『探偵と助手の事件簿~街の通り魔と消えた教師』第九話


 同日。夕暮れ時。薪条南署前には校長逮捕の一報を受けたマスコミが集まっていた。会見を予定していなかった薪条南署としては早急にお引き取り願いたいところではあったが、親しみやすい警察を掲げている手前門前払いもできない。副署長が玄関でまとめて質問に答えることになった。

「逮捕は薪条南高校校長、高田 正臣(タカダ マサオミ)。六十二歳。容疑は横領と文書偽装です。二年前の九月、十月に行われた不明瞭な会計を捜査員と学校関係者が調べたことによって判明いたしました。詳しいことは後程広報からプレスリリースいたします。社名を控えますので後程あちらの広報にお申し付けいただくか、私に名刺をお渡しください。ここからは質問があれば三つまでお受けします。では、カフスボタンを付けている貴方、どうぞ」

 端的に概要を述べて質問に移行する。玄関に現れてここまで一分。集めることを予定していなかったが勝手に集まることは予想していたといったところだろうか。すぐに質問者を指定して発言を促した。えー、とか、あー、といった必要のない言葉を一切出さなかったことも大きかったのかもしれない。副署長が話し始めてから、好き勝手に発言する者はいなかった。

「はい、薪条…」
「所属は結構ですよ」
「……では。今回の逮捕に繋がる捜査のきっかけはなんだったのでしょうか?」

 頭を掻きながら所属を言いかけた記者に、副署長はその必要がないことを告げる。記者は拍子抜けした感じで首を傾げ、気だるそうに質問したが、内容はなかなか核心を突いていた。確かに、二年前の不正が今更明るみになったのだから、そのきっかけは知りたいところだろう。

「只今捜査中の事件について調べていく過程で不正の可能性を示すメモが見つかり、調査に着手したとのことです。捜査中の事件についての詳細は申し上げられません。ご了承ください」

 同校の教員である佐藤がこの警察署で寝泊まりしていることや、不正に関わっていた松田が失踪していることを隠す方針である以上、この説明が副署長にとっての限界だった。
 残念ながら当然と言うべきか、先ほどまで黙っていたマスコミが口々に批判を始めるが、副署長は顔色一つ変えずに言葉を投げる。

「そう言いますけどね。あなた方も知っていることを全て伝えるわけではないでしょう。それに、捜査上公表すると犯人に優位になることをお伝えすることを差し控えているだけです。皆さんのお仕事は悪戯に好奇心を満たすことではないはずです。もしそのつもりなら、お引き取りください。安全な社会に必要な情報は喜んでお伝えしますし、そういう皆さんの働きには私個人としても大いに感謝しています。しかし好奇心を刺激したいとか、そういう幼稚な需要に応える義務は私たちにはありません。事件捜査はエンターテインメントではないのです。関係者の心を蔑ろにすることを薪条南署は許しません。それでも、何かありますか?」

 先程までの勢いは何処へやら。全く心に揺らぎのない淡々とした言葉に、苦情を述べていた人々も『いやぁ……』と言葉を濁す。

「何もないのであれば、質問を後二つですね。お受けできますが、今回の逮捕に関しての質問はありますか? では、グレーのジャケットの女性の方。お願いします」
「はい。今回逮捕された校長は容疑を認めているのでしょうか? 様子をお聞きすることはできますか?」

 何事もなかったかのように話を進める副署長。詭弁とも取られかねない正論のようなものをぶつけたが、これが定例会見や予定された会見ではなく、あくまで薪条南署の厚意で開かれた会見であることが優位に働いたようだ。このニ分後。会見を無事に終え、副署長は爽やかな笑顔を湛えたまま自分の部屋に戻って行った。

「聞いていてヒヤヒヤしましたよ」
「たまには、持論を言っておかないとな。言われっぱなしは性に合わないんだ。発言の切り取り方で、今後の関わり方も変えていけるし、一石二鳥だな」

 ノックもせずに入ってきた男は、部屋に入ってすぐの観葉植物の植木の近くに背中を凭れた。その反動で、首から提げている許可を得て警察署に入ったゲストである証が、揺れる。目深に被ったキャップのせいか、その顔を見ることはできない。それでも副署長は答え、ハハハと笑ってみせた。男は副署長に合わせて笑いながらドアの近くから机に向かって歩き、それに両手を付いて言う。

「揚げ足を取られないよう、願っていますよ」
「気をつけるよ。……そうだ。こうやって会うのは最後にしてほしい。最近騒がしくてね」

 副署長は、話しながら引き出しに手を伸ばす。取り出したのは一センチほどの厚みの茶封筒だった。

「そう、ですか。わかりました。こちらも色々あって今回で最後だと思っていたので、何も問題ありませんよ。あぁ、あのことは絶対に口外しないので安心してください」

 男はそう言って、副署長から封筒を受け取り部屋を出て行った。溜め息を吐いて立ち上がり、カーテンを少し開けて外を眺める。灯りの点き始めた街並みが、今日はやけに眩しく見えた。

「絶対口外しない……か。この際どちらでもいいが、私だけ終わるようなことはないようにしないとな」

 その後、副署長が帰り支度を終えた頃。高宮家では夕食後の家族団欒の時間を迎えていた。リビングには夕姫と啓志、そして夕姫の母親がいる。父親は残業が終わらないようで、今日は日付を跨ぐとの連絡が入っていた。

「もう、あの人ったら……」

 空席になっている自分の隣を見て、ご立腹な夕姫の母親。今さら挨拶をしないと、というわけではないが、連泊する客人を迎えるにあたって初日は皆で食卓を囲みたかったようだ。
 出された紅茶を啜りながら小言を聞いていた啓志の視線に気づいた母親は、えへへ、と誤魔化すように笑って見せる。

「はじめましてでもないですし、お気になさらず。それで、あの……そろそろ事件について話し合いをしたいのですが」
「あ、そうよね! 私が退散しても良いんだけど、リビングだと主人が帰ってきたら邪魔されちゃうし……。夕姫の部屋なんてどうかしら?」

 啓志の頼みに母親は思考を巡らせ、最適解を導き出した。と、自分では思っているようだ。目を瞑って何度も頷いている。一方で、いきなり自分の部屋を指定された夕姫は慌てた様子で答える。

「え!? 私の部屋? ちょ、ちょっと待ってよ!」
「あら? 掃除ならあなたが学校に行った間にしておいたから、安心しなさい」
「あ、あぁ……。そう?」

 夕姫が戸惑う理由を言い当てて落ち着かせる母親。立ち上がったは良いものの主張する先を失った夕姫はそっと座り直し、残っていた紅茶と一緒にそれを飲み干した。

「では、行きましょうか。それでは、おやすみなさい」
「はい、おやすみ。あまり遅くまで頑張っちゃダメよ。七時には起こしに行くからね」

 母親の言葉に会釈で応え、二人は夕姫の部屋に向かった。

「……意外とちゃんとしてるんですね」
「意外とって何ですか!?」

 夕姫は部屋に入った啓志の第一声に抗議したが、親が片付けてもらったことを思い出して少し顔を紅くする。啓志はそれを弄ったつもりではなかったようで首を傾げていたが後に合点がいったようで、ふふっ、と笑った。

「私暑いので、窓開けますね」

 ご飯の後に風呂に入った夕姫にとって、湯上がりの火照りを冷ますのに秋の夜風は丁度良かったようだ。部屋着をパタパタさせながら、冷蔵庫にあった水を飲んでいる。啓志はしばらくその様子を眺めていたが、夕姫と目が合うと咳払いして本題を持ち出した。

「それで、ここまでに集まった事実をまとめておこうと思うんですけど」
「えぇ、ちょっと待ってくださいね」

 ペットボトルの蓋を閉め、啓志が座っている近くに来た夕姫だが、手元に書くものがないことに気づいて机の横にかけてあった水色のリュックからノートとボールペンを取り出した。

「はい、どうぞ」
「では、始めましょう」

 屋上にいる佐藤を見つけた時のことからコンビニの店員から聞いた噂話をした男性のことまで、メモしていたことや覚えていることを互いに出していく。結局見つかっていない松田のことや、正体のはっきりしない青いツナギの男のことなど。度々脱線はするものの事実だけを洗い出して時系列にまとめて行った。

「こうやって見ると、全部繋がっているように見えますね」
「そうなんですよね。宮越さんと三島さんがうまく青いツナギの方を突き止めてくれたら良いのですが……」

 箱はともかく、焼死体の身元の特定は困難を極める。歯の治療跡や本人のDNAが照合できるものがあれば見つかれば何とかなるかもしれないが。

「そちらは彼らを信じて待つしかないですね。私たちは明日のことを考えましょう」
「そういえば、もらったコピーまだ読んでなかったですね」

 夕姫に促されてライトグリーンのファイルを取り出した。開くと、そこには六年前の日付の履歴書が入っている。緊張感がこちらにも伝わってくるような表情の松田の写真に思わず、

「この頃は、まだピュアだったんですね」

 と、夕姫が呟く。それが真実かはこの日の彼に聞いてみないとわからないが犯罪に手を染める前であることは間違いないので、そういう意味ではピュアなのかもしれない。

「児童養護施設出身なんですね。苦労してるんだ……」
「ですね」

 住所を調べると県境を二度超えなければならないことが分かったが、そこは啓志が新幹線をネットで予約してことなきを得た。いつもなら費用は啓一の探偵事務所宛てで領収書を出してもらうのだが、今回からはそうはいかないことを失念していたのに気付くのは、布団に入ってからのことである。

「とにかく、明日ここに行ってからですね」
「そうですね。空振りになる可能性もありますが、行ってみましょう」

 朝一番の新幹線で向かうことになったので、今日は散会することになった。起きる時間も早まったので、アラームの時間と共に起こしにくる母親にもその旨を伝え、二人はそれぞれの部屋で床に就いた。
 啓志が布団に入り、領収書の件を思い出した頃。スマホがメッセージの着信を知らせる音を出した。送り主は夕姫だった。明日はどのお菓子を持っていくか相談する内容だったので、『ラムネ、グミ、後は高宮くんのお好きにどうぞ』と返す。

「全く、遠足じゃないんですから……」

 そうぼやいた矢先、再びスマホが鳴った。『服はどっちが良いですか?』という文字とともに、二通りのコーディネートを布団の上で並べた写真を送ってきている。一方はふんわりした素材のスカート、もう一方はワイドパンツだったので、啓志は迷わず『パンツスタイルの方が良いです』と返信する。
 睡眠を妨げられたお返しに、『デートする時はもう一つのコーディネートも見せてください』という言葉も添えてあげた。

「何やってるんだか……」

 思わせぶりな態度は良くないとは思いつつも、そういう言葉を送ってしまった自分に自己嫌悪を感じつつ、啓志は目を閉じた。
 翌日、朝六時。啓志は起き上がっていたが、目は開いていない。昨夜最後に送った言葉が自分の中でどうしてもモヤモヤしてしまい、ほとんど眠れずにいた。策士策に溺れる、ではないが、夕姫を驚かせようとして送った言葉で自分が悩んでしまうとは思ってもいなかったようだ。これでは駄目だと、顔を手で二回叩き部屋を出る。

「あ、先輩おはようございます」

 そこにちょうど夕姫が出てきた。夕姫と目が合ったが、啓志は思わず目を逸らしてしまう。

「おはようございます。高宮くん」

 啓志の様子がおかしい原因に気付いたのか、夕姫はニヤニヤしながら耳元に駆け寄り、

「それで、デートっていうのは?」

 と尋ねる。啓志は笑って誤魔化そうとするが、うまく笑えていない。

「……行きますよ」
「あっ! 誤魔化した!!」

 そのまま階段を下り、歯磨きと洗顔を済ませた。後ろで夕姫がしきりに声をかけていたが、聞こえないということにしたらしい。そのうち何も言わなくなった夕姫だったが、啓志が顔を拭いて目を開けた時、

「事件が終わったら、何処か連れて行ってくださいね」

 と言って自分の部屋に戻って行った。啓志は使っていた高宮家のタオルを大事にたたみ、洗濯物のかごに置く。変な意地を張って答えられなかった自分に情けなさを感じつつ、今はそこに焦点を合わせるわけにはいかないと思い返して鏡に映った自分を睨んで見る。

「これはどうしたものかな」

 昨日辺りから自分の心境の変化を実感して、少なからず動揺していた。きっかけは間違いなくパートナーという言葉を出してきた三島だ。彼女が何故あんなことを言ったのか、意図は分からない。それでも自分の心を見て見ぬふりをしていただけで、変化はとっくの昔に起きていたということは彼自身がよくわかっていた。
 洗面所を出た啓志は、夕姫の部屋の前に来た。ノックをすると返事をした夕姫がすぐにドアを開けた。

「あ、先輩。もう出る時間ですよね。すみません」
「いや、それもそうなんですが、高宮くん」
「はい?」

 髪を結いながら会話を続ける夕姫。啓志はそれが終わるのを待って言葉を続ける。

「事件が終わったら、何処かにでかけましょう。水族館でも、映画館でも」
「約束ですよ?」
「えぇ、約束は守ります」

 夕姫は笑顔で小指を差し出す。少し間を置いて啓志も差し出して指切りした。三回互いの指を上下させ、離す。子供じみているようにも思えるが、啓志はともかく夕姫は満足そうだった。

「約束、しましたからね!」
「えぇ、ではまずは事件解決に全力を尽くしましょう」
「はい!」

 六時三十分。二人は玄関からゆっくり出た。両親はまだ寝ているようだ。朝のひんやりとした空気を吸い込み、夕姫は伸びをした。下駄箱の上に『行ってきます』と書いたポストカードを置き、啓志も外に出る。

「さて、新幹線まで時間がありません。急ぎましょう。もう忘れ物はないですね?」
「大丈夫……だと思います」

 朝の準備に思いの外時間がかかり、二人は早足で駅に向かう。時間がかかった要因の一つになった自覚があるようで、啓志は二度ほど忘れ物を取りに一階から二階に上がった夕姫を咎めることはしなかった。
 新幹線にどうにか間に合った二人は、駅構内で買った弁当に舌鼓を打っていた。弁当の数には多少の違いがあるようだが。

「元気ですね。高宮くん……」
「あ、エビフライいりますか?」

 小さめの弁当とはいえ、朝から二個はなかなかヘビーな気もする。夕姫は二本あるエビフライの内一つを箸で挟んでぷらぷらさせながら尋ねた。

「いや、大丈夫ですよ」
「そうですか? なら……」

 持っていたエビフライをかじり嬉しそうにしている夕姫を眺めながら、啓志はこれから行く松田の出身校に思いを馳せていた。
 全国で二万人以上の子供が入所していると言われている児童養護施設。そこにいたからといってその先の人生が必ず悪いものになるということはないが、様々な事情があるとはいえ、子供は親から離れなければならないショックを受けさせられることになる。

「どういう所なんでしょうねぇ」

 啓志の呟くような言葉に夕姫は箸を動かす手を止め、温かいお茶を飲んでから答える。

「親がいるって、当たり前ですけど当たり前じゃないんですよね」
「私も片親は亡くしていますが、全く知らない人に育てられて全く知らない子供たちと共同生活をするって、なかなか想像のつかないことなんですよねぇ」
「その経験をバネにして色んな事業を始める人もいますけど、皆がそんなに強いわけでも状況を受け入れられるわけでもないですよね」
「偏見とか、そういうものもあるんでしょう。ほら、私達も現に可哀想だと思ってしまっている」「確かに。余計なお世話だって思われるんですかね」
「そうかもしれません」

 啓志は夕姫と出会った頃にはすでに母親を亡くしていた。そうやって肉親から離れなければならない状況は経験してきたが、同じ経験をしているわけではないので、彼らの気持ちがわかるというわけでもない。それに、軽々しくそう言うことが良くないことも知っていた。

「あ、すみません。お食事続けてください。私もグミをいただきますから」

 手を止めさせてしまったことを侘びつつ、啓志は昨日夕姫が大量に買ったお菓子の袋からぶどう味のグミを取りだし、封を開けた。

 新幹線から在来線に乗り継いで三駅。そこから五分歩いた所に目的地の児童養護施設がある。黒く塗られた門は堂々とした佇まいで二人を迎えた。その横にあるインターホンを鳴らすと、すぐに女性の返答があった。

「こんにちは。私、薪条南高校という所の者なのですが、過去にこちらにおられた松田さんという方についてお聞きしたくて伺いました」
「あら、ちょっとご期待に添えられるかわからないけど……。それにしても薪条南って、わざわざ遠くから! 正面の玄関からどうぞ」

 個人情報保護の観点からか、女性は訪問の目的が果たせるかは自信がなさそうだったが、遠くから来た若者を門前払いするのは躊躇われたのだろう。とりあえず入ってくるように告げ、インターホンを切った。

「お邪魔します」
「失礼しますー」

 重々しい門を開け、施設に足を踏み入れる。今は座学でもしているのだろうか。誰も外に出てきていなかった。建物を見ると、年月を重ねたことが一目でわかる質感の外壁の周りに耐震補強工事が行われている。全開になっている両開き戸を潜り声をかけると、先程対応してくれたと思われる女性が出迎えてくれた。

「あらあら、若いお二人が遠い所から……。まぁ、上がって行って」
「突然の訪問にも関わらず、ありがとうございます」

 四十代と思われるロングヘアの女性は、花柄のフレアスカートを揺らしながらいそいそとスリッパを二足出してくれた。二人は恐縮しながらそれを履き、案内されるままに入って右手側の部屋に向かった。

「ちょっと待ってくださいね。珈琲で良いかしら?」
「ありがとうございます。こちらにはミルクを二つお願いします」
「……すみません」
「全然大丈夫よ。それにしても、お二人は仲が良いのね」

 二つのやり取りに、女性はクスクス笑いながら答えた。左手を添えて笑うあたりに、育ちの良さが窺える。啓志は名刺を出しながら女性の言葉に答えた。

「こちら助手です。実は私、こういう者でして」「あら、探偵さんなのね。ご丁寧にどうも。私も持って来ないと……。珈琲お持ちした時で良いかしら」
「もちろんです。ありがとうございます」
「では、ちょっと失礼しますね」

 両手で名刺を受け取った女性は、目を丸くして啓志の立場を確認する。自身の名刺入れを他所に置いていたことに気づき、わざわざ渡すタイミングまで尋ねてきた。
 丁寧過ぎる気もするが、これが彼女のスタンダードなのだろうか。珈琲を淹れに部屋を出て行った彼女のことを二人はヒソヒソ声で話していた。

「お嬢様って感じがしますね」
「それはわかりませんが、誠実な印象はあります。我々にとっても良い方だと、信じたいですね」

 問題は、二人が求めているような情報を出してもらえるかどうかだ。世の中のほとんどのことは努力することそのものに意義があり、意味がある。しかし今日は、幾ら良く言われても丁寧に対応されても、話を聞き出せなければ何の意味もない。今後の自信を付けるとか経験を積むとか、そういうことは啓志にとって必要なものではあるが、今日求めているものではなかった。

「お待たせしました。お嬢さんはミルクもね」

 白い陶器のカップに淹れられた珈琲から、ほのかにアーモンドの香りもしてくる。フレーバーコーヒーと呼ばれるものだ。

「いい香りですね」
「ちょっと甘い香り……。普通の珈琲とは違うんですか?」

 興味深そうにカップを顔に近付けて香りを確かめる二人を、女性は微笑みながら見ていた。夕姫の質問に、自分もアンティークの椅子に浅く腰掛けながら答える。

「そうね。基本的には普通の珈琲と何ら変わらないんだけど、コーヒーに香り付けがされているのよ。一番手軽なのだと、最近はコンビニでも淹れてから珈琲にかけるシナモンとか備え付けてあるでしょ」
「確かに、置いてありますね」
「これは焙煎する時に香り付けされているから、香りにムラがなくて良いの。お口に合えばお店も紹介しますけど……あ、ごめんなさい。喋り過ぎてるわね。私」

 女性は口に手を当てて恥ずかしそうに謝る。啓志も夕姫も、そんなことないと言うが、女性がそれ以上珈琲を語ることはなかった。話題を変える為か、わざとらしく咳払いをして名刺を取り出す。

「改めまして、私ここで施設長をしています。|中田 美依(ナカタ ミイ)と申します。こちら名刺です」
「中田さん。よろしくお願いします」

 シンプルな縦書きの名刺を啓志は両手で受け取り、名刺入れにしまった。鞄に戻したそれと入れ替えで、松田の履歴書の入ったファイルを中田に見せる。

「今日伺ったのは、こちらの松田さんについてお尋ねしたかったからなんです。覚えていることがあれば可能な範囲で教えていただけますか?」

 ファイルを開いて履歴書の写真を見た瞬間、中田は目を丸くした。

「え! 松田くんのことならよく知っていますよ。覚えているも何もこの施設にとっては恩人ですから、忘れるはずありません……彼に何かあったんですか?」

 『恩人』という言葉に引っかかりつつも、啓志は松田の情報を提示することにした。情報を引き出したい時はまずはこちらから情報を開示する。交渉の常套手段だ。

「実は行方がわからなくなっていまして。警察の方とも協力しながら探しているんです」
「本当ですか!? あの、昨日もメールしたんですけど……」
「は!?」

 まさかの新事実がすぐに飛び出した。この瞬間に松田の生存はほぼ堅いものになり、驚きと共に安堵する二人。中田に断りを入れて、すぐに宮越にもメールを入れる。宮越からは数秒後に着信があり、これも断ってから対応することにした。

『メールの転送、どうにか頼めないか?』
「随分と色々すっ飛ばして聞いてきますね。まぁ、良いですけど……」

 啓志は、要件から入る不躾おじさんに呆れながらも、気持ちは理解できるということで頼みを聞いてあげることにした。

「警察の方がそれを転送してもらえないだろうかと言っているんですが、どうですか?」
「え、えぇ。全然構いませんけど」

 宮越と啓志の連絡先を教え、松田から送られた文章を転送してもらった。ディスプレイに短い二つの文章が映し出される。

『それは良かった。またそちらに戻れたら観に行きます』

 文章を見て分かることが二つある。『戻れたら』と言う言葉から松田は今、簡単には動けない状況にある若しくは何処かはわからないがそこに戻れない可能性があるということ。そして、

「この時、何を報告したんですか?」

 松田の言う『それ』とは何なのか。当然の疑問を中田にぶつけた。中田は嬉しそうに話し始める。

「あぁ、それは施設の改修工事のことよ。耐震強度の問題で続けられるかどうか微妙なところだったんだけど、彼が費用を援助してくれてね。久しぶりに彼から連絡が来たから報告したの」
「それって、いつのことですか?」

 彼女としては嬉しい出来事を共有したくて嬉々として話したつもりが、どんどん前のめりになって質問していく啓志。中田もただならぬ雰囲気を感じたのか、目を白黒させながら答える。

「えぇ、と。話があったのは二年前の十月辺り……だったかしら。でも、そこから業者さんを選んだり予算を確定させたり。色々あって全部決まったのは去年の春だったわね」

 はっきりしていなかった、松田が横領に手を出した理由。事情が事情なだけに、啓志は松田にかけられた容疑を言い出せずにいた。

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