見出し画像

5.エホバの証人の教理の考察⑤「二つのクラスと統治体」

これは前節④の「死後の問題」と、NOTE前半で論じてきた「組織の形態」に関係する議論です。この二つには密接な関係があるので、ここでは一緒に考慮します。

エホバの証人は、死後天に行くクラスの信者と、地上で生きる希望を持つ信者の2つがあると信じています。これを本節の主題では「二つのクラス」と表現させていただきました。これは、ヨハネ福音書のイエスの2つの羊の囲いのたとえや、旧約聖書部分で言及される、義人が「地上に住み続ける」(詩篇37。新世2013)などの約束を、文字通りに解釈した結果できあがってきた教理です。14万4千人については、黙示録(啓示)の7章や14章の数字を根拠にしており、それを文字通りのものと解します。

これから先、たくさんの名称が出てきて非常にややこしいので、最初に現在の見解を少し整理しておきたいと思います。

①死後天に行くクラス
別称:「14万4000人」(黙示録7,14章)、「この囲い」の羊(ヨハネ10:14)、「残りの者」、このクラスのごく一部が「統治体」として指導部を構成する。(2013年以前は、「残りの者」「忠実で思慮深い奴隷級」
解説:このうち、「残りの者」(remnant)という名称は14万4千人のうちの「残った者」という意味がある。(この表現は旧約聖書にも頻出する)。エホバの証人の場合、12使徒たちから数えて14万4千人分ある天的復活への「招待権」のうち、古代で満たされなかった「残りの部分」は現代のラッセル以降の「真の崇拝の復興」時に満たされると考える。「古代で満たされない」と考える理由は、1世紀末で「真の崇拝は腐敗し背教した」と考えるため。それ以降のクリスチャンは、14万4千席には招待されていないと考えるので、エホバの証人が現れた19世紀末から20世紀初めにもその椅子には余剰があると考えている。

②地上で永遠の命をえるクラス
別称:「ほかの羊」(ヨハネ10:16)、羊とやぎのたとえの「羊」(マタイ25章)、「大群衆」(黙示録7章)
解説:この名称もそれぞれニュアンスに違いがあり、地上に復活すると信じるクラス全体は古代人を含めて「ほかの羊」と呼ばれるが、そのうち現代に現れるのが「大群衆」である。羊とやぎのたとえは、近年見解が再び変更され、将来の裁きの際の「評価」であるとされていますが、彼らも地的な希望を持つものと解釈されています。

大分複雑怪奇になってまいりましたが、ここからが本番です。上記のような解釈に落ち着くまでの経緯をまとめて見たいと思います。

歴史的な経緯

ラッセルの時代、既に14万4千人の教理は存在していました。とはいえ、まだ地上へ復活するクリスチャンのクラスという考えはまだありませんでした。(もちろん、地上に被支配民はいることが想定されている)。ここには、再臨派の考えの影響もあり、1914年に天に上げられるという年代への信仰も深く関係しています。

ラッセルは1904年に発行された,自著,「聖書研究」の第6巻,「新しい創造」(英文)と題する本の中で,こう書いています。「選びを受けた者[選ばれて,油そそがれた者たち]の定められた決まった人数は,啓示の書(7:4; 14:1)で何度か述べられているあの数,すなわち『人々の中から請け戻された』14万4,000人であることを信ずべき十分の理由がある」(「啓示の書の最高潮」p118)

ちなみに、黙示録に出てくる「大群衆」については1886年の「聖書研究」第1巻「代々に渉る神の経綸」では、

「彼らはみ座および神性という賞を失うが,ついには神性を備えた存在よりも低級な霊者として生まれることになる。それらの人々は確かに聖別されてはいるが,自分の命を犠牲としてささげることができないほど,世の霊に打ち負かされるのである」

とあり、天的な命を得るクラスではあるけれども、劣っていると考えられていました。(この考えは1930年代まで続きます)。

また、「ほかの羊」については、ラッセルの時代のごく初期に以下のように理解されていました。

塔95 2/1 11ページ 9節
「ものみの塔」誌は早くも1884年に,ほかの羊とは,神の当初の目的が成就される状況になったこの地上で生きる機会を与えられる人々である,ということを明らかにしました。それら初期の聖書研究者は,これらほかの羊の中に,イエスが地上で宣教に携わっておられた時よりも前に生き,また死んだ人々が含まれることを悟っていました。・・ほかの羊を集めることは,油そそがれた者すべてが天的な報いを受けた後に行なわれると考えられていました。

いろいろややこしいですが、「大群衆」だけは、今とは全く違って、天的希望を持つ人たちのサブクラスというようなニュアンスでした。

1923年10月15日号の「ものみの塔」誌(p310)に今度は、「羊とやぎ」(マタイ25章)に関する新しい理解が掲載されました。

「我々は,主に対する敬意ゆえに踏み堪えている幾百万という人々が名目上の教会内にいると考えている。そして彼らはその名目的な教会を,ある意味で主に用いられているものとみなしている。これらの人々の大多数は,聖別されて主と結び付いているとは主張せず,天的な希望や目標を抱いていない。ここに,主が羊として示された級が存在すると我々は信ずる。(ヨハネ 10:16)よって我々は次のような結論に到達する。つまりこのたとえ話の中の羊とやぎはともにクリスチャンであると主張し,キリスト教世界を形成し,双方とも主の名において業を行なうと主張している。―マタイ 7:21-23」。

このように、「羊」も、なにがしかの救いを経験すると考えるようになりました。(一般の教会所属でも良い)。同じ記事では、「羊は,霊によって生み出されていないが,イエス・キリストを主として知的に認め,その統治の行なわれる,より良い時代を待ち望む,義に心の向いている諸国の民の人々すべてを表わしている」とも述べています。ここで、14万4千人とは全く違うけれども「地上で」救いを経験する人たちに言及されるようになりました。

その後、1931年には、エゼキエル書9:4に出てくる「額にしるしを付けられる人」が、上記「羊」と同じであると説明し、1932年には列王下10章のヨナダブを「羊」の予型と認定しました。この際、「羊」が、単に良い人であるだけでなく、「聖別」(クリスチャンの基準に従っている)されていなければならないということになりました。

そして、最終的に1935年のワシントンDCでの大会で、「大群衆」の現行の解釈が発表されました。

塔15 2/15 32ページ
それまで「大いなる群衆」とは,あまり熱心ではない聖別されたクリスチャンである,と理解されていました。しかしこの年,その大きな群衆は,地上の楽園で生きる見込みを持つ忠実な崇拝者たちであることが分かったのです。

その後、1935年までに天への召し(天的クラス)は、終了し、新たに選ばれるのは、不忠実になった信者の分の補欠であるとされるようになりました。

塔70 8/15 510ページ 読者からの質問
すでに天でよみがえらされた者たちと,まだ地上にいる,霊によって生み出された残れる者の数を合わせると,14万4,000人の数は,1935年ごろから満たされたということを意味していますか。そのとおりです。証拠からすれば,それは当然の結論です。

このように、1930年前後にめまぐるしい教理の変更がなされ、ほぼ現在のかたちになったと言えます。

この変更の背後で起こっていたこと

これだけのめまぐるしい教理の変更がなされた1930年代前後に入信した人たちは、どんな問題に直面したのでしょうか。あまり多くの史料は日本語では見当たりませんでした。(英語ではいろいろあるのでしょうけれど)。ちょっと寄り道になりますが、いくつかの例をご紹介したいと思います。

1907年生まれのクララ・ガーバー・モイアー「姉妹」の経験です。(塔2000年3月1日)。彼女は1918年にバプテスマを受けました。この時期からすると、彼女は完全に天的な希望を持つ者ということになります。しかし、ことはそう簡単ではなかったようなのです。将来の夫と出会う部分の記述です。

私はラルフに数回会っていましたが,さらによく知り合うようになったのは,1935年5月30日から6月3日にかけてワシントン特別区で開かれた大きな大会のときでした。ラルフとバルコニーで一緒に座っていた時,「大いなる群衆」,つまり「大群衆」に関する講演が行なわれていました。(啓示 7:9-14)それまで,大いなる群衆に属する人々は14万4,000人ほどには忠実ではない天的な級の成員であると信じていました。(啓示 14:1-3)ですから,私はその一人になりたいとは思っていませんでした。
ラザフォード兄弟が,大いなる群衆に属する人々はハルマゲドンを生き残る地的な級の忠実な人々であると説明した時,多くの人は驚きました。それからラザフォード兄弟は,大いなる群衆に属する人に皆起立するよう勧めました。私は起立しませんでしたが,ラルフは起立しました。その後,私もそのことをもっとはっきり理解できるようになりました。それで,1935年を最後にキリストの死の記念式でパンとぶどう酒の表象物にあずかることをやめました。けれども,母は1957年11月に亡くなるまでずっと表象物にあずかりました。

彼女は、1935年の大会に、14万4千人の「残りの者」として出席していました。そして、その大会では、これまで(劣ってはいても)天に行く人たちと考えていた「大群衆」が、地上で生きる人たちであるという見解を聞いてびっくりするわけです。しかも、結婚相手であるラルフは、「大群衆」であると表明するわけです。そしてどうにも不思議なのは、結果的に彼女は表象物にあずからない(天的希望の表明をやめた)ことにしたのです。これは人の決定ですから、他人がどうこう言うべきではないのでしょうけれど、その決定には、人知れぬ苦しみもあったのではと思ってしまいます。そして、これほどの変更を意図もたやすくしてしまう組織の無責任さも感じずにはいられないのです。もちろん、熱心な信者の多くはこの調整を「歓迎」したことでしょう。しかし、その背後で悩み苦しむ人がいるのも事実です。この女性の経験の場合、18年にバプテスマを受けて以来、20年弱はまったく疑いなく天的希望を抱いてきたことが示唆されています。その希望が覆ってしまうことの意味も考えざるをえません。

さらに、R.フランズの「良心の危機」に記されている例を考えて見たいと思います。(p316,317)。

それは「ヤコブの手紙の注解」などを執筆したエドワード・ダンラップ氏についてです。彼はエホバの証人の中枢である執筆部門で、様々な記事を書く主要な仕事をしていました。彼は1930年代の初めから組織に加わっていましたが、自分が14万4千人の「残りの者」であるとは思ってきませんでした。当時前述のように天的クラスは「14万4千人」と「大群衆」(旧解釈)の二つがあると思われていて、彼は自分は「劣った方」である「大群衆」だろうと考えていたようです。それでも、天で神の元で奉仕できることを楽しみにしていたとのことですが、あの「魔の?」1935年大会がやってくるわけです。ようやく信じた希望が無残に打ち砕かれて、急に地上で生きるということになったのです。彼は諦めて、それを受け入れましたが、やはりそれがずっとしこりになっていたようです。1979年になって、記念式の表象物にあずかるようになりました。彼は結局、地的クラスが聖書的であることを否定したという罪で(72歳で!)排斥されることになります。(本部にいた彼の場合、排斥で住まいも仕事も失った)。彼の排斥までの言動を見ていると、決して敵対的だったわけではなく、むしろ執筆部門をやめて、協会の工場でひっそり働いて暮らしたいという弱気な部分もありました。懲戒のための委員たち(年下の後輩たち)も、「そのうち見解も変わって、あなたの言うようになるかもしれない」(だから今はおとなしくしていてください)というような発言すらしたようです。(フランズ証言)。これは先輩への同情でもあったでしょうが、別の意味ではいい加減な発言であり、組織の場当たり的な面を認めていることにもなります。

このダンラップ氏のケースは、自分が抱いている希望の問題が結局「審理問題」に発展して、排斥されたケースです。従って、彼も「見解の変更」の犠牲者の一人ではないかと思うのです。

閑話休題

聖書的な問題

ここでいったん聖書の述べることに注目してみたいと思います。繰り返しになりますが、聖書の解釈は様々であり、「聖書主義」に陥るなら議論は不毛になります。この点に留意しつつ、考えて見ましょう。

前節で論じたように、新約聖書での生死観は揺れがあるものの、基本的に死んだ後、天に行く、ないしは、キリストと共になるなどと表現されます。この希望がどのようなものであるかは、パウロの記述でさえ揺れがあり、解釈もたくさんあります。しかし一つ言えることは、基本的に信者に対しては一つの希望しか述べていないということです。これは、古代ユダヤの生死観からの変化(揺れ)であって、二つの希望が併存しているということではないようです。

天に行って何するの?ということになりますが、王兼祭司として支配するというような記述もあります。(黙示録5:10)。イエス(あるいは福音書編集者)も使徒たちに、「イスラエルの12支族を裁く」と言っています。(ルカ22:30)。いずれにしても「裁く(統治する)」というからには、その民がいるということになるわけで、地上に被統治民がいることが想定されています。

終末的メシア思想の反映でしょうけれど、これらの細かい要素を総合して、「地上のクラス」があると言えなくもないわけです。ただし、この場合「天へ行く人たち」は信者であり、支配される側は信者ではないユダヤ人か、当時想定される世界の異教徒ということになります。なので、やはりエホバの証人が言うようなクリスチャン内に2つのクラスをもうける解釈は非常に分が悪いと言えるでしょう。

また、エホバの証人が一つの根拠としてあげる黙示録(啓示)5:10は、2013年版の新世界訳で一般の聖書寄りに翻訳の改善がなされましたが、引き続き問題があります。

新世界訳2013「彼らは王として地上を治めるのです」
聖書協会共同訳「彼らは地上を支配するでしょう」
口語訳「彼らは地上を支配するに至るでしょう」
田川訳「彼らは地上にて王となるでしょう」

エホバの証人はかつてオリジナル版新世界訳で「地に対して王として」と意訳(天からの目線を挿入)し批判を受けましたが、改訂版ではその部分のトーンを落とし一般的な翻訳になっています。とはいえ、他のキリスト教的翻訳(聖書協会共同訳、口語訳)もエホバの証人の翻訳も、原文の意味を適切には反映していないようです。原文は「地で」となっていて、田川訳が正しいと言えます。つまり、地で王として統治するというユダヤ的な発想が含まれているわけです。エホバの証人も一般のキリスト教もそのまま翻訳したのでは、天への復活の教理が危うくなるということなのでしょう。

キリスト教草創期に、正確にどのような思想があったのかは、混乱があり多くの解釈も可能です。とはいえ、テサロニケで問題になったように、終末の遅延によって「生きているうちの終末」という希望が崩壊し始めたことは重要です。その後、パウロの思想も揺れ動き、死者も生者も含めてイエスに会うことになることがパウロ文書に含められました。

2世紀以降は、殉教からの天への召しが強調されるようになります。キリスト教の爆発的拡大に、死後の希望が関係していたことは重要です。殉教は知識人たちの多くから「狂気」であるとされましたが、一方で多くの信者獲得の原因にもなりました。いずれにしても、一般の信者の場合は、キリスト教護教家たちとは違って、細かい教説よりも死後の救いが何より大切だったでしょう。(多くの墓碑銘などが物語る)。そう考えると、地上への復活というユダヤ的発想は陰を潜めたといってよいでしょう。

14万4000人の実数の問題

ここまでで、エホバの証人の天的・地的という2つのクラスの発生の経緯を見てきました。そもそもこの希望、特に天的希望には、かねてから問題がつきまとっていました。それは、エホバの証人の「反対者たち」もよく指摘することですが、14万4千人が実数だとすると、数的に無理があるという批判です。

もっとも、ラッセルの時代から人数に限界があることは意識されており、前述の通り、およそ2世紀以降の「背教し堕落した」クリスチャンを除いての数と主張してきたわけです。しかし、それでも問題があるのではないかという意見は絶えません。

社会学者のロドニー・スタークの研究では、西暦100年にクリスチャンは7530人、150年には4万人という推計をしています。(他にロバート・L・ウィルケンが100年で5万人未満などの推計)。ただ、これはそのときの最高数予想ですので、亡くなった人も含めた延べ人数になると、もっと多くなるはずです。

最近この問題を意識してか、以下のような記事が掲載されました。

塔2020年4月 p6
合わせて何人が信者になったのでしょうか。聖書は何も述べていません。1世紀の終わりの時点でも,信者の数は14万4000人にはとても届かなかったでしょう。エホバはその頃,天の王国を授けられる人たちを選んでいました。1世紀に信者が大きく増えたのは,エホバが初期のクリスチャンに聖なる力を注いでいた証拠です。(使徒 2:16-18)しかし,天に行く人たちの大多数が選ばれたのは今の時代のことです。

とはいえ、このような見解を取ると、今度は使徒21:20と矛盾することになってしまいます。

それを聞くと,皆は神をたたえ始めた。しかしパウロにこう言った。「兄弟,知っていると思いますが,ユダヤ人の中には何万人もの信者がいて,皆,律法を守ることに熱心です。」 

この「何万人」というのは、どう考えるのでしょうか。解釈で乗り切るのでしょうか。(誇張であるなど)。学問的にはこの数字は誇張であり、サービストークであると考えられます。(私もこの数字は多すぎると考えます)。しかし、エホバの証人は「聖書主義」ですし、この文脈ではどちらかと言えば実際の数字を意識して述べていると思われますので、文字通りうけとる必要が出てくるでしょう。したがって、上記2020年4月の記事の「天に行く人の大多数が選ばれたのは今の時代のことです」というのは、(彼らが大切にする)聖書の記述にも反することになります。上記「何万人」は延べにすれば、かなりの人数に膨れ上がるはずですので、やはり問題は解決しそうもありません。

また、1935年の公式発表では、出席者63146人に対し、天的な希望を表明した人は52465人という数字があります。ここからすると、20世紀前半の人数(しかも延べ人数ではない)だけで14万席のうち少なくとも5万以上を占めていることにもなります。誰も確実なことは言えないので、絶対とはいいませんが、やはりエホバの証人の見積もりは甘いと言わざるを得ないでしょう。

このような問題がありつつも、天に行く14万4千人の「残りの者」と、地上での永遠の命を希望する「大群衆」という構図で落ち着いたわけです。しかし、ここでさらに、大きな問題に直面することになります。それが、「残りの者」の増加問題です。

残りの者の増加問題

前述の通り、1935年前後にこの天への招待は終了したとされ、減少する「残りの者」と増大する「大群衆」という教義で落ち着いたはずでした。

しかし、2000年代に入ってこの「残りの者」であることを表明する信者が増えてきてしまったのです。一時期1万人を切っていた数が、2019年度には2万人を越えました。これには「統治体」も対応を迫られました。

「残りの者」の増加は、終わりが近づくにつれて「残りの者」が減少するとするこれまでの教義に反する状態でした。同時にこの事態は、14万4千人分の「座席」が不足する可能性を示唆するものであり、14万4千が「実数である」という教義も破綻する可能性がでてきたのです。

では、どのような対応が取られたのか、その経緯を見てみましょう。まず、復習になりますが、従来のエホバの証人の見解は以下のようなものでした。

塔00 1/15 13ページ 18節 「ずっと見張っていなさい」
[終わりが近い証拠として、]キリストの油そそがれた真の弟子たちの人数が減少しています。しかも,大患難が始まる時にもその一部は地上にいると考えられるのです。残りの者の大半は,かなりの高齢に達しており,真に油そそがれた人々の数は年々減少しています。しかし,イエスは大患難に言及した際,「その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」と語りました。(マタイ 24:21,22)ですから,キリストの「選ばれた者たち」の一部は,大患難が始まる時にも地上にいると考えられるのです。

このころまで、「残りの者」の減少は、終わりが近いしるしであると論じていました。しかし、2006年に「残りの者」の増加(8524人が8758人へ)が報告されます。それに対応するかたちで以下の記事が掲載されます。

塔07 5/1 31ページ 読者からの質問
時たつうちに,1935年以後にバプテスマを受けたクリスチャンの中にも,自分は天への希望を持っている,と霊によって証しされる人が出てきました。(ローマ 8:16,17)したがって,天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ終わるかに関して,明確な時を述べることはできないように思われます。

これまで、(前述の1970年の「読者からの質問」などで)1935年ごろに「天への召し」が終了したとしてきました。しかし、この2007年の記事で、その教えを撤回しました。この後、この記事の「効果」もあってか「残りの者」は一気に増え始めるのです。(2009年に1万人を越える)。その後、2011年に奇妙な記事が出ます。

塔11 8/15 22ページ 読者からの質問
表象物にあずかった人の数。これは,バプテスマを受けた人で,全世界の記念式で表象物にあずかった人の数です。では,地上にいる油そそがれた人の数ということでしょうか。必ずしもそうではありません。過去の宗教信条や,精神的・感情的な問題などにより,誤って自分は天の召しを受けていると思い込む人がいるかもしれないからです。ですから,地上にいる油そそがれた人の正確な数を知るすべはなく,知る必要もありません。統治体は,表象物にあずかったすべての人のリストを作成したりはしていません。油そそがれた人たちの世界的なネットワークのようなものを管理しているわけではないからです。

記念式で、表象物(カトリックでいう聖体)を食べた人の数が、真正の油注がれたクリスチャン(天に行く人たち)の数とイコールではないというのは、厳密に言えばたしかにそうでしょう。私の知り合いでも、精神的な病気故に「声が聞こえ」毎回食べてしまうと言っている人もいましたし、初めて来た人が、食べるものだと思って食べたというケースもあります。

しかし、問題なのは、その後の「正確な数を知るすべはなく、知る必要もない」という一文です。これも確かに厳密な数の把握は難しいかもしれません。しかし、「知る必要がない」というのはいささか言い過ぎでしょう。そうなると、もはや数はどうでも良いと言ったことになります。

確かに、神がその人を天に招待しているのかどうかなど他人は(精神的問題を云々するなら本人すら)知るすべはありません。これには私も深く同意します。しかし、そうなると大きな矛盾が発生しないでしょうか。結果的にこれは、「統治体」のメンバー自身が「油注がれた残りの者」であることすら「どうでもよい」ということになってしまいます。また、彼らの天へ行くという自覚すら単なる自称かもしれないのです。きちんとした審査や基準すら設けず、その名簿の管理すらしないのであれば、なおさらその一部である「統治体」のメンバーも信頼できないということになります。エホバの証人としては、「聖霊の働きがある」とか「霊的な人たちだから」などと言って擁護するかもしれませんが、その曖昧さは上記の記事を通しても間接的に認められているのです。

その後、しばらくして2016年に再び、「残りの者」の増加の問題についての見解が強調されます。

塔研16 1月号 25,26ページ「わたしたちはあなた方と共に行きます」
キリストの死の記念式で表象物にあずかる人の数は,長年にわたり減少してきました。しかし最近,その数は増加しています。このことを心配すべきでしょうか。その必要はありません。なぜですか。
「エホバはご自分に属する者たちを知っておられる」。(テモ二 2:19)記念式で人数を数える人は,だれが本当に天的な希望を持っているかを判断できません。表象物にあずかった人の数には,自分が油そそがれていると誤解している人の数も含まれています。表象物にあずかり始めたものの,後にあずかるのをやめた人もいます。精神的あるいは感情的な問題のゆえに,自分はキリストと共に天で支配すると思い込んでいる人もいることでしょう。ですから,表象物にあずかった人の数は,地上に残っている油そそがれた人の数を正確に示すものではありません。

私はこの一連の「対応」が大きな間違いであり、エホバの証人の根幹を揺るがす問題を招来していると思うのです。それは前述の通り、指導層の資格にも関わる問題です。

「正確ではない」「わからない」などと言ってしまうと、もはや「残りの者が増加している」という言い方すら無意味になってしまいます。誰が神に選ばれたかなどということは他人にはわかららないというのは至極当然です。しかし、組織は長年、表象物に預かる人の数を重視してきたはずです。しかし、増加が始まった途端に「意味はない」と言うのは暴論でしょう。また、天的希望を抱く人は神からの明確な動機付けを得るのでわかるものだ、ともしてきました。しかし、それすらも疑わしいということになると、何を基準にするのか、もはやわからなくなってしまいます。その結果、先ほども述べたように、この解釈の変更は、ブーメランとなって「統治体」に跳ね返り、彼らが本当に天に行く人たちなのかすら「わからない」ということを示唆することになったのです。

結果的に、この問題は組織の指導体制に大きな問題と矛盾を起こすことになったと思います。(信者はこの点を気づいていない人が多い)。

増加問題への対応が導きだしたもの

この「残りの者」増加問題への対応の結果、統治体の「出身母体」である天的クラスがかなりぼやけた存在になってしまいました。今日天的クラスが誰であるかを明確にできないとまで言ってしまった訳です。

天的クラスの「残りの者」の肥大化への対策の結果、「残りの者」が相対化され、「統治体」の位置づけも見直す必要に迫られました

なぜでしょうか。このときの組織の教義では「天的クラスの残りの者」=「忠実で思慮深い奴隷」=集合体としての指導層(神の経路)ということになっていたからです。(「統治体」はあくまでその代表)。

それまでは(~2013)、天的クラスと地的クラスの差別化が進んでいるとはいえ、指導層「統治体」はその母体である天的クラス(残りの者)の代表に過ぎないという意識が強かったと思われます。興味深い記事をご紹介しましょう。1970年のものみの塔の記事です。ちょっと長いですが引用してみます。

塔70 3/15 181–182ページ 
今は「事物の体制の終局」の時であり,イエス・キリストは「その栄光の座位」について,象徴的な「羊」を「山羊」から分けておられます。しかしそうだからといって,西暦1934年ないし1935年以後にバプテスマを受けた人が,自分は「他の羊」のひとり,あるいは現代のヨナダブ,もしくは霊的なイスラエルに属さない「大なる群衆」のひとりとしてバプテスマを受けたと考えることはできません。(ヨハネ 10:16。列王下 10:15-23。黙示 7:9-17)たとえ,献身してバプテスマを受けたエホバの証人が全地ですでにおよそ100万人を数え,天の命の希望を持つ霊的なイスラエル人の限定された数14万4,000人をはるかに上回っていることを知っていても,そうした考えを持つべきではありません。バプテスマはイエス・キリストの弟子,学習者または教え子として受けるものであるということを銘記すべきです。また,自分が現代の「他の羊」の「大なる群衆」に属する者とされたかどうかに関する証が,バプテスマを受けたのちに,無条件で自らをささげたエホバ神からやがて与えられるということを期待できるでしょう。
献身してバプテスマを受けた人が,霊的なイスラエル人のひとりとして神の霊によって生み出されたしるしをやがて神から与えられようと,羊のような性質を持つ人々の「大なる群衆」のひとりになろうと,バプテスマを受けた,キリストの弟子であるという基本的な事実は変わりません。「他の羊」のひとりとなった弟子に対して神は,霊的なイスラエル人の一員になった弟子の場合と同程度の忠実性を求めておられます。弟子はあくまでも弟子です。「小さな群れ」または「大なる群衆」のいずれに属するかにはかかわりなく,弟子たちすべては今や,「ひとりの羊飼い」すなわちすべての羊のためにご自分の命を犠牲にし,人間としての魂を捨てた主イエス・キリストの導かれる「ひとつの群れ」となっています。(ヨハネ 10:15,16,新。ルカ 12:32,新)彼らは世のいろいろな宗教家に従う者ではなく,「ひとりの羊飼い」の追随者です。彼らはこの偉大な羊飼いを通して神から教えを受ける学習者または教え子です。(ヨハネ 6:44,45)

この記事は、天的クラスも地的クラスも、どちらもイエスの弟子であるということを強調しており、両者の隔てを無くす努力をしているように見えます。このあと、統治体の改革や、長老制度の改革などがなされる時期でもあるので、執筆部門の質も高かったということなのでしょうか。(R.フランズはこのとき、「聖書理解の助け」の執筆中であり、71年に統治体の成員になる)。最近あまり見ない記事の調子だったので引用いたしました。

しかし、このような気風は、長くは続きませんでした。前述の通り、2000年代半ばに、「残りの者」の数が上昇に転じたころから様々な見解の調整を行いましたが、それはさらなる見解の調整につながりました。

最終的には、2013年に大きな「変革」がなされます。それは、「中央集権化」をすすめる調整であり、私はこの変更が組織の意味合いを大きく変えたと思っています。

まず、エホバの証人の指導形態の根拠として用いられてきた最も重要な聖句はマタイ福音書24:45です。

主人が、召し使いたちに適切な時に食物を与えるため、彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。 (新世13)
主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。(聖書協会共同訳)

エホバの証人はこの聖句を、「終わりの日」(今)にクリスチャンたちを霊的に養う役割を主人イエスから与えられる「忠実で思慮深い奴隷」は誰なのか、という問いであると解釈します。故に、現代において指導層となる人たちは集合体として「忠実で思慮深い奴隷」(級class)と呼ばれてきました。しかし、「残りの者」の増加が進む2013年に、この解釈を下記のように変更します。

塔13 7/15 22ページ「忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか」
では,忠実で思慮深い奴隷とはだれのことでしょうか。それは,キリストの臨在の期間中,霊的食物の準備と分配に直接かかわる,油そそがれた兄弟たちの少人数の一団で構成されています。これは,少数の人を通して多くの人を養うというイエスの型に倣ったものです。忠実な奴隷を構成する油そそがれた兄弟たちは,終わりの日を通じて世界本部で一緒に奉仕してきました。ここ数十年,その奴隷はエホバの証人の統治体と密接に結びつけられてきました。

ちょっと複雑なので、以下に整理します。

旧:「忠実で思慮深い奴隷」級(集団)=「残りの者」
この「奴隷級」は集団として、組織を導く存在。「統治体」はあくまで、彼らを代表しているという考えだった。「残りの者」には男性も女性もおり、すべてが組織運営に直接かかわるわけではないが、集合体として組織を養うグループとされた。
新:「忠実で思慮深い奴隷」=「統治体」(10名前後の男子)
「統治体」以外の「残りの者」は除外され、組織を導くのは「統治体」のみとなった。

それまで「忠実で思慮深い奴隷」は今生きている天的希望を持つクラス全体を表すとしてきました。「統治体」はあくまでその代表であり、「忠実で思慮深い奴隷」は集合体としての指導層とされていました。(もちろん、個々人に権限があるわけではありません)。しかし、この「忠実で思慮深い奴隷」は、現在生きている天的クラス全体をさすのではなく、「統治体」だけを指すと変更したのです。これで、「統治体」以外の天的クラスの人たちは、蚊帳の外に置かれ、集合体としての指導層からも外れ、地的希望を持つ人たちと同じ被指導層になったのです。(もちろんエホバの証人の信者は原則的には皆平等です)。たしかに表面的な変化はあまりなかったのですが、これは重要な転機であることは確かです。この変更は、指導者としての「統治体」を強く意識した変更です。指導者はキリスト一人と言いながら、これ以降「統治体」の語は頻出するようになり、「統治体」が「指導している」という表現も見られるようになりました。

これは明らかに「残りの者」の増加を懸念した結果の変更であると言えます。それは結果的に「中央集権化」とも言うべき状況を作り出しました。彼ら自身すら無意識かもしれませんが、明らかに彼らは「指導者」になっています。彼らを多少擁護するなら、彼らは誠実であり、深い信仰の持ち主でしょう。しかし、同時にそれは盲目になりやすいものであり、「誠実さだけでは不十分」なのです。彼らの使命感もこの問題を助長しているでしょう。どこかで自省することができるよう、願っています。

余計なことながら、「提言」

余計なお世話だと思いますが、改革案の提言をしたいと思います。

・あくまで天に行くかどうかは自己申告である(神にしかわからない)わけであるので、それを指導層の条件にするのは無理がある。(理想ではあるのかもしれないが現実には無理)。
・自らを神の経路と主張することも、自由とはいえ神が天から直接世界に語らない限り証明はできない。したがって、エホバの証人の指導部は、神に是認される組織でありたいという人の集合であるべきであり、自ら神の組織であると勝手に自覚・宣言すべきではない。
・指導層を構成する人たちは、天的・地的希望にかかわらず、経験豊かな長老内から平等に推薦されるべきものである。神の導きや聖霊などの見えない要素も完全否定はしないが、現実を直視しつつ人間の限界をわきまえた組織構成をすべきである。

こんな感じはいかがでしょうか。たしかに余計なお世話ですね。実はこの5章の冒頭で引用した元エホバの証人の聖書学者R.フルリ氏の組織改革提案(2020)も興味深いものでした。まず、「統治体」を解体し様々な分野の経験豊かな長老による「調整者のグループ」とすることや、各委員会の独立性の担保、「聖書委員会」の新設などが提案されています。フルリ氏は、排斥後もエホバの証人の信仰を持ち続けているようなので、内容はあくまで聖書信仰に基づく改革なのですが、一考の価値はあるでしょう。(無視されるでしょうけれど)。

現在の14万4千人に関係する教理の変遷は、「統治体」の権限強化とも密接に関係しています。どのような指導体制を取るのかは、各宗教の自由ですし、聖書的であるかという議論もこのNOTEでは重要ではありません。しかし、主張の矛盾については、目を背けず取り組んでいただきたいと思います。

以上、かなり長くなりましたが、今回もお読みいただき、ありがとうございました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?