、免税や兵役の免除、宗教的習慣の実践の自由などいろいろな特権がありました。1世紀後半の戦争などもあり、ユダヤ人の立場は常に揺れ動きましたが、結局一つの宗教・民族として一定の保護を与えられたのです。ただし、それはキリスト教が国教化されるまでの事で、その後は現代に至るまで、圧迫の歴史をたどります。

クリスチャンは、この「保護」から離脱する(離脱したと認知される)ようになって、ユダヤ人へ与えられた特典から排除されるようになります。この後、「離脱」が鮮明になると、今度はローマとの軋轢が直接的な問題になって行きます。この部分の冒頭でカンペンハウゼンを引用しましたが、彼がのべたように、当初は「小市民的なサークル」だったものが、大きな組織になるに至って、新たな問題に直面することになるのです。

まとめ

このように1世紀の状況を振り返ると、1世紀のクリスチャン特有の問題としては、上記の3点が顕著だということができます。エホバの証人が言うところの「世の者ではない」とか「中立」などの問題は、クリスチャン特有の問題ではなかったのです。むしろ、これらの問題については、ユダヤ人が先駆者だったからです。言い換えれば、1世紀に「クリスチャン」が直面した問題は既にユダヤ教も直面していた問題であったということです。ユダヤ人は、独特の教えを帝国中で守り、強要されれば皇帝崇拝にも反対してきたのです。さらに、ユダヤ人が帝国内で敵視された理由には、その積極的な改宗活動にもあったようです。この点でも、クリスチャンは(後に熱心な伝道ではひけは取らくなったものの)後塵を拝しているのです。パウロの宣教旅行も、基本的には会堂などのユダヤ人共同体を中心になされていました。そう考えると、ディアスポラのユダヤ人の広がりあってこその、キリスト教の拡大でした。もちろん、このように「どちらが先駆者か」などと考えるのはキリスト教至上主義的な後世の歴史の表れかもしれません。当時の「クリスチャン」は、ユダヤ教の背景の中でその環境を十分に活用しただけなのでしょう。

2世紀以降のクリスチャンたちが直面した問題

特に、2世紀初頭からのローマの平和と言われた五賢帝時代以降、ローマ側もこの「クリスチャン問題」にようやく本腰を入れるようになります。結局「クリスチャンはユダヤ教とは違うようだ」という認識が広がったということでもあります。この時代、ビテュニア総督であったプリニウスが、トラヤヌス帝にクリスチャンの処遇を問い合わせた書簡は有名で、非常に貴重な史料となっています。このプリニウスの書簡に対してのトラヤヌスの解答は、クリスチャンであるという「名による」処刑を是認する一方で、わざわざ捜索するには及ばないことや、特命の告発を受理しないことなどを命じています。

2世紀のキリスト教迫害については様々な学説がありますが、基本的に以下の森本宣郎の研究が妥当だと思います。

重大な事実誤認は、皇帝がキリスト教徒迫害を命令して遂行させた事例は、このネロによる、放火事件関連による一件以後、三世紀なかばまで一例もない、という事実が無視されていると言うことである。・・・結局、真正面からキリスト教の礼拝を禁じ、全帝国において迫害を遂行したのは、303年のディオクレティアヌスの大迫害が最初だったのである。三世紀までの迫害については、帝国主導ではない、別の要素が働いていたのである。

「ガリラヤからローマへ」p69-70

基本的には周囲の社会が告発したり、暴力沙汰に及ぶということが中心で、信者がかなりのペースで増えることが可能な程度の迫害だったということになるでしょうか。凄惨な殉教も増え、社会からの批判も増える一方で、それ故に入信する人も増えていったのでしょう。

ここでは、迫害の歴史についてこれ以上詳しく論じません。これは、このnoteのテーマである「エホバの証人の問題」というより、キリスト教史のテーマであり、非常に広い考察が求められるためです。今後の考察は主に、軍務(兵役)に関する問題に絞って考えたいと思います。

以下、クリスチャンと兵役について前述のカンペンハウゼンの解説を参考にしつつ考えて見たいと思います。

まず、教父たちは戦争自体を否定したり、兵役や兵士の存在を否定したりはしていません。当時の人間にとって戦争は起きるものであり、武力は存在するのが常識であり、基本的にその存在も許容していました。これはパウロが『権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神にそのようにして仕えているのだ』(ローマ13:4)と語っていることにも表れています。ただ、カンペンハウゼンは「調べうる限り、175年ごろまではクリスチャンの兵士はまだ存在しなかった」と述べています。(p106)。もっともユダヤ人の場合、前述の通りそもそも兵役を免除されていたので、ごく初期のキリスト教徒には兵役の問題は生じなかったと言えるでしょう。

異邦人のクリスチャンが激増し、第二世紀後半ごろから、兵士がクリスチャンになることの問題が発生し始めます。その時期に活動したテルトゥリアヌスは、「一切の制服は禁じられている」とのべ、軍務の問題に言及しています。ここで注目できるのは、兵士になることの問題は、人を殺める可能性があることではなく、軍隊の支配下に入る(制服を着る)という点にあると論じられている点です。さらに軍隊では宗教儀式が必須だったので、その問題もあったでしょう。まだこのころに明確な方針は決まっていなかったということでしょう。

この時期、はっきりと自分の見解を述べていたのが、アレクサンドリアの学者オリゲネスです。

「私たちは、これまで自分たちの主張を守り、敵を攻撃する手段であった剣を破砕せよとのイエスのいましめに忠実となった。そして、以前には戦争に使っていた槍を鋤きにかえている。私たちは平和の子となったのだから、ある民族にたいして、もはや剣をぬくことをしないし、戦いのことを学ばない」

カンペンハウゼン p111

ただし、ここでも注意すべきなのは、オリゲネスは、戦争そのものを否定しているわけではないということです。彼自身、正義の戦争というものは存在すると述べていますし、カエサルがそれを行う際には、クリスチャンは祈りによってそれを支えると論じます。つまり、文字通りの戦闘は行わないが、それを間接的に支持している善良な市民であるという論じ方をしています。

その後、クリスチャン人口は爆発的に増え、四世紀にはキリスト教が公認されたこともあり、軍隊への入隊は許されるようになっていました。しかし、(原則論として)殺人は禁じられ、それを犯した場合は、教会内での懲罰が規定されていました。しかし、このようなどっちつかずの状態が長続きするはずもなく、アタナシオスなどは、軍務で人を殺すことは問題ないということを説くようにさえなっていました。

このように考えてくると、一つの状況が見えてきます。前述のカンペンハウゼンが言った通り、キリスト教がごく少数派である間は起きなかった問題が、国民の大半がクリスチャンになるに至って大きな問題となってしまうということです。たとえば、兵役には就けないとか、人殺しはできないなどという信条は、ごく少数派であるうちは処罰の対象になるだけで終わりますが、国民の多くがクリスチャンになってしまうと、国防上の観点からもそんなことは言っていられなくなるということです。古代のキリスト教反対論者ケルソスも、キリスト教批判に際して、「国民全体がクリスチャンになった場合、兵役はどうするのか?誰が国を守るのか?それとも神が天から下りてきて戦ってくれるのか?」という疑問を呈しています。これは後に考えるように、エホバの証人も多数派になれば抱えるはずの問題なのです。

これ以降の歴史では、キリスト教の公認・国教化などを経て、国家体制の中に組み込まれて行くことになります。もちろんその一方で、戦争を神の掟に反すると考える思想は、キリスト教世界の中に常に存在し、その中から「人道主義」的な発想が芽吹いて行く面もあります。それでも、聖書は古代の書物であり、現代の価値観や人権基準とは違う時代の所産であることは常に忘れてはならないことでしょう。

現代のエホバの証人

ここからは時間が飛びますが、現代のエホバの証人の「中立」について考えて見ます。既に述べたとおり、特に兵役に関係する部分を中心に論じたいと思います。(範囲としては、国旗敬礼などを含めて)。

エホバの証人は信教の自由に寄与してきた

昨今の「児童虐待事件」に対するエホバの証人の対応などを考えると、このせっかく評価できる部分も価値を減じることになってしまうなと思う今日この頃ですが、エホバの証人が信教の自由を擁護する面で貢献してきたことも公平に知られておくべきだと思います。

特に米国におけるエホバの証人の貢献分野として、学者からも高い評価を受けているのは、信教の自由への貢献です。この点は世界大戦などに関係して起きている法廷闘争が多いので、ここで簡単に触れておきたいと思います。このような法廷闘争は政教分離の促進や「不寛容との戦い」という意味で特にアメリカ社会では意味があることでした。

たとえば、第二次大戦中、国家儀礼(胸に手を当てて忠誠を誓う)を拒否した生徒に関係する訴訟があります。(ゴバイティス訴訟。ゴビタスとも)。1940年にはいったん敗訴しますが、三年後に勝訴し(バーネット事件)、権利を勝ち取ります。これは戦争遂行中の出来事であり、きわめてその意義は重要だと言えます。

「愛国心は強制によってはぐくまれ得ないこと、そして個人の内面の自由こそ憲法の保障するもっとも基本的な権利であることを確認したこの判決は、当事者のみならず、信教の自由に関する憲法史上重要な判例の一つとなった。」

森本あんり著「アメリカ・キリスト教史」

現代における兵役拒否の例

兵役に関係した事例に絞って、いくつかの例を挙げたいと思います。ここでは3つの国の例だけ取り上げますが、戦時中は多くの国で兵役拒否がありました。最近では台湾が良心的兵役拒否を認めるなどの事例もあり、取り上げた例はほんの一部に過ぎません。

1.日本

日本での兵役拒否者は(エホバの証人以外も含めて)全体数から言うと少ないですが、記録では1905年に日露戦争への参戦拒否で禁固刑を言い渡された、矢部喜好(プロテスタントの牧師)が最初のようです。

日本のエホバの証人の兵役拒否としては「燈台社」(ものみの塔協会の日本名)によるものが有名です。(「燈台社」と「ものみの塔協会」との関係に関しては「補論:明石順三と燈台社」をご覧ください)。1938年に「エホバの証者」(日本での呼び方)村本一生が、応召したが、「皇居遙拝」を拒んだ記録があります。(これは不問)。明石順三の長男、明石真人は1939年1月に入隊後、銃器返上をし、懲役3年となります。この報を聞いた村本は自らも返上を行い、結局懲役2年となります。後に明石真人は獄中で「棄教」し、仮出所(後に戦車隊へ配属され終戦)しますが、村本は立場を貫きます。

日本国内での燈台社(エホバの証人)への弾圧は顕著でした。1933年の第一次検挙では100名以上が検挙されましたし、その後、1939年の第二次検挙では日本国内だけでなく、台湾、朝鮮でも一斉に130名以上が検挙されました。もちろん、ホーリネスなど他のクリスチャンの一部もいろいろな形で弾圧されたのは事実ですが、燈台社への取締は顕著であったことがわかります。

これらの点についての歴史的な考察は、稲垣真美「兵役を拒否した日本人」(岩波新書72年)、「兵役拒否の思想」寺島俊穂(大阪府立大)などの資料が大変詳しいです。

日本国内の新聞で燈台社について報じられた例

『河北新報』 昭和8年5月15日(木)
聖書研究に名を藉りて宣傳 秘密結社燈台社々員 今度は長野県で検挙さる
『東京日日新聞 宮城版』 昭和8年5月19日(金)
ジプシー戦車隊 突如、仙台に現はる 不穏なパンフレットを持って各方面に出没す
『読売新聞 宮城読売』 昭和8年5月19日(金)
ユダヤ人秘密結社の残党 仙台から青森方面へ逃ぐ
北国新聞マイクロフィルムの昭和8年5月16日(朝刊)7面
宗教の名に隠れて 不穏主義の宣伝 米国に本部あるウオツチ、タワー 石川県生れ外六名捕はる

2.アメリカ

第二次大戦中、アメリカ国内の良心的兵役拒否者の四分の三はエホバの証人であったと言われます。(「米国における良心的兵役拒否」内田晋)。選抜徴兵法で、公的に申請し認められれば参戦しなくてよくなりますが、6年間で7万人の申請があったといいます。「聖職者」と認められるなどの条件があるのでしょうけれど、そのうち1万6千人が違反で投獄され、そのうち6086人が良心的兵役拒否者で、さらにそのうち4411名がエホバの証人だったとの調査もあります。(「良心的兵役拒否の思想」阿部知二p127)

アメリカの場合、戦時中も国家や司法はある程度の「良識」を示したと言えるかもしれませんが、民間での差別や「迫害」はかなり度を超したものがあったようです。(補論1もご参照ください)。

3.韓国

韓国の場合は、第二次大戦後も戦時状態が続き今に至るため、兵役の問題は非常に大きい問題でした。以下は、申鉉旿「韓国における良心的兵役拒否に関する考察」を参考にさせていただいています。

韓国における良心的兵役拒否者の大多数は「エホバの証人」の信者で、宗教的理由で兵役を拒否する場合がほとんどでした。しかし、2001年12月に仏教徒であるオ・テヤン氏の兵役拒否で、宗教ではなく、個人の良心による兵役拒否が「初めて」主張されることになりました。エホバの証人の場合「市民としての義務を果たさない」ことや、主流派キリスト教が多数でありエホバの証人が異端視されてきたことなどから、国民的議論がなかなか成熟しなかったようです。しかし、この出来事以降、様々な団体が声を上げるようになりました。彼は仏教徒ではありましたが、主張したのは平和主義であり、無報酬の教職生活という代替役を申し出た部分が新しいものでした。

エホバの証人への根強い偏見は批判されるべきですが、その一方で、韓国での兵役拒否問題が大きく前進したのは、エホバの証人の功績だけでは決してないことも見落としてはなりません。

その後、2018年から2019年にかけていくつかの法的判断が下され、とりあえずは「罰しない」ということが決定され、服役中の人達は釈放されたようです。代替役などの設定もなされているようですが、法的にはまだ未整備な状態で、人権団体などからの批判は続いています。

「中立」という教義の問題点

上記の通り、エホバの証人が現代史において貢献した部分については、過小評価すべきではなく、公平に評価されるべきです。ただ、この「中立」という教義には問題もあります。

「中立」でいられるのは少数派だから

既に何度か触れたように、「中立」でいられるのはあくまで少数派だからであることは忘れてはならないことです。先に引用したケルソスが述べたごとく、全ての国民がエホバの証人になった場合、国防はどうなるのでしょうか。政治は誰がするのでしょうか。このような議論は「中立」という考えの問題点を鋭く指摘しています。

「中立」という教義の意味を考える

また、エホバの証人が「中立」や「兵役拒否」という立場を取る究極の理由は人道主義や平和主義的理由ではないということも重要です。ものみの塔誌などで繰り返し強調されているように、それは神が命じるからであり、神の王国を支持する故なのです。(なので、エホバの証人は博愛主義を説きません)。

この「中立」という教義には、「裁くのは神である」という考えも含まれます。つまり、神は最終的な裁きの時である「ハルマゲドンの戦い」で、「悪い行いをやめない人達」を滅ぼします。エホバの証人の世界人口に対する割合が非常に少ないことを考えると、地上の老若男女のほとんどが死滅する大虐殺(神の審判なら虐殺とは言えないのでしょうけれど)になります。このことの意味をどれほどのエホバの証人が意識しているでしょうか。最近の大震災では、直接の被災者ではない大勢の人まで精神を病みました。人の死はそういうものです。現代人は弱くなったという言い方もできるかもしれませんが、私が強調したいのは、簡単に「滅び」という言葉を使うのではなく、その意味を真剣にまず考えるべきだということです。

「中立」と子供達

「中立」の問題が時に難しくなるのは、親が信者である子供の場合です。未成年に兵役の問題はないにしても、多くの子供達は校内の選挙、国旗敬礼や国歌・校歌、武道などいろいろな問題に直面します。もちろん私は、未成年の「信者」の信仰(その判断力)を過小評価しているわけではありません。その純粋な信仰も、子供の権利の一つでしょう。

ただ、若いときに何を学ぶかも重要なことであり、それに関係する親の責任は大きいということです。(教育については別のnoteで考えます)。この点に絶対的な答えはないのでしょうけれど、一つ言えるのは、子供に学習と選択の機会を常に与えるということだと思います。(そこには高等教育の機会も含まれる)。エホバの証人の親たちは、決して無理強いなどしていないと言うでしょう。しかし、実質はどうか良く考えてみることです。

一方で、子供(かつての子供でもいいのですが)の側として忘れてはいけないのは、親の愛情です。(子供を愛せない親もいますが)。親も含めて、生まれる家族を選べる人はいません。「不幸な」育ちをしたので、子供にはそうなって欲しくないという強い思いが、子供への宗教の「押しつけ」となってしまう場合もあります。これは、宗教だけではなく一般にも起こっていることです。学歴に恵まれなかった親が、子供には「有名大学に行って欲しい」と思うのは、確かに押しつけですが、愛情でもあるのです。信仰を捨てた場合、信者である親との関係は難しい場合が多いですが、私自身この「親の愛情」という視点をできるだけ忘れないように努力しています。

正しい自己評価を!

「中立」や「良心的兵役拒否」などは信教の自由であり、エホバの証人の持つ権利です。しかし、その際にどのように自己を評価するかは重要なことです。(補論2参照)。宗教はどうしても、自らのイメージを誇示し、他者の思考(他宗教なら教義)や行動を「間違いである」と批判しがちです。しかし、自己認識を間違って、自己を過大評価するなら、それは問題です。動機は「篤い信仰心」なのでしょうけれど、冷静に自らと他者を評価する姿勢が重要だと思います。

前述の通り、エホバの証人が「先駆的である」という分野も確かにありますし、それを世間が「過小評価」すべきでもありません。しかし、アメリカでは他にも保守的な宗教はたくさんあり、多くの裁判が行われてきたのです。彼らが果たした役割も(そして問題点も)それぞれ評価されるべきでしょう。

結局、ここでも繰り返したいのは、「エホバの証人は決して特殊ではない」ということです。批判する立場であれば、エホバの証人だけがおかしいと言うような議論は狭い了見ですし、信者の立場であれば、自分の宗教だけが特別に素晴らしいというのも狭い了見です。人生ほかにも素晴らしいことはたくさんあるのですし、社会問題も同じぐらいたくさんあるからです。

結論

聖書は愛を説き、今日の人権基準の向上にも寄与してきました。しかし、決してそれだけではなく、負の部分も持っていますし、その書かれた時代の価値観を反映してもいるのです。聖書を無理に免罪するような護教論は捨てて、この両方の面を冷静に認めることが重要なのではないでしょうか。

この「中立」問題や「世の者ではない」などの教義の影響は、エホバの証人をやめてからも重くのしかかることがあります。私自身、未だにうまく整理が出来ていないのですが、論語にあるような「天を怨みず、人を尤(とが)めず」(自らの不運を恨んだり、人のせいにしたりしない)という境地に至りたいものだと思っております。

本論がかなり長くなりましたが、お付き合いいただき感謝いたします。


補論1:明石順三と燈台社

この部分の記載は、公にされている論文資料や書籍を参考にしています。中でももっとも手軽でまとまっているのは、稲垣真美著「兵役を拒否した日本人」(岩波新書)でしょう。(以下直接の引用は「稲垣72」と記す)。新書サイズでページ数も少ないのでお勧めです。ただ、最近新品はなかなか手に入らなくなっていると思います。他には、鶴見俊輔「身ぶりとしての抵抗」なども参考になります。

出稼ぎで渡米した明石順三は、20年代初めに信者となり、1926年に本部の任命で日本へ戻ります。1933年には明石が朝鮮を伝道旅行している間に、日本で100名ほどの信者が検挙され、1939年にも検挙されています。この間、上記の村本、明石長男の事件が起こり、弾圧は加速します。

この時期の朝鮮半島の燈台社の活動は、上記”稲垣72”や蔵田雅彦「日本統治下朝鮮における燈台社の活動と弾圧事件」などをご参照ください。この論文では、特に朝鮮半島での信者の行動には、日本統治に対する反感や、天皇制への反発が日本本土の場合以上に強かったのではないかと論じています。

その後、明石は逮捕され終戦まで収監されるわけですが、戦後1947年に本部を批判する公開状を日本で公開し、本部にも送っています。

この点についてのエホバの証人(協会)側の公式見解は「1947年8月25日付のその手紙の中で,明石は,1926年以降の協会の出版物の中で説明されている事がらには同意していなかった旨を述べています」(1978年鑑p217)というものです。エホバの証人側は、特にこの1926年という数字を問題としていて、それが彼が日本の代表者として任命された頃であることから、彼は組織を騙していた「偽善者」であるとしています。

「公開状」の背景

では具体的に明石はどのような告発をしたのでしょうか。以下に、協会へ書いた手紙の元になったと思われる明石の「公開状」を引用してみます。

1.少なくとも過去10年間、聖書真理の解明に進歩の跡を認め得ず。
2.現在における所謂神権政府樹立と、その国民獲得運動の躍起主張は聖書的に一致せず
3.所謂「神の国」証言運動の督励方針は要するにワッチタワー協会の会員の獲得運動たるに過ぎず。
4.総本部の指導方針は、忠良なるクリスチャンをして、聖書の明示する唯一標準を外れて安値なる自慰的位置に安住せしめつつあり。
5.その自ら意識すると否とにかかわらず、種々の対人的規約や規則の作製は、せっかく主イエスによって真のクリスチャンに与えられたる自由を奪い、ワッチタワー総本部に対する盲従を彼らの上に強制するの結果を到来せしめたり。
6.総本部はワッチタワー信徒に対して、この世との非妥協を教示しつつあるにもかかわらず、総本部自身の行動はこの世に対する妥協の実証歴然たるものあり。
7.所謂「ギレアデ神学校」の建設は、聖書の示す所と絶対に背反逆行せり。

稲垣72 p183の「光」1947年7月15日号外3号の引用

まず、上記「公開状」のうち特に6番目が有名です。事の顛末は、上記「稲垣72」にも書かれていますが、戦後アメリカ本部は、占領下の日本に早速宣教者たちを遣わします。その際、明石たちを訪問した宣教者たちは、彼の労をねぎらうと同時に交流が断絶していた間の文書の提供や、物資の援助などを申し出ます。このとき、機関誌に掲載された、星条旗が飾られた大会の写真を見た明石は、大きなショックを受けたというものです。

まず、この大会とは46年オハイオ州クリーブランド大会のことです。1946年8月4日~11日に行われ、大会主題は「喜びを抱く国々の民神権的大会」というものでした。

明石が見たのは大会の広報誌「The Messenger」(1947年8月)でしょう。この会報の中に、1カット以下のような写真があるのです。(本文にほとんど説明はない)

The Messenger 1947年8月p13の写真

実は、この大会はメイン会場が「Municipal Stadium」(1996年に取り壊しになったクリーブランド・スタジアム)でしたので、これはメイン会場の写真ではありません。これは会報ではものみの塔研究が行われた小会場の一つ「Public Auditorium」のようです。日本語でいう「公会堂」でしょうか。歴史ある建物で、改装しながら現在に至っています。オハイオ州クリーブランドといえば、「ロックの殿堂」があることで有名ですが、式典はこちらの現存する建物で行われるようです。

これがまず、事実関係だけを述べたものです。これを見れば確かに明石がショックを受けるのもうなずけます。もちろん、彼はアメリカのエホバの証人たちが国旗敬礼を拒否して激しい反対に遭っていることは知っていました。しかし、戦後の大会がこのようであるとしたら、彼の中では国家に迎合しているのではないかと考えたのでしょう。もちろん、彼は英語が堪能でしたので、この広報誌を隅から隅まで読んだはずです。ただ、(この会報をみればわかりますが)あいにくこの場面についての必要な情報はほとんど得られなかったことでしょう。

ただ、この国旗問題に関しては、明石の誤解(意図的ではないと信じたいが)があるように思います。あるいは、既に始まっていた意見の相違ということなのかもしれません。この「公開状」については、「稲垣72」の中でも、著者は公平を期するためとして、明石側の誤解があったかもしれないことが言及されています。(p187)。

この問題を考える上で重要な点は、アメリカ人信者たちは指導層(まだ統治体はないので、協会上層部)や本部職員を筆頭に、この写真をみても違和感を持たなかったということです。(個々人の反応は不明)。明らかに星条旗があるにも関わらず会場を使用し、写真を広報したわけです。では、国旗問題に「妥協的だった」からそうしたのでしょうか。これについてはとてもそうは思えません。(私としてはむしろ妥協的になってくれていればどれだけよかったかと思いますが)。国旗を崇拝しないということは、ラザフォード時代以降(1935年頃から)徹底しており、リンチや子供の放校の原因にもなって、以後裁判でも争われます。なので、思い至るのは明石と本部の(エホバの証人の)認識の相違です。

エホバの証人は国旗を絶対に崇拝しないけれども、敬意は持っているということです。焼いたりして抗議したりは決してしません。しかし、明石の考えは違ったような気がします。崇拝しないし、もし可能なら焼却すべきものとさえ考えていたかもしれません。(この点は確認できない)。参考になるのは、天皇の権威に関して公判で聞かれた時の明石の答えです。エホバの証人はこのような「上位の権威」をその存在を認め敬意を持ちますが、明石ははっきり公判で「認めません」と言っています。このあたりを考えても、いろいろな相違が発生していたことがわかります。

ただ、もしそうなら、この七箇条の「公開状」を受け取った会長ノア側の対応は性急すぎたと言わなければなりません。おそらく本部側は、これをある種の挑戦、ないしは断絶と受け取りました。このような感情的な反応はやはり批判されるべきでしょう。これは元統治体のR.フランズが証言していることと考え合わせると理解できます。当時の会長N.H.ノアについてこのような観察を述べています。

基本的にノアは気さくで、温かみを感じる人柄だった。「会長」としての立場にない時には、一緒にいて楽しい人物だった。しかし非常にありがちな事とは言え、会長という役職にあるためにその人柄が隠れてしまうことが多く、(「神の意志による役割を果たしているのだ」という気持ちもあるので)自分の会長としての権限が少しでも侵害されそうだと判断すると、きわめて迅速かつ強硬に対処する。

R.フランズ「良心の危機」p104

ノア自身は、どちらかと言えば、副会長のF.W.フランズ(R.フランズの叔父)の「暴走」を止めたりなだめたりする立場だったようですが、それでも「立場」や、自らの組織への「信仰」が目を曇らせてしまったのかもしれません。実際にノアから明石への通知は、公開状への返信ではなく、代表者としての立場からの削除を言い渡すものでした。

明石が袂を分かった理由

ここまでの情報を総合すると、「公開状」は戦後の1947年のものであり、本部宛の手紙も同じ1947年であることや、彼自身その中で既に20年代から疑問を持っていたことなどが表明されている以上、思想の変化は戦前から始まり、戦時下の獄中で新しい転換があったということになります。

彼はラザフォード会長の時期(1920年代)に信者になり、日本へ遣わされています。ラザフォードの中央集権的な組織方法はその頃から顕著だったわけですし、「規則」を多く打ち出したのもラザフォードの代からです。そう考えると、既に信者になった段階から協会は中央集権的だったことはわかっていたはずです。このあたりはもう知り得ないことかもしれませんが、日本に来てからも早い時期から「自分流」のやり方で組織や翻訳をしていることがわかっているので、早い時期から思うところはあったのでしょう。

ちょっと、横道にそれますが、このような明石の思想の変化は、息子の真人も戦争中に知っていたことがわかっています。銃器返納などで収監されていた真人は、1941年12月に「棄教」した旨の手記を公開しています。(信者たちの転向を促す当局側の意向にもよる手記)。そこで彼はなぜ自分が信仰を捨てるに至ったかを述べます。収監中に図書室勤務になっており、そこで様々な「外の」情報に触れたことなどが主な理由だとまず述べています。(明石の子供達は皆小学校卒の学歴)。彼の最初の逮捕は15歳の時で、静岡に伝道に出かけ、河原でテントを張っている時でした。その数年後徴兵される年齢になっても、直ぐに銃器返納をするほど彼は一途でした。彼はそれまでの人生全てが「燈台社」だったのです。その中で、とりわけ自分を「目ざめさせた」理由として「父順三がルサフォード(当時の会長ラザフォード)の説に反対して独自の教理を案出して居るとの知らせ」を上げています。彼は子供の頃から父の信仰を模範として生きてきたわけで、もうすぐ終わりが来ると信じていたのです。にも関わらず、父順三はそのころ霊感を受けたと言って「終わりは来ないことになった」と言っていたのです。真人は、それまで聖書を絶対的なものとして信じてきた燈台社の信仰は一体どこへ行ったのだろうかと感じるようになっていました。そのほかにもいろいろな矛盾を感じるようになったようです。(もちろん、当時の彼が触れた情報の多くは逆に「皇国史観」に基づく「思想教育」のためのものだった)。ついに二人は戦後、二度と会うことはなかったと言います。
私のような二世のエホバの証人として育ち、「棄教」したものとしては、何か身につまされるものがあります。
いずれにしても、明石の「思想」は戦時中既に大きく変化し始めていたのです。

稲垣72 p156など参考

結局戦前からくすぶっていたものが、獄中生活や、戦後の本部との路線の違いなどから顕在化したということなのかもしれません。なので、「きっかけ」というより「決定打」となったのが、上記6に関係する問題や、「妥協的」と彼が総括した本部の態度だったのでしょう。

このような違いを生み出したのは、両国の環境の違いもあったのかもしれません。アメリカは本土での戦争が(ハワイなどを除いて)ほとんどなかったのに比べ、日本は度重なる空襲を含めて、戦争を身近に感じていたこともあるだろうと思います。また、日本では特高をはじめ官憲がこぞって「エホバの証者」の摘発と壊滅を目指しましたが、アメリカの場合、主に私刑(リンチ)や子供達の放校、兵役に限れば官憲の逮捕などがありました。私刑についてはルーズベルト夫人が公式に自重を促すなど、戦時下でも「アメリカの良心」のようなものが多少は働いていましたし、兵役自体も明確な「僧職者」としての立場が認められれば、一部の信者は免除されていたのです。そう考えると、明石の置かれた環境はアメリカに比べてあまりに過酷で孤独だったとも言えるでしょう。(これはドイツや他の多くの国もそうだったでしょう)。

いずれにしても、戦後明石はエホバの証人の本部組織とは別の方向に進むことになります。出所後の明石の活動を見ると、キリスト教に収まらぬ思想を持っていることがわかるので、やはりものみの塔協会と袂を分かつことになるのも必然だったのかもしれません。明石が正しいとか、協会が正しいなどという議論はすでに不毛でしょう。そして、明石に最期まで従った村本一生のような人もいますし、戦後改めて「エホバの証人」として歩んで亡くなった人達もいます。お互い違う道を歩んだということです。明石は死ぬまで著述活動をします。村本一生は戦後、「灯台社の任務は終わった」と述べています。(稲垣p191)

こういったことはキリスト教史でも繰り返されています。本論でも触れた、エルサレム教会指導部と袂を分かったヘレニストたちを思い出します。


資料

以下は、付録的な資料ですが、「法政大学大原社会問題研究所」の昭和40年頃のものです。最後に参考までに。

キリスト教団体にたいする直接的組織的弾圧は燈台社からはじまった。在日本燈台社(Watch Tower)は在米燈台社総本部の日本支部として一九二七年に結成されたキリスト教系の宗教結社であり信者二七〇余名、機関紙「黄金時代」の継続購読者約三〇〇〇であった。同社は一九三三年に幹部数名が不敬罪容疑で検挙され、機関紙・単行本も大量に発禁処分を受けたことがある。三九年一月、社員三名が徴兵または召集されて入営したが、かれらは上官に対し、「ヱホバ以外の被造物に礼拝することは神ヱホバの厳に禁ずる所なれば、今後宮城遙拝、御真影奉拝等の偶像礼拝は絶対に為し能わざる」むね、また、「天皇は元来宇宙の創造主ヱホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪導下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇に忠誠を誓う等の意思は毛頭なき」むね等を公言し、さらに馬術訓練は神意に反する流血行為の演練なりとしてその出場命令を抗拒し、ついには、兵営生活が神ヱホバの神意に反すとの理由で脱営し、また自己の支給兵器を神意に反する殺人器なりとして返納を申し出るなど、「不敬不遜の言辞を弄し」また軍事教練不応等の行動を重ねたものとして、それぞれ所轄憲兵隊により不敬罪ならびに軍刑違反として検挙された。これにたいし同社幹部は、ヱホバの忠信者が当然とるべき標準的態度であり、右行為は軍部に対する徹底証言となった等と賞揚し、そのむねを宣伝吹聴してとくに宣明運動の積極的展開方を指令し、各地方証者等もこれを契機とし運動はいちじるしく活発さを加え、東京・兵庫・朝鮮・台湾の各地をはじめ、全面的に顕著な教勢伸長をみた。これにあわてた内務省および警視庁当局は、司法省および憲兵隊当局とも連絡協議の上、検挙方策を考究して調査をおえ、治維法違反ならびに不敬罪をもって三九年六月下旬、北海道ほか一八府県において主幹者明石順三以下九一名、朝鮮総督府で三〇名、台湾総督府で九名、総計一三〇名を一斉検挙するに至った。押収証拠品は、単行本三〇余種・小冊子三五種・機関紙二五五点・秘密機関紙二二〇点・聖書研究一〇〇点・英独朝鮮文出版物二八〇余種・その他の物件一〇〇〇余点に上った。検察当局は同社を、「燈台社教理による世界支配体制変革の一環として我国体を変革し、いわゆる地上『神の国』を建設することを究極の目的とし、同教理に基く証言宣明行為によりて我国民の国体観念を腐蝕せしむると共に現存秩序の混乱動揺を誘発することを当面主要の任務とする結社なり」と定義して治維法違反に問うこととし、五三名が起訴され、死亡、応召各一名を除き五一名にたいして四一~四二年に第一審判決(明石順三は懲役一二年)が下り、うち二九名が控訴した。治安警察法第八条第二項により同社は内務大臣から結社禁止を命ぜられた。また一斉検挙後、燈台社再建運動として、熊本県で五名、(うち三名起訴、一名病死)、新潟県で一名(起訴)が検挙されている。

「太平洋戦争下の労働運動」(昭和40年ごろ刊)法政大学大原社会問題研究所


補論2:ナチス支配下のドイツのエホバの証人

まず、素直にその信仰の記録を評価したいと思いますし、人類史の貴重な記録でもあると思います。ただ、彼らだけがひときわ優れているのではないことを再確認する必要があります。(過大評価も過小評価も正しくない)。

「過小評価」の歴史

まず、エホバの証人はナチスに迎合したという説を唱える人もいます。この説を調査してみると、当時の情勢やエホバの証人の現在も行っている政府へのコンタクト方法などへの無知から来るものであるとわかります。(この方法は古代から変わりません)。

よく批判される問題は、1933年のベルリン大会前後に関するものです。ヒトラー内閣の成立は1933年1月であり、この時期の情勢を良く理解する必要があります。ドイツ国民(一部の知識人を除いて)は、この内閣を歓迎しました。また、欧米の国々も防共という観点から歓迎する動きがありました。アメリカでもヒトラーをたたえる集会などがあったほどです。そのような国際情勢の中で、エホバの証人が無害であることを為政者へ訴えるのは本能的なことでしょうし、それを批判するのは酷なことです。(批判するなら、パウロを批判すべきでしょう)。

ドイツ国歌の斉唱問題も、昔の賛美歌にあったということで理解できます。現在欧州の国歌となっている曲の多くは、様々な歌詞で愛唱されてきたものが多いわけで、賛美歌に取り入れられたものもあります。(私も子供の頃から大好きな曲が多いです)。(賛美歌"Glorious Things of Thee Are Spoken"も同じ)。

元はハイドンの曲で、国王をたたえる系統の曲が、19世紀にはアメリカで賛美歌にも採用されるようになっていたという話です。この曲は結局ナチス時代を経て今も歌われているので、問題にもならないと思われます。

面白いことに、このドイツ国歌とエホバの証人の問題は、日本語のwikipediaにはありますが、英語・ドイツ語にはありません。(2021年現在)。さらにはエホバの証人云々以前に、この曲自体が、国歌にふさわしいかどうか未だに論争の元となっているということは知っておくべきだろうと思います。

本論の冒頭で考えたように、エホバの証人の「中立」の姿勢は、善良な市民でありつつ、神に反する政府には不服従というシンプルなものです。ただし、このような姿勢(中立、非協力)のみで十分なのかという問いは、今後の歴史で問われてゆくのではと思います。告白教会や、クリスチャンの軍人などは、もっと積極的な行動、政権への抵抗や打倒、総統暗殺すら企図しました。彼らは時の政権にとっては「テロリスト」でしたが、歴史はどう判断するでしょうか。

「過大評価」の歴史

戦後、彼らの体験は貴重なものとして「宣伝材料」になります。(これは言い方がちょっと悪いですが)。冒頭でも申し上げましたように、彼らの記録はもちろん貴重なものです。

とはいえ、これもやはりバランスで「過大評価」と言わざるを得ない部分もあります。それは、自らの信仰体験の場合もありますし、教団としての体験の場合もあります。まずは、個人的体験に関する評価について考慮してみましょう。この問題は、ごく早い時期に組織自体が警鐘を鳴らしています。

解放後にスイス支部からドイツに送られた回状を見てみましょう。突っ込みどころはいろいろあるかもしれませんが、当時苛烈な迫害を乗り切った人たちの間で発生していた「好ましくない傾向」を指摘するものです。私はこの指摘は非常に鋭いと思うのです。多くの「普通の人」が迫害を乗り越えたり殉教したりしたことは確かに特筆すべきことです。しかし、それが彼らにとっての良い自信になるのなら良いですが、場合によっては英雄視されたりして、自信過剰になってしまうなら残念なことです。この手紙はある意味手厳しいものではありますが、人間の落ち入りやすい傾向を良く指摘していると思います。

「ドイツにいる愛する仲間のしもべである皆さんすべてへ
キリストにある愛する同信の友なる皆さん,
「遂に皆さんはナチのくびきから自由にされました! 皆さんの中のある人々は刑務所か強制収容所で,あるいは他の形での迫害により何年間も苦しんできました。……
「しかし,主のみ名のために特別の苦しみを受けるにふさわしい者とみなされた人はだれも,そのことでうぬぼれたり,殉教者に付される栄光を受けたり,あるいは刑務所や強制収容所に入らなかった他の人々よりも自らを高めたりするようなことはないはずです。だれも自分の被った苦しみについて同胞の人たちに自慢すべきではありません。家に残った同信の友の多くもやはりさまざまの問題をかかえ,厳しい圧力を受けたことを忘れてはなりません。クリスチャンは自分の受ける苦しみを選ぶことはできません。主がそれを決める,あるいはむしろそれを許されるのです。
「愛する同信の友の皆さん,それゆえ,公正さを欠いて組をつくったりせず,また妥協した人,あるいはあえて妥協しようとした人を自分の考え方に従って非難しないようにしましょう。主は私たちの心を裁かれます。主のみ前にあって私たちは開かれた書のような者なのです。……
「協会の新会長,ネイサン・ホーマー・ノア兄弟の指揮のもとで,宣べ伝えるわざはかつてないほどいっそう徹底的に組織され,大いに進展しています!……
「ベルンの聖書の家の家族  Fr・ズルヒャー(署名)」

エホバの証人の年鑑75 p216~(太字筆者)

もちろん、「組織の駒となって引き続き身を粉にして奉仕しろ」という意味に取れなくもないですが、そのような解釈は当時の状況を理解していない解釈になるでしょう。ここは素直に評価したいと思います。

このような傾向は、どの時代にもありました。キリスト教の初期の歴史でも、殉教や迫害の経験が英雄視され、逆に迫害の経験がないと「疑惑の目」や「信仰が弱い人」などと見られる問題は指摘されていました。やはりどの時代も同じなのでしょう。

さらには、教団としての信仰体験(迫害の歴史)を過大評価するという問題もあります。この問題は、「自分たちだけ」というイメージを強調して、他者を過小評価することとも関係します。上記の「回状」を本来なら組織にも当てはめるべきなのですが、どうも難しいようです。

ホロコーストと戦った人達(またその組織)を顕彰するのはよいのですが、どこか「私たちの組織だけ」「エホバの証人は特別」という宣伝になってしまうのです。そうなると、せっかくの貴重な経験も、価値を減ずることになりかねません。

実際に歴史を調べるなら、多くの反ナチス活動家がおり、宗教者たちの多くも命を散らしました。彼らは単に政治的意図だけでなく、人道、宗教、国家のあり方など様々な思想を持っていた人達でした。

エホバの証人が激しく批判する戦時中のカトリックでさえ、ステレオタイプな評価をすべきではありません。もちろん、ヴァチカンの努力は明らかに不足していましたし、たくさんの権益や権力を持っていたことを考えれば、批判も甘んじて受け入れるべきでしょう。

とはいえ、近年再評価もなされています。まず重要なのは、結局ナチス政権を誕生させたのは、ドイツ国民であり、終戦間際まで(終戦後も)ナチスへの支持はかなり活発だったということです。宗教だけを批判することはできません。実際には、多くのカトリックの司教たち(プロテスタントの牧師たちも)がナチスの非人道的行為に反対しましたし、迫害も受けました。直接の保護を受けたのは、ナチスお手盛りの帝国教会のみだとも言われます。

最大の批判にさらされてきた教皇ピウス12世についても、その職責上の責任は免れ得ないという前提のもとにではありますが、再評価されています。ナチス側が、政教条約の成立を喧伝し、宣伝工作に使ったことも割り引いて考える必要があるでしょう。また、この政教条約は、ワイマール時代から交渉されており、現在も有効であることも忘れてはなりません。

エホバの証人「だけ」ではなく、エホバの証人「も」なのです。

バランスが重要

ナチスによるエホバの証人を含むホロコーストの問題は人類共通の重要な問題であり、決して過小評価してはならない問題です。それでも、バランスは重要です。

まずは事実関係をできる限り「偏見のない態度で」調査することは重要です。歴史である以上難しいことではありますが、結論ありきの調査では偏った結果になるでしょう。エホバの証人が過去の経験を一つの財産にするのはよいことです。「Stand Firm(堅く立つ)」のビデオなどを含めて、それ自体は貴重な資料であり経験です。行ってきた展示会なども公明正大にするなら良いことです。しかし、それを過度に強調したり、一方で不都合な情報を出さないという態度をとるなら、それは一貫性がないことですし、誠実なことでもないでしょう。

このnoteでずっと繰り返していることですが、組織防衛は宗教的に「誠実」であっても、一般社会では「不誠実」と評価されることがあるのです。特に、組織の指導部の方達は、謙虚で広い知見をもつ必要があるでしょう。



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