『探偵と助手の事件簿~街の通り魔と消えた教師』第八話


「まぁ、それも価値観の違いだ。まぁ、こう考えているおじさんもいるんだということを頭に入れておいてくれ」

 店主は珈琲を持ってきた盆を提げて、カウンター内に戻って行った。高い志を持って公安に飛び込んだ若者にとっては、なかなか難しいことかもしれない。それでも店主の思いはそれとなく伝わったようで、先に三島が、少し遅れて藤堂が頭を深々と下げて感謝を口にした。
 店主は手を横に振りながら店の入り口には外出中の掌より少し大きな札をドアの取手に引っ掛ける。

「そういうの良いから、ほら、次の手を考えるんだろう? 私は席を外すから、しっかり話し合いなさい」

 そう言って、どこかに行ってしまった。

「さて、どうしようか」

 最初に口を開いたのはチームの責任者である宮越だった。思い切り両手を上げ、あくびをしながら言う姿は初めて見る人にとってはやる気がないように見えるかもしれない。
 しかし、彼が考え事を始める時の習慣であることを知っている人は、それが真剣な話し合いの始まりを告げるものであることをよく理解していた。

「まずは見失った場所と経緯から、報告したい」
「どうぞ」

 石井の提案を受け入れた宮越は、尾行中に駅から出て来たおばあさんが道を尋ねてきたこと、そして大事そうに抱えている風呂敷に入った荷物を落としたのを無視できず、二人で対応してしまった数秒の間に、見失ってしまったこと。
 そしてそれが駅前であり、おばあさんに不自然な様子はなかったのでそのまま帰したことを聞いた。

「流石に忘れてないと思うけどさ……。当然時刻表を確認したよね?」
「えぇ、確かに見ましたよ」
「それで?」
「なんですか?」
「沿線を歩いていたんだから当然、電車の音や姿も見てるよね? おばあさんは駅から出てきたんだから」

 宮越の質問に対する答えが、ピタリと止まった。
 よもやよもや、である。確かにそんな事が偽装されるなんて、普通は考えない。
 しかし相手は公安を相手になかなか尻尾を出さない、歴戦の探偵である。結果論ではあるが、結果を出さないといけない仕事である以上、そこまで疑って然るべきだった。

「なるほどな。若竹に一杯食わされたわけだ」
「……本当に、申し訳ない……です」
「ごめんなさい」

 おばあさんも啓一の側の人間で、道を尋ねたのも荷物を落としたのも啓一を逃がすためだろう。それにしても、時刻表に偽の時刻が書かれていたのはどういうことなのだろうか。
 駅に人はいないし、手書きの時刻なら誰にでも変更できる。しかし写真に映っていたそれは、しっかりプリントされたものだった。

「これは……。問い合わせてみるか」
「何かわかったんですか?」

 推理を進める宮越に、三島は全体の歩幅を合わせるために進捗を開示するように求める。うっかりしていたと言いたかったのだろう、てへぺろ、なんていう死語を言い放った宮越は、三島の冷たい視線を見て見ぬふりをしたまま説明を始めた。

「これ、もしかして以前の時刻表じゃないか、って思うんだ」
「更新されてないのを知っていて、若竹氏が仕掛けたということですか?」

 宮越の言葉に、藤堂が尋ねる。残すだけでも大変な過疎地域の路線だ。時刻表の管理が優先的に行われることはないだろう。関係者には時刻表を配布しておけば混乱も生じにくいと思われるので、駅の時刻表を張り替える作業が少し遅れる可能性はあるかもしれない。

「いや、でも……」
「なんだ?」

 今度は三島が声を上げた。宮越は一度止まった発言を続けるよう促す。

「問い合わせなくても、検索したらわかりませんか?」

 三島の問いに、宮越は天井を見つめる。これは世代の差なのか、それともただ宮越がアナログなだけなのか。
 はっきりしたことはわからないが、とにかく三島の言葉が正しいことだけは確かだった。

「そ、そうだな……。三島くん、頼んで良いか?」
「私がやって良いんですか?」
「良い。というか、是非?」
「なんで疑問系なんですか」

 デジタル機器の扱いの習熟度に一番個人差が出るであろう宮越の世代。キャリアの中で、そういった技術を必要としてこなかった事が残念ながら裏目に出た。
 すると、二人の様子を見ていた石井が咳払いをしながら自身のスマホを差し出した。

「こういうことだな」

 そこに映っていたのは三島がまさに検索しようとしていた時刻表のページ。もっとも、彼がここに来るまでにやってしまった失敗は、検索ぐらいで取り返せるような失敗ではないわけだが。
 それでも今は捜査を進めることを優先してその言葉を飲み込んだ三島は、流石ですね、と言って時刻表を見ていく。

「宮越先輩。確かに時刻表が違います」
「見せてくれ」

 該当する箇所を拡大して宮越にスマホを渡す。ダイヤは今秋に変更されたばかりのようだ。今、三島から宮越に渡ったのは石井のスマホであるということを、念のため明記しておこうと思う。石井も、あまりに自然な流れだったのでそれを指摘することも失念していたようだ。

「やっぱり、すっかり騙されたわけだな。お二人さん」
「ちょっとというか、注意力なさすぎるんじゃないですか?」

 警察の中でも優秀な者しか所属できない部署にいながらのこの失態。恐らく、報告が終わればこのチームは解散になる。
 だからこそ、今は最善を尽くして啓一を見つけ出すことが至上命題。安いプライドも、こういう時だからこそ捨ててはならない。諦めそうな思いを奮い立たせるための命綱はこういう時のためにある。

「まぁ、とにかく。これが最初で最後の、このチームでの仕事になると思う。皆、覚悟して臨んでほしい」

 三人は宮越の言葉に頷き、次に啓一の移動範囲を予測し始めた。田舎だったことが幸いしたとも言えるかもしれない。移動に公共の交通機関を使うことは考えられないからだ。
 そうなると、Nシステムを利用すれば移動した方角は絞り込める。引っ掛からなければその時はその時。むしろNシステムを避けるために無駄に移動する可能性を考えると、その方が好都合かもしれない。
 三島はすぐに科捜研に連絡を取り、周辺のNシステムをチェックするよう要請した。正式な要請でもない急な依頼に担当者には少し渋られたが、何か起きてからでは遅い、という三島の緊迫した声色に態度を変化させる。
 自家用車が家に停まったままであることは確認済みだったので、レンタカーだけを絞り込んで検索をかけることになった。

「科捜研の結果が出るまで、宮越さんと私は元の要件を進めていきます。お二人はどうされますか?」
「そうだなぁ。あのおばあさんを探してみようと思う。方角も絞れていない以上、動き出すのは待った方がいいだろうというのは、全くの同意見だ」
「私もそれがいいと思うであります。彼が簡単に行動するとも思えませんし」

 それぞれの取り組むことがはっきりしたところで四人は立ち上がった。藤堂は、自分だけ手をつけていなかった珈琲をグッと飲み干し、息を吐いた。慣れない苦味に顔を少し歪ませる。

「無理するなよ?」
「……っす」

 語尾に付いてくる『であります』が消えるほどの辛さがあったらしい。その様子を見ていた三人は微笑み、空気が弛緩した。
 本人は少し不服そうだったが、重苦しい空気が変わったのを感じてからは、満更でもなさそうだった。
 宮越は、店主に電話をかける。話し合いは終わったのでもう戻って来て欲しい旨と、気遣いへの感謝を伝え、店の外に出た。黒塗りの“いかにも”な乗用車を一瞥して、それに乗り込む二人を送り出す。

「さて、私たちも行きますか」
「そうだな」

 宮越と三島も、シルバーの乗用車で当初目的にしていた柏野基警察署へ向かう。影で二台とも見送った店主は、頑張れよ、と呟いて店内に戻って行った。

◆◆◆◆

 啓志は、自身の荷物を自宅に取りに来ていた。そうは言っても、いつ啓一が帰ってきて自分の動向を知ることになるかわからないので、移動させるのは必要最低限。手にするのは、いわゆる二軍のものばかりだ。

「先輩、これはどうしますか?」

 夕姫が勝手に持ってきたのは、水色のハンカチ。あの日から差し出し、差し出されてきた思い出のハンカチだ。啓志は夕姫の手にあるそれを受け取る。

「当然、持っていきますよ。ありがとう」

 啓志が家に来ることになったことを知った当初は反対していた夕姫も、すでに気持ちを切り替えて有意義な時間にしようとしていた。事件の進展もそうだが、啓志の今の推理も気になっているのだろう。
 啓志の後ろを付いて行く夕姫。歯ブラシや歯磨き粉は高宮家に向かう途中にあるコンビニで買うことにした。家を出る前に、夕姫が事務所を見たいと言うので少し見せることになった。
 主人が一日留守にしていた事務所は、心なしか埃っぽくなって迎え入れる。啓志はすぐに出窓を開けて換気を始めた。秋の風が一陣。寒気を纏ったそれに想うのは幾許かの寂しさか、それとも親との対峙を決意する後押しか。

「先輩?」

 遠くを見つめる啓志に夕姫は首を傾げ、右腕の袖を少し掴んだ。啓志は振り返って夕姫を見る。次に吹く風は心なしか暖かく、優しく二人を包んだ。

「ありがとう、高宮くん。大丈夫。……大丈夫です」

 後輩の心情を悟った啓志は、二度言葉を繰り返した。一つは夕姫のために、二つ目は自らのために。落ち着いたところで事態が変わるわけではないが落ち着いていないと対処できない事は、これからきっと何度も起こる。
 これが初めてでもないし最後でもない。これから続く道の中で何度も出会うそれに対して、今日は助手が一緒に立ち向かってくれる。実利のために助手になってもらったわけでもないが、今日ばかりは助手の存在に感謝した。

「じゃあ、そろそろ行きますか? よく分からないですけど、長居できないんですよね?」
「えぇ、あの……本当にありがとう」

 夕姫は一度離した袖を再び掴んで歩き出した。少し引っ張られるような形で歩きながら家を出る。夕姫自身はそこまで感謝されることをした自覚はないようで、少し不思議そうに先を歩いていた。

「あそこのコンビニに寄りますか?」
「そうでしたね。行きましょうか」

 啓志の提案で、高宮家の最寄りから少し手前のコンビニに入ることになった。入店と同時に、店員の声が響く。二人をまず迎えたのは、レジカウンターの中に立って発注の機械をいじっていた男性。少し低い身長を感じさせない大きめな声と接客業然とした柔らかい笑顔が印象的だ。
 店内を進んで行くと、店の奥の方に日用雑貨のコーナーがあり、歯ブラシと歯磨き粉をみつけることができた。

「ほかに何か欲しい物とかありますか?」
「え、じゃあお菓子とか買っても……?」
「かまいませんよ。今日は話し合いも長くなると思っているので、それに備えてもいいかもしれません」

 啓志の言葉に喜々としてお菓子コーナーに歩を進める。制服でなければ、一体何歳に見えるのだろう。無邪気にお菓子を選ぶ夕姫を、啓志は微笑みながら見ていた。

「先輩は、好きなお菓子とかありましたっけ?」
「いや、高宮くんのセンスに任せます」

 いつの間にか店内用のカゴをお菓子で満たした夕姫は、左手に茎わかめを持って啓志に尋ねた。啓志はカゴの中に目をやってから答える。
 グミやラムネといった好物が既にかごに入っていたので、特にリクエストすることなく買い物を続けてもらった。
 丁度納品があった時間のようで、店内には他に二人店員がいるがレジにいるのは先程の男性だけだった。店内を一通り見終えた夕姫は、満足気にレジにかごを置く。

「お願いします。レジ袋も二枚ください」
「いらっしゃいませ! 承知いたしました。お預かりします」

 発注を中断して、レジ打ちを始める男性。かご一杯にお菓子が入っているが、余裕の表情で次々とスキャンしていく。とはいえ、しばらく時間がかかるからだろうか、二人に声をかけてきた。

「あの、この辺で起きてる通り魔の噂ってご存知ですか?」
「噂、ですか? いえ……」

 突然出された目下捜査中の事件に関する話題に面食らう。しかし、こういう時の噂もバカにできない。啓志も、店員の話を聞いてみることにしたようだ。

「いや、ここ数日事件がないじゃないですか? もしかしたら、犯人は既に海外とかに逃げてるんじゃないかって、噂を聞いたんですよ。傷害事件とはいえ、件数が多すぎるからマズいと思ったんじゃないかって」
「なるほど、確かにその可能性はありますね」

 店員は手を動かし続けながら、それでも二人にきちんとアイコンタクトを取る。二人の反応を見て話し続けて良いか確かめているようだった。それを察してか、啓志は噂の現実味を否定せずに言葉を返す。
 その様子を見て、店員は黒縁の眼鏡の位置を一瞬整えて続けた。かごのお菓子は、残り三分の一の所まで来ている。

「それで、お二人の学校の先生に容疑がかかっているとかいないとか。そういうちょっと失礼な噂なんですけど、何も聞いてないですよね?」
「そう、ですね。校長が襲われて入院してますし、その犯人がもしかして例の通り魔かもしれませんからね。なんとも言えませんが……」

 啓志も、店員よろしく途中で言葉を止めた。その理由は店員とは異なるようだが。

「あ、ありがとうございます。四千二百三円になります」

 いつの間にかスキャンが終わって、袋詰めを始めていた店員に、啓志は会計を先に済ませてから続けたいと思ったようだ。幸い、他に客の姿もない。

「先輩。ごちそうさまです」
「全く、君という人は……」

 しれっと奢ってもらおうとする夕姫に、啓志は溜め息を吐くが、数日宿にさせてもらうと考えれば安いものだ。丁度支払って会計を終わらせた。

「その噂って、どなたから聞いたか覚えてますか?」
「うーん、誰だったか。かっちりした印象の男性だったと思います。噂話するなんて、何か意外だなぁって思ったんですけど、詳しくはちょっとわからないですね」
「あぁ、まぁそうですよね。すみません変なことを聞いて」
「いえいえ、よろしければまたお越しください」

 店員は再び眼鏡の位置を整えてニコッと笑った。二人は会釈で応えてコンビニを後にする。品出しをしていた店員二人も、ありがとうございました、とやまびこしているのが聞こえた。

「噂話って、もっと尾鰭や背鰭が付くものだと思ったんですけど、そんなことないんですね」
「そうですね。妙に核心を突いているのが気になりますが、何とも……」

 コンビニから出てしばらく歩いてから、ふと出した夕姫の疑問に啓志も同意する。噂話に、噂とは思えない現実感がある。
 というか、二人の学校の教師に容疑がかかっているのは、ほぼ真実だ。状況は少し変わって来ているが今のところ、松田が有力な容疑者であることは間違いない。

「捜査関係者? いやまさかねぇ」
「それは……。だとしたら免職ものですねぇ」

 夕姫の挙げた可能性に啓志は乾いた笑い声を出したが、本当にそうだとしたら笑い事ではない。そもそもそんなことをしても、その場の相手のリアクションという形で僅かばかりの承認欲求しか満たせないのだから、賭けるものの割に得が少なすぎる。

「考えすぎですかね」
「そうかもしれません。容疑者の海外逃亡も、少し飛躍してる気がしますし……。いやでも、調べてみる価値はあるかもしれませんけどね」

 啓志は『今夜宮越さんにメールしてみましょう』と付け加えて、携帯にメモを書き込んだ。T字路を左に曲がり、二つ目の信号も左に曲がる。大通りから少し入ったら、そこには閑静な住宅街が広がっている。右手側に並んでいる3軒の家と一棟のアパートの先が高宮家だ。

「久しぶりですねぇ」
「文化祭の部活発表の内容を考えた帰りに寄っていただいた時以来なので、ちょうど一年振りくらいですか」
「確かに、もう懐かしいですねぇ。必死に活動報告らしきものを……」
「言い出しておいて何ですけど、思い出したくないです」

 夕姫は大袈裟に首を横に振る。やがて、行きましょうか、と言い、アルミ素材の白い門扉を開けタイルの敷かれた小庭を通り、二重ロックの付いた黒いドアを開けた。啓志もそれに続く。

「こんにちは。お世話になります」
「ただいまー。ねぇお母さん聞いてないんだけどー!」

 玄関から上がるや否や、ガニ股気味に左手奥側にあるリビングに進んで抗議を始める夕姫。啓志は苦笑いをしながら付いて行き、キッチンに立っていた夕姫の母親に声をかけた。

「すみません。今日から少しの間お世話になります」
「あら啓志くん。良いのよ、自分の家だと思ってくつろいで。部屋は夕姫の隣を空けておいたから、好きに使ってね」
「ありがとうございます」

 深く頭を下げた啓志は、その足で階段を上って指定された部屋のドアを開けた。夕姫は未だに母親に声をかけていたが、はいはい、と受け流されていた。
 七畳ほどのスペースがあるフローリングの部屋には、啓志から見て右奥の隅に畳まれた布団、左奥には小さな冷蔵庫まで置かれている。持ってきた荷物を入り口近くの加湿器の横に置いて、啓志は再び一階に降りた。
 先ほどまで一歩も譲らぬ構えで抗議していた夕姫は、両手一杯の大きさのシュークリームにかじり付きニコニコしている。啓志が四人掛けのダイニングテーブルに座ってアールグレーを飲んでいる母親に目を向けると、母親も視線に気づいてサムズアップで応えた。対夕姫の必勝法は、家庭でも変わらないらしい。

「啓志くんも紅茶はいかが?」
「ちょっと学校に行かないといけないので後でいただきます。あの、あんなに良くしてもらって良いんでしょうか?」
「部屋のこと? 娘の大恩人にあれくらい当然よ。むしろ不便があったら言って欲しいくらいなんだけど」
「いやいや、十分すぎます。身に余るほどです。……夕姫くん。そろそろ学校に向かいたいのですが」

 声をかけられた夕姫は口一杯のクリームを飲み込み、ついでと言わんばかりにもう一つシュークリームを掴んで立ち上がった。母親が、それお父さんの……、と呟いたが夕姫の耳には入らなかったようだ。啓志は『行ってきます』と言って、横を通り抜けていった夕姫の後に出ていった。
 学校に着いた二人は、守衛に事情を説明して正門から入っていった。それから真下のいるであろう職員室に向かう。目的は松田の履歴書。校長から言われた、松田について調べてみたら良いという言葉にどれほどの信憑性があるかは分からないが、今はできるだけ情報を集めて置きたいところだ。

「あら、あんたたち。調子はどう?」

 陽気なエクササイズのインストラクターのような挨拶で二人を迎えた真下。肩を余計に振りながら歩いてくるあたり、芸が細かい。その左手にはアメリカンワッフルがあった。まさか食べている物によって話し方が変わるのだろうか。

「あ、先生。……武勇伝、聴きましたよ」
「え、何の……高宮さん?」

 啓志の言葉からすぐに誰がリークしたかを導き出した真下は、その容疑者に声をかけたが、見事に黙秘を決め込まれている。啓志は二人の顔を交互に見て様子を窺うが、自身が招いた気まずい雰囲気に関して思うところは特になく、ニコニコ笑って楽しんでいるように見える。

「冬休み中の補習が楽しみね。高宮さ「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 補習という言葉が出た途端、容疑者は謝罪を始めた。過去の補習が余程辛かったのだろうか。学年主任はしたり顔で頷いている。元はと言えば自分が感情を制御しなかったことに起因する悪評なので、夕姫にこう言うのもお門違いなのだが。
 ここまで、できるだけポップに表現してみたが、これはただの職権濫用。それでもここまで清々しいと誰も口を出さなくなるようで、啓志の咳払いと共に話題は松田の件に移った。

「それで、お願いしていた松田先生の履歴書ですが……」
「あぁ、そうだったわね。ちょっと待ってて」

 自分の机に戻り、積み上がった書類の一番上に置いてあったライトグリーンのファイルを掴んで持ってきた。道中で、横わけの髪型をした茶色いスーツの社会科の教員声をかけられ、笑いながら一言二言交わしていた。

「はいこれ。コピーだけど、良いわよね」
「もちろんです。ありがとうございます。それでは」

 無事に目的を果たして去ろうとする二人に、真下が声をかける。

「二人とも気をつけてね。あ、それと高宮さん。社会科の期末テスト頑張らないと本当に補習だよって、中村先生からの伝言ね」
「え……」

 唖然とする夕姫。職員室の方に目をやると、先ほど真下と話していたスーツが控えめに右手でピースサインを見せている。ショックのあまり足を止めた夕姫は、啓志に引き摺られるようにして階段まで進むことになった。

「おや、お二人さん」
「こんにちは。教頭先生」

 そこで、階段を上がってきた教頭と遭遇した。夕姫の意識をしっかりさせるため、背中をぽんぽんと叩く。

「ふぇ? あ、教頭先生! こんにちは」
「相変わらず、君たちは仲が良くていいな」

 教頭の手には、一階の自販機で買ったであろう紅茶があった。時間も時間なので、ゆったりティータイムといったところだろうか。

「ところで、進捗はどうだい? こっちもマスコミやらが来てね。対応が大変なんだよ」
「まだはっきりしたことは、何とも。ただ、校長先生から、近いうちにお話はあると思います。今はそれしか言えないですね」

 教頭は、校長の話しというのに少し不安そうな顔を見せたが追求することなく『そうか』とだけ答える。校長の怪我、警察に保護されている教員、姿を消した教員。ここまで揃っていてマスコミが追ってこないわけもなく。
 それでも、子供のプライバシーの観点から学校に直接来ないように通達を出した教頭のお陰で、比較的平穏な学校に見えているが、実際は電話取材が止まない日々が続いている。

「まぁ、とにかく。引き続きよろしく。警察の方々にもよろしくお伝えください」
「はい。必ず伝えます。ありがとうございます」
「そうだ。これ、生憎一本だけど二人で分けて飲みなさい」

 教頭はそう言うと、持っていた紅茶のペットボトルを啓志に手渡した。啓志は受け取る直前に気づいたようだが、オレンジ色のキャップということはホット専用のものだったらしい。
 じんわり温かさが伝わってくる。感謝を伝えて、教頭と別れた。二人分だった紅茶は、帰っている間に全て夕姫のものになったのは、ここまで読み進めた読者には言わずもがな、な情報なのかもしれない。
 高宮家に戻ると、すでに夕食の準備が進められていた。じゃがいも、人参、玉ねぎ、牛肉。ここから如何様にも変化する具材が炒められる音が、鼻腔をくすぐる。

「良い香りですね」

 キッチンにいる夕姫の母に声をかけた。何になると思う?と、母は悪戯っぽく尋ねる。啓志は腕を組んで推理を始めた。

「そうですねぇ。ご飯が炊かれていませんし、先ほど出かける前にバケットがテーブルの上にあったことは覚えています。となるとビーフシチューでしょうか」
「正解! そんなところまで観察してるの、さすがね。できたら呼ぶから、先にお風呂済ませる?」
「ありがとうございます。シャワーだけお借りできれば」
「ダメよ、ちゃんと湯船に浸かってくること」

 子供を諭すような言い方で湯船に入ることを勧められた啓志。幾らか不服そうではあったが、居候する身である為はっきり意見する事ができず、渋々湯船に浸かることになった。
 啓志と夕姫が学校に向かっていた頃、三島と宮越はもとの約束通り柏野基警察署にいた。遅れることは事前に三島が連絡していたので、担当の刑事は予定を入れずに待っていてくれた。事件当日に啓志を含めて話し合ったことを軸に、今回の火災をもっと調査するべき理由を伝えていく。

「とにかく、自殺と結論づけるのは早すぎます。黒い箱の中身は何なのか。そもそも、ご遺体の身元も明らかにしていないのはなぜなのか。矜持を持って徹底的にやっていただきたい」

 宮越の言葉に、担当者は苛立ってもおかしくない。それだけ、所轄の判断に強烈な異議を唱えていたのだが、彼が感情的になる様子は一切感じられない。宮越の言葉をパソコンに打ち込みつつ、時折頷きはするものの終始黙っている。

「私はね、若竹啓一のことを信用できないんですよ。理由はこれまで説明した通りですが、納得していただけましたか?」

 啓一のことは信用できない。これは公安の調査対象になっているような存在なので言わずもがなである。この件と調査している疑惑が結びつくかはまだわからないが、疑いながら進むのが一番安全なやり方だということを宮越は経験から学んでいた。

「分かりました。私も、この件はまだ調べる必要があると考えていました。公安の方の後押しもあるなら話は進めやすい。感謝します」
「よろしくお願いします」

 互いに固く握手をして、二人は席を立った。会話の中で完全においてけぼりにされた三島も、慌てて立ち上がって歩き出した宮越の後について行く。

「良いんですか? 言葉を記録されて」
「まぁ、彼の良心に委ねるよ。それに、全部を話したわけじゃない」

 それはそうですが、と言いながら車の鍵を開ける。宮越は考え事をしていて気づいていないが、行きも運転した三島は小さく溜め息を吐いて運転席に乗り込んだ。宮越が自分の番だと気づいたのは、一時間走って休憩を取った時のことだった。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?