『探偵と助手の事件簿~街の通り魔と消えた教師』第七話


 夕姫の報告は、概ねメールで確認した通りだったが真下が校長に詰め寄ったシーンは含まれていなかったので、啓志は楽しそうにその話を聞いていた。

「なるほど。それで高橋さん含めて出禁にされてしまった、と。気持ちはわからなくはないですが、無茶しますね」
「そうなんですよ。私も知らなかったからびっくりしたし、ヒヤヒヤしながら見てました」

 啓志に無茶をしたと言われてしまう真下。彼に言えたことではないかもしれないが、一歩間違えば相当ややこしい話になっていたのは確かだろう。出禁で済んだのは、むしろ僥倖とも言える。

「それでは、行きますか高宮くん」
「へ? どこに行くんですか?」

 立ち上がる啓志の言葉にキョトンとした顔で座っている。啓志は、どこって……。と呟いて立ち尽くす。

「私も校長先生の部屋は出禁ですよ?」

 可愛らしく首を傾げながら舌を出す夕姫。怒られることを薄々感じ取っているのか、できるだけのことをして啓志の気持ちを宥めようとしたようだが。

「なるほど?」

 色んな気持ちを通り越して満面の笑みを見せる啓志。その後、夕姫は大事な報告を怠ったことを詰められながら、それでも他に頼むこともなかったので病院まで一緒に行くことにする。
 啓志が校長に会いに行っている間、一階のコンビニで買ったものを外のベンチで食べながら待つという、図らずも昨日やりたいと思っていたことを実行することになった。
 病院の外のベンチに腰掛け、焼きそばパンとチョコパイが各二つに一リットルの珈琲牛乳。さらに別の袋には、道中買ったメロンパンがフレーバー違いで三つ。夕姫はシャーロック・ホームズの短編集を愉しみながら、それらを幸せそうに口にしていた。
 切り替えの速さというか、自分を許す心の有り様というか。報告漏れのあったことを先ほどまで落ち込んでいたとは思えないような表情で、秋を謳歌していた。
 近年稀少になったこの過ごしやすい気候を感じるために外に出て紅葉を楽しむのは院内の人も多く、看護師と一緒に歩くお婆さんや、親と共に落ち葉を踏んで歩く子供等さまざまだ。
 多様な理由で狭い空間での暮らしを余儀なくされている人の享受するひと時の開放感は、見ている夕姫にも伝わっていた。

「私も、先輩に助けてもらえなかったら入院とか通院とか大変だったかもしれないな」

 夕姫は自身の体験を考えて、そこにいるのが自分だったかもしれない、と考えてみる。わずかな期間だったが、今でも鮮明に覚えている疑心暗鬼の日々。そこから助けてくれた恩を返すために、啓志の助手になることを決めた。

「でも、今の私は……」

 啓志と共にいられることを喜んでいるだけ。これでは助手ではなく、ただのファンもしくは友人の一人である。

「これじゃダメだ」

 残っていたメロンパンを口に放り込み、珈琲牛乳を飲み干す。ゴミをまとめた夕姫は立ち上がり、病院内に入っていった。校長を担当している階の看護師に、校長の印象や雑談の内容について聞いて回るためだ。
 収穫があるとは限らない。でも、それもやってみないとわからない。
 遠回りが一番の近道であると、ある偉大な野球選手も言っていたが、これで何も得られなくてもそれは、何も得られなかったという事実を知ることである。何もせずにベンチに座っていたのとは同義ではない。
 彼女にとっても少し食べすぎたお腹をさすりながら、夕姫は歩を進めた。
 その頃、啓志は花屋で見繕ってもらった花束と共に校長の所に来ていた。と言っても、校長は寝ていてなかなか目を開いてくれない。看護師には、起きたらお呼びしますよ、と言われたが啓志は気遣いに感謝しつつその提案を固辞した。
 看護師を信じていないわけではないが、校長が面会できないことにしてくれと頼んでしまえばそれまでだからだ。

「読書でもして待ちますか……」

 そう言って取り出したのはシャーロック・ホームズの短編集。こちらは上巻と書かれていた。夕姫が持っているのは下巻。短編集なのでもちろんどちらから読んでも差し支えないが、一階のコンビニでの買い物に付き合った際に夕姫がこちらを譲ってくれた。

「変なところで律儀というか、先輩を立てるよなぁ……」

 類は友を呼ぶというが、確かに変わった人の元には変わった人が集まるようだ。啓志自身にその自覚はないようだが。
 ホームズは推理に関しては間違いなく素晴らしいのだが、完璧な人間かというとそんなことはなく、暇つぶしとして薬物に依存している時期もあったり、言葉が上から目線だったり、相棒がいないとだめだったり。
 啓志の理想とする探偵像は、こういう欠点をさらけ出しながらも依頼を受け続ける圧倒的な洞察力と推理力を持っている人物だった。

「私のワトソンは……。まだまだ成長期ですが、きっと頑張ってくれるでしょう」

 啓志がそんなことを考えていると、廊下から聞き覚えのある声が耳に入ってきた。まだ途中の物語を中断して声のする方を覗き込む。
 そこには、目下成長中の助手がいた。ナースステーションで休憩している看護師に声をかけ、校長のことを聞いて回っている。

「あの量をもう食べきったんですね。高宮くん……」

 感心するポイントのズレは置いておいて、助手の頑張る姿を見た探偵としては、そろそろこちらにも動きが欲しかった。椅子に座り直して、校長に向けて声をかける。

「狸寝入りはそろそろやめませんか?」

 校長は口角を上げ、目を開いた。

「なんだ。バレていたのか」
「校長が寝ているとき、いびきをかかないなんてことないですからね。以前3回ほど寝ているのをお見かけしましたが、いずれも素敵ないびきを……」
「そうか、そうか。偉くなるもんじゃあないな。誰もそんなこと言ってくれなかった」
「言ってくれなかったってなんですか? あれだけ熱心にあなたを追求した真下先生、高橋さん、ついでに高宮くんまで出禁にしておいて」
「あれは病院で騒ぐから仕方なく、だ」
「なるほど。まぁ、良いでしょう。今日は何かを聞くために来たのではありません。あなたの犯行は、全てわかっていますから」

 啓志の言葉に、校長は憮然とした表情を浮かべた。立ち上がり、帰ろうとするのを見て校長が声をかける。

「なんだ、本当に帰るのか?」
「えぇ、それだけ喋れるなら罪を償えますよね。安心しました」
「な!?」
「おっと、大きい声を出したら出禁にされちゃいますよ?」

 啓志は嫌味っぽく言って立ち去ろうとする。が、入口付近で立ち止まり戻ってきた。校長の横に立ち、ポケットから白いUSBメモリを取り出して見せた。

「こちら、あなたが松田先生に指示している音声データを入手したので、これから警察に持っていきますね。それではごきげんよう」

 これはただのブラフだ。もし啓志が本当に音声データを持っているのであれば、わざわざ校長の元に来てそれを見せつける必要はないだろう。

「ふん、そんなものあるわけ「あるわけないですよね」

 校長が言い切る前に、啓志は待っていましたと言わんばかりに口を挟んだ。校長は、は? と声を漏らす。

「不正を指示しておいて後々脅される可能性があるのに、音声が『あるわけない』とまで言い切れるということは、伝達手段はメールですか? 会話していないとなると、校長がやるべき承認も彼にやらせていたということになりますね。もうこれだけで、あなたの懲戒は免れないんですから全部素直に言うべきですよ」

 あれだけ若者に煽られて刺激された誇りは、余計な言葉を口走らせた。その直後に、啓志が胸ポケットから録音機をちらりと見せると、校長は肩を落とす。

「……私は一回だけしか、不正は指示してない。二回目は、松田くんから脅されて私が承認したんだ。で、でもその後いなくなるなんて思ってもいなかった。後悔しているし、退院したら校長の職は辞すると約束する」
「そんな話を信じられるとでも?」
「信じられないのもわかるが、調べたらわかることだ。そうだなぁ、松田くんについて調べてみたら良いんじゃないか? 後は君……若竹くんだったか。好きにやってくれ」
「は、はぁ……」

 肩透かしを食らったような感覚。煽って過去の行いを自白させた相手に、最終的にはアドバイスまでもらってしまった。

「なぁ、探偵くん。松田くんを見つけ出してくれ。私が彼を犯行に巻き込まなかったらこんなことには……」
「それはどうでしょうか? 最初の不正会計が九月十五日。次の犯行はたったの一ヶ月後、十月二十日です。あなたの言われていることが真実だとしてですが、恐らくあなたが引き込まなくても、彼はいずれ何処かでやらかしてると思いますよ」
「そうか……」

 啓志はアドバイスのお返しと言わんばかりに、校長の罪悪感を少し軽くする情報を提供した。校長は犯行を吐き出してから安堵したようにも見える。ベッドにもたれて天井を見上げた。

「あ、そうだ。校長先生」
「なんだ?」
「あなたを襲ったのは、青いツナギの男ですか?」

 思い出したように、夕姫が聞くことの叶わなかった質問を投げかける。校長は犯罪者ではあるが、同時に被害者でもある。
 今日は意識が戻ったこともあって警察が来るようで、そこで洗いざらい話して貰えばいいのだが。校長は啓志の目をじっとみてから口を開く。

「そうだ。突然入ってきて殴られてしまった。いざという時は抵抗できないものだな。これでも、空手の有段者だったんだが……」

 人間、急に襲われるとそういうものだ。日常が突然崩れると、脳が混乱し、体は一瞬硬直する。

「しょうがないですよ。それが普通です」
「それで、青いツナギというのを知っているのは……?」
「声を聞いて校長室に行った時、そこに居たんですよ。ただ、事務員がその人のことを知らないと言うのでおかしいなと思って」

 青いツナギの男については、宮越と三島が調査するように働きかけに行ってくれている焼死体の正体をはっきりさせるのが先決になる。今、判断するとなると状況からそのご遺体が犯人ということになるのかもしれない。
 とはいえ、その不十分な情報を校長に伝えることは、はばかられた。

「そうか。そんなに堂々と居座るというのは凄いな……」
「救急に通報までしたって言ってましたが、彼の目的は不正会計をこうやって暴くことだったのでしょうか?」
「さぁ、それは本人に聞いてもらわないと何とも言えないが、それだったら学校ではなくどこかに連れ去って暴行で吐かせるとか方法はいくらでもある気もするがなぁ」

 自分のことなのにサラっと怖いことを言う校長。気は短いが肝は座っているようだ。
 確かに校長の言うことも一理ある。本当に命を狙おうとするのなら、人が多いどころではない学校で襲うのは成功確率が低すぎる。方法はどうであれ、呼び出してしまえば人気のないところで襲うことだってできただろう。

「やはり、命以外の目的があったのでしょうね。その辺りも調査しますから、分かり次第またお知らせします」
「そうしてもらえると嬉しい。もっとも、警察の方にもきちんと話すから、どちらが先になるかは、わからないがね」

 校長の言葉に啓志は会釈で応え、病室を後にする。ナースステーションで、おにぎりを一つもらって頬張りながら談笑している夕姫に声をかけた。

「お疲れ様です、高宮くん。目的は達成できたので帰りましょう。看護師のみなさんもお世話になってます。引き続きよろしくお願いします」
「え、はい! あの、ご馳走様でした」
「ご丁寧にどうも。探偵さんも頑張ってね」

 半分残った梅おにぎりを片手に立ち上がる夕姫。看護師たちに見送られ、エレベーターで階下に降りて病院を出た。
 午前中の病院は、新規受付の患者が多い。季節の変わり目ということもあってその傾向に拍車がかかっているようだった。先ほどまでは少し余裕のあった受付のベンチは、すでに一杯になっていた。
 支払い窓口では、帰っていく患者に対する看護師のマニュアル的な『お大事になさいませー』という言葉が繰り返されている。目を合わせないで言うそれに、意味などないような気もするが言われる方も見ていないから、おあいこだ、とも思う。

「体調を崩しやすい時期ですね。先輩は大丈夫ですか?」
「ん? 全然大丈夫ですよ。高宮くんは……大丈夫ですよね」

 なんとかは風邪をひかないというが、実際は全然ひく。何なら用心していない分、余計にかかっているのではないだろうか。気づかないほど鈍いことを表したことわざは、現代でもこうやって冗談に使われて息をしている。

「え? なんでですか?」
「なんでって……ねぇ?」

 質問に答えない啓志の様子に、その言わんとするところを理解した夕姫は、膨れっ面をしたまま並んで歩いた。

「高宮くんって、割と量食べれるんですね。三年の付き合いになりますが全然知りませんでしたよ」
「あぁ、今日は少しだけ食べ過ぎましたね。考え事をするのに糖を欲してしまう体質らしくて……」

 ご飯を多めに摂った理由は天才のそれなのだが、今のところその糖は充分使われずにいた。派遣されたのに人数が余ったから仕事を与えられない作業員のような、忙しいと聞いて助っ人に入った店で閑古鳥が鳴いているような。そんな感覚で、夕姫の体に取り込まれた糖はエネルギーとして働く時を待っていた。

「なら、今からどうするのが良いか意見を聞きたいんですけど」
「何ですか?」

 夕姫は選択肢を委ねられた事実が嬉しかったようで、少し先を歩いていた啓志を駆け足で追い抜き、振り返って止まった。
 うさぎ結びが揺れて、シャンプーの香りが周囲に広がる。啓志はそんな夕姫の動きに一歩引いたが、夕姫の嬉々とした表情を見ると納得したように言葉を続けた。

「このまま、今日からしばらくお世話になる高宮くんの家に持っていく荷物を家に取りにいくか、松田先生のことを調べるために学校に戻って経歴を見に行くかなんですけど、どう思いますか?」
「……もう一回言ってもらっても?」

 啓志はリクエスト通り、今度はよりゆっくりと二択を提示する。それを受けた夕姫から小さく、すぅーっと息を吸う音が聞こえた。それもそうだ。

「先輩がうちに来られるってことですか? あの、聞いてないんですけど」
「えぇ、言ってませんからね。ちなみにご両親には許可をいただいておりまして」
「いや私の意見は!?」
「聞いた方が良かったですか?」
「当たり前です!!」

 突然の知らせに当然怒る夕姫。しかし、小気味のいいラリーを経て埒が開かないことを悟った彼女は、

「荷物を取りに行くのが先なんじゃないですか?」

 と、ジトーっとした目で呟いた。心なしか、先ほどより夕姫の髪のうさぎが元気を失ったような気もする。
 啓志は連絡しなかったことを謝りつつ、理由は聞かないでほしいと頼み込んだ。まさか啓一が公安にマークされているなんて言えるわけがない。啓志の様子に何か事情があることを悟った夕姫は、表情を変えて言う。

「分かりました。必要なことであるなら協力させていただきます。でも……」
「でも、何でしょう?」
「理由を話せる時が来たら、教えてもらえますか?」
「もちろんです。高宮くんは大事なパートナーですからね」

 三島に言われた、彼女にとっては大切で特別な人、という言葉がそうさせたのか。啓志の口から、パートナーという言葉がこぼれ落ちた。
 恐らく本人としては、観察力のある大人が言うのだからそう言った方が良いという、単純な思いなのだろう。
 しかし、そんなことを言われていたとは知らない夕姫は突然の出来事に驚いていた。やがて真っ赤にした顔で尋ねる。

「あの、それはつまり……プロポーズ……?」

 どうしてそうなるのか。色々な順序を飛び越えて事あるごとに結婚をチラつかせようとするのは、アイドルに対するオタクと相場は決まっているが夕姫も意外とその傾向があるのかもしれない。
 夕姫の言葉を受けて啓志は咳払いをし、右手を差し出して言った。

「まずは、お友達からお願いします」
「え!? パートナーなのにまだお友達以下だったんですか?」
「そうですねぇ。今の発言で、ちょっと……」
「なんでよー!」

 見事に答えを保留された夕姫の声が虚しく響き渡った。もっとも、啓志からしてみると、人生における割と重要な解答を病院の駐車場でするわけにもいかないという思いもあるだろう。
 啓志の保留(てれかくし)は夕姫にとっては不本意だったが、それは啓志にとっても同じだった、ということだ。

「ほら、行きますよ」
「……はい」

 今から居住スペースを借りようとしているとは思えないような物言いで、啓志は夕姫に移動を促した。夕姫は、自分が付いていかなくてもそもそも自分の両親が許可を出していたことを思い出したのだろう。渋々といった雰囲気で後ろに付いて歩き出した。
 啓志たちがそんなやりとりをしていた頃。米国の地に降り立っていた一人の男性が、タクシーを捕まえて宿泊予定のホテルの名を告げた。

「さて、万事うまく行っていると良いがっていうか、実際もうどうでもいいんだけどな」

 男はそう呟くと、黒い革のシートにしっかり体重をかけた。運転手の言葉にも流暢な英語で答えた男は、都会の街並みを眺めながら一つあくびをした。まだまだ時差ぼけが抜けないようである。

◆◆◆◆

 宮越と三島はというと、昨日も訪れていた柏野基にようやく到着しようとしていた。運転は今回も途中で交代する方式で、今は三島が運転していた。
 宮越は直に到着する旨を伝えるため、事前にアポをとっていた所轄の一刑事に連絡を入れていた。一文字ずつ声に出しながらフリック入力している。

「それ、電話じゃだめ、なんですよね」
「だな。特にあまり知らない相手との連絡はメールに限る。言った言ってないとかの不毛な言い争いは回避できるし、何より盗聴されないのが良いんだ」
「まぁ、メールも自動転送の恐れがありますし、宮越さんのメールの打ち方だと、この車が盗聴されていたら全部筒抜けなんですけどね」
「どの方法にも、一長一短があってだな」
「えぇ、その一短を声を出すことによって二短にしておられると言ってるんですよねぇ」
「ぐぬぬ……」

 完全に言い包められた宮越。本日も清々しいまでの敗北からスタートである。言い返されることがなくなって上機嫌の三島に、反撃してやろうとでも思ったのだろうか、宮越は昨日の話を持ち出してみる。

「そういえば、探偵はどうだった?」
「いや、いい子ですよね。養ってあげたいくらいですよ」
「養って?」
「あ、すみません。心の声が少々……」 

 養いたい発言に目を丸くする宮越だったが、三島にとっては通常運転。昨日の啓志の受け答えに余程心を動かされたのか、思っていたことがつい、放たれてしまったらしい。
 そんなやりとりの最中、宮越のスマホに着信を知らせる画面が表示され、振動が手に伝わった。名前を見て、宮越は急いで通話を始める。

「どうした?」
『宮越。すまない、対象を見失った』
「何だって!?」

 届いたのは、啓一を監視していた宮越のチームにとって最悪の知らせ。宮越の動揺は三島にも伝わったようで、チラチラと宮越を見ながら固唾を飲む。ハンドルを握る場所を細かく変えたり、左手で左ももを軽く叩いたりして自分を落ち着けようとしている。

「とりあえず、一旦集まろう。前も利用した喫茶店で良いか?」
『了解した。では』

 電話を切った宮越は拳を高く掲げたが、やがて深い呼吸と共にゆっくり降ろした。予測される音と衝撃に身構えていた三島は胸をなでおろし、行き先を喫茶店に変更した。

「なぁ、三島くん。若竹は何をすると思う?」「わかりませんが、恐らく簡単に行動を起こすことはしないでしょう。一度集まるのは良いことだと思います。……私はまだどんな方々とチームを組んでいるのか知らないので」

 配属されて三日しか経っていないのに、先輩達がとんでもない失態を晒してくれた。公には情報が出されていない状態で捜査をする公安にとって、対象を見失うというのは何を置いてもやってはいけないこと。
 命を懸ける前に、クビの懸かる状況が目の前に突如として現れてしまった。

「初めて会うのがミスの後ってのはあいつら……」
「大丈夫ですよ。全然許しませんから」
「許さないってお前なぁ……」
「許さないから、ちゃんと結果で取り戻してもらわないといけません」

 三島の言葉に宮越は『あぁ』と呟いた。もちろんこれからいくら早く啓一を見つけたとしても、見失った事実が消えるわけではない。失敗には誰かが責任を負わなければならない。そしてそれは、

「どうせ減給とかで済むって」
「無事に見つけられて、かつ、何も起きなければのことですけどね」

 自身のことなのに楽天的と言えるほど妙に楽観的な宮越に、三島が釘を刺した。それもそうだ。これで何かが起こったら、それこそ宮越一人の責任で済む話ではない。
 チームの存在や誇りに懸けて啓一を見つけ出さなければならなかった。釘を刺された本人はそれでもなお、半音ずれる程度の絶妙に下手な鼻歌を車内に響かせている。
 二人の車が喫茶店に到着したのは五分後。レンガ風のタイルと白い塗料で覆われた外壁に巻き付いた蔓が枯れていた。夏であれば青々としたものが甲子園球場のように一面に広がっているのだろう。丸型のFIX窓は、喫茶店らしい小洒落た雰囲気を演出している。

「四人掛けの席ってありますか?」

 入り口から見渡せる程度、二十席もないこじんまりとした店に入るや否や、宮越はカウンターの隅で丸いすに座っている店主に声をかけた。立派な口髭を蓄えた店主は、掛けていた黒縁の眼鏡を外した手で一番奥の席を指した。

「おや、今日は女性も一緒かい?」
「あぁ、部署移動で相棒が代わってね」

 店主に目を向けられた三島はゆっくり会釈をして応えた。店主もその姿に満足そうに笑みを浮かべる。

「しっかりしてそうな後輩じゃないか」
「私の若い頃を見ているようです」
「ハハハ、それは流石に失礼だな」
「あ、やっぱりそうですか?」

 座席は黙って指示していた割に会話を始めると楽しげな二人に置いてけぼりを食らう三島。『あのぉ……』と声を出すと、気付いた宮越が店主の肩を叩きながら言った。

「この人は元上司の中川さん。突然退職したと思ったら喫茶店を始めたっていうもんだからびっくりしたけど、繁盛してるみたいで良かった」
「どこが繁盛してるんだ。節穴め」

 閑古鳥が鳴いている店内に、宮越の笑い声だけが響く。彼の冗談がいつも通り人の心を騒つかせたところで、二人の来店者があった。店主は首を傾げて尋ねる。

「ん、お前らが集まるってことは何か緊急事態なのか?」
「え、えぇ……」
「ターゲットを見失ったんですよ。こいつら」「おい!」

 宮越の言葉に口を挟んだのは、電話を掛けた石井 高志(いしい たかし)。宮越の同期だが、公安の中でも性格の荒さが少々問題になることの多い武闘派の刑事だった。宮越は、そんな石井に詰め寄り言った。

「まずは、『すみませんでした』だろ? 後輩にもちゃんと謝れ」
「……すまなかった」

 下げたかどうか怪しい頭を上げ、石井が正面を向くと、頬に風を感じた。三島が右手を思い切り振り、寸前で止めたからだ。
 三島は石井を見ることなく、後ろに立っていたもう一人に声をかける。

「素直に謝罪もできない人が一緒だと、大変ですね。私は三島陽凪と申します。あなたは?」
「あ、藤堂 昌幸(とうどう まさゆき)と申します。先輩はこれでも良いところがある……はずであります」
「そうですか。見つかる前に皆のクビが飛ばないように頑張りましょうね」

 にっこり笑う三島に、藤堂は引き攣った愛想笑いで返した。目の前であんなことをされたのだから、仕方がない。振り返って席に向かう三島に、石井が声をかけようとするが、やめた。三島がすれ違いざまに、次は止めないから、と言ったからだった。

「まぁまぁ、まずは落ち着いて次の手を考えよう。それに、ここは喧嘩をする場所じゃないぞ」

 一触即発の雰囲気を感じ取った店主が仲裁に入る。店主の声にハッとした三島は、ペコペコと頭を下げて謝罪した。店主はその姿を見て宥め、とにかく席に座るように四人を促した。

「珈琲でも飲んで、落ち着きなさい。今日はコロンビアだ」
「砂糖ください」
「甘ったれるな。まずは素材を味わいなさい」
「なんですか。ハラスメントってやつですか?」

 三島の抗議に最初は否定的だった店主も、面倒臭いことを言い始めたので折れてしまった。カウンターに置いてあった角砂糖の入った黒い陶器を差し出す。持ち手の両側に羽をモチーフにしたようなデザインが施されていて、とても元警察の髭を生やしたおじさんのセンスとは思えない。

「この容器可愛いですね。中川さんのチョイスでありますか?」

 容器に反応したのは藤堂だった。角砂糖を三つ放り込んだ三島から譲り受け、持ち上げて眺めている。

「それは……亡くなった妻のお気に入りでね。もう十五年になるが、まだ手放せないんだ」
「そうでありますか。そんな大事な物だったとは」
「いやいや、良いんだ。高価なわけでもないし、割れたりしたらそれまでってことだよ」

 店主はそう言って髭を撫で、ニッと笑った。そのやりとりを聞いていた宮越は、ジッと店主を見てから机に両肘を立て、手を顔の前に組んだ状態で呟くように話す。

「あの事件から、もうそんなに経つんですね」
「できれば、思い出したくないな……」
「あの事件?」

 三島と藤堂はまだ小さい頃の事件のこと。他の三人には苦く、苦しい物として心に引っ掛かって消えてくれない記憶。その後の今日に至るまで、各々が新たに経験したことや感じたことが積み重なって、それはより大きな痛みになっていた。
 時間が解決してくれないことも、この世界にはいくらでも存在する。

「三島くんも藤堂くんも、もう少し経験を積んでからまたおいで。その時に話してあげよう」

 店主は、腕を組みながら若者二人にそう言ってお茶を濁した。そして、こう付け加えた。

「だから自分が死んでも、なんて考えは捨てなさい。遺される者のことを考えたら、私はそう言いたい。勿論、特別な仕事への君達の覚悟を鈍らせたいわけではないが、どうしても命を張らなくてはならないと完全に判断できない時は、生きることを選んで欲しい」
「ありがとうございます。善処します」
「肝に銘じます」

 二人揃って店主に敬礼し、言葉を返す。ただ、その定型文のような二人の返事に、その場にいた三人はやれやれと肩をすくめた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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