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映画 『ミセス・ノイズィ』

今日は映画の感想を。
『ミセス・ノイズィ』。

最初の数分でうんざりした。
でも後半、これでもかというほど感情をえぐられ、感動した。

比較的大道の映画を観ることが多いので、
これは私の中では新境地だった。

私が知っている俳優の方の名前は1名しかなく、(しかも主役ではなく)
だからこそ先入観もなくグッと物語に入り込むことができたのかもしれない。


何年か前、何十年か前か、
“騒音おばさん”が話題になったことがありました。

そんな「迷惑な隣人」との因縁、
もしくは笑えるドタバタ劇かと想像してたけど、

まっっっっっったく違った。

もっと何というか、色んな要素が混ざり合ってて現代ならではの視点や問題提起もあって、考えさせられることが多かった。


物事を一側面からのみ捉えるのは危険、
人の話にはしっかり耳を傾けなくてはならない、


こんな当たり前のように思うことさえ、簡単にはできないもの。

とくに、自分に余裕がないときは尚更だ。


人間って、大人って、なんと勝手なものかと思いました。


(以下、ネタバレあります)

なぜ開始数分でうんざりしたのかというと、
初めのシーンがとにかくストレスフル。

小説家という仕事が上手くいっていない、
夫はそんな事情を知らず非協力的、
まだ幼い子供は勝手に家から出て気が気でない。

で、極めつけは、
隣人の爆音布団たたき。


これはもう尋常じゃないストレスだ。
何もかも隣人のせい。

と主人公は思い、怒りの矛先は隣人の女性へ。


後半これらのすべてを隣人の視点で捉えると、
もう全く真逆の感情になるわけです。

あんなに煩いと思っていた隣人が「同情すべき立場の人間」になり、
主人公は「いちゃもんをつける身勝手なモンスター」のように見えてしまうのだ。


映画なので構成上そう見せているのは重々承知。
でも現実世界でよーーーく起こることではなかろうか。

とくにネットの世界では顕著だと思う。

誰が言っているかも分からない身元不明の情報、
誇張された情報、
フェイクニュース。

これらに踊らされない絶対の自信を、私は持っていない。

作中ではそんな現代人の在り方を、
動画の拡散と炎上商法という描写によって浮き彫りにしている。


あぁ恐ろしい。
でもリアル。


「結局自分のことしか考えてない」と、
主人公が夫から言われたとき、ハッと我に返った人も少なくないのではないか。

さらに、結局大人に振り回されるのは子供で、
一番すべてを理解していたのはたった6歳の娘だったのではないか。

常にイライラしていたのに仕事が軌道に乗ったら妙にハッピーになる。
そんな母親(主人公)に振り回されながらも懸命な健気さよ…涙が出た。

そんな彼女も一緒になって母親である主人公と声を上げて泣いていた、謝罪のシーン。
(シゲルさんのお見舞についていくシーンです)

やりきれんかった。


この隣人との関係はどうなるのか、
隣人をネタにして書いた小説『ミセス・ノイズィ』はどうなるのか。

映画として先が気になる部分は、ラストでしっかりと答えを出してくれました。


多くの人に観て感じてほしい。

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