『探偵と助手の事件簿~街の通り魔と消えた教師』第五話


 慌てて準備をする夕姫。急いではいたが左後髪の寝癖だけはどうしても許せず、整えているうちに更に時間が経過してしまっていた。
 そこに飛び込んでくるスマホの通知音。靴下を履いているタイミングだったので、制服の右ポケットから淡いピンク色のそれを机の上に雑に取り出したが、差出人の名前を見て思わず、あっ、と声が出る。そもそも雑に取り出した上に慌てたものだから、机から滑り落ちそうになるスマホ。ディスプレイとベゼルの間のギリギリの所で見事に掴み、事なきを得た。

「危なかったー。……先輩に早く返信しないと」

 送り主は啓志だった。簡単な挨拶と共に、もし校長に聴けたら聴いて欲しいことが書かれている。すぐに文字を打ち始める夕姫。
 左足で中途半端に履かれた靴下にプリントされた熊のキャラクターが何だか苦しそうで、こっちを早くしてくれよと呆れているようにも見えてきてしまう。
 そんなことはお構いなしに啓志の約二倍の長さの文章で返してご満悦な彼女に、誰か伝えてほしい。あなた寝坊したんですよ、と。

「『園芸のために他県から人を呼びましたか?』か。聴けたらいいなぁ」

 夕姫が自身のミスに再び気付いたのは、目的地に向かう電車の時刻表を見た時だった。とはいえここまでくると、もう焦っても仕方がない。
 ふん、とため息を吐くと、あくびを噛み殺しながら到着を待つ。今日はお気に入りの水色のリュックを選んできたので、多少のことなら気持ちを乱されない。二分後に来た電車内で座席に座り、ようやくツインテールを結って、いつもの夕姫が完成した。

◆◆◆◆

 夕姫にメールを送った啓志は既に電車に乗り、今日の唯一の目的地に運ばれていた。徐々に無人駅も出てきたりしている。一応調べてはきたものの、自然豊かな過疎地という印象をより鮮明にさせられる。
 老後は自然豊かな場所で過ごしたい、と言う人は多いようだが都会の便利な暮らしとの天秤で量られると後者が優位に立つ現実を、寂しげに並ぶシャッター街が見せつけていた。
 啓志が降り立ったのは、柏野基(かしのもと)と言う名前の無人駅。表にあった住所の最寄駅である。ただし、ここから五km程の徒歩が必要だ。
 隣県とはいえ鈍行での移動はやはり骨が折れる。乗り換えを挟んで二時間の道のりの終わりに、自らの固まった体を労うように伸びをしたり前屈をしたりして解していった。

「いてて……。さぁ、行きますか」

 腰に手を当てながら、自らに言い聞かせるようにして呟く。駅の敷地を出ると先ほど見えたシャッター街が広がっており、そこを抜けると左手には森や田んぼ、右手には飛び石的な間隔で民家が並んでいた。
 田んぼは既に収穫を終えており、支柱に干し台を引っ掛けて天日干しされている。秋の深まりを知らせる百舌鳥の甲高い鳴き声も聞こえてきていた。
 そこで、今日は共に来れなかった宮越の言葉を思い出す。お互いに県を跨ぐことを許さない警察と、冬に向けて縄張り争いをする野鳥。
 どこか通ずるものを感じる気もするが、きちんと縄張りが分けられることによって統率が取れたり責任がはっきりしたりする利点もあるので、一羽で戦う百舌鳥と安易に比べられるようなものでもないのかもしれない。
 そんなことを考えながら、スマホのマップを見て歩いていた。人とほとんどすれ違うこともなく目的地に近づいてきた頃。

「なんだ……。煙いな」

 焦げ臭い匂いに周囲を見回す。左手の方向から、微かだが煙が上がっているのが見えた。

「あの辺って、まさか!?」

 目的地とほぼ重なっていると思われる場所から上がった火に、啓志は走り出した。緊急通報の機能を使って、消防にも通報を入れる。
 啓志が到着した頃には、異変に気付いた数人がバケツリレーで少しでも火の勢いを抑えようとしていた。そこそこ長い距離を走ってきたために肩で息をしていた啓志も、それに加わって消防の到着を待つ。
 繰り返す中で水が靴やズボンにかかったりするが、一切目もくれず消火活動を続けて行った。
 じんわりと汗をかき始める頃、サイレンの音を響かせながら消防車が到着し、放水車によってすぐに鎮火した。

「通報してくださった方は……」

 防火服に身を包んだ大柄な男性が、バケツリレーをしていた集団に近付いてきた。帽子をとって見回し、名乗り出るのを待っている。

「あ、僕です」
「通報に初期消火のご協力、ありがとうございます」

 右手を差し出し握手を求める男性。一瞬戸惑った啓志だったが、握手に応じ会釈をした。男性は言葉を続けようとしたが、火事のあった屋内から呼ばれた。断りを入れてから帽子を被り直して屋内に入って行く。

「そういえば、この家の持ち主の方は?」
「いや、そうなんだよ。最近引っ越してきた若い兄ちゃんだったけど、あまり知らないんだよなぁ」
「まぁ、同じような年齢の者もおらんし、付き合いがないのもしょうがないわな」

 男性が屋内に入ったのを見てから啓志が情報を集めようとすると、叔父様方が口々に話し始める。これが自然豊かな場所のコミュニティーの雰囲気か、と啓志が感動しているかはわからないが、メモすることに困らないのは探偵としてはありがたい。
 ひとしきり話した後で、花柄のタオルを頭に巻いた六十代くらいの男性が啓志に話を振ってきた。

「そんで、兄ちゃんは何しにこんなところまで?」
「実は、こういう者でして……」

 ジャケットの内ポケットから銀色の名刺入れを取り出し、一枚渡した。

「へぇ! そんな若いのに探偵さんかい!? すごいねぇ」
「いやいや、まだ見習いみたいなものですが」

 頭を掻きながら珍しく謙遜する啓志。その言葉に周囲は更に褒め言葉をかけたり冷やかしたり。とにかく、打ち解けることには成功したようだ。

「それで、調査の一環でこのお宅に用事があったんですけどねぇ……」
「そいつは間が悪かったなぁ。ま、せっかく来たんだから私らに分かることは何でも聞いて帰っておくれ」

 啓志は叔父様達の優しさに恐縮しながら、では、と一つの疑問を投げかける。

「あの、ここのお宅の方にも、こんな感じでお話は?」
「あぁ、声は掛けてたよ。でも兄ちゃんみたいに返事はしてくれなかったなぁ……」
「こういうのを避けるあれだったのか、何か事情があったのかは知らねぇけどよ。無視されてるようで寂しかったぜ……」

 火事のあった家の新しい住人について尋ねると、遠い目をして答えた。決して見返りを求めているわけでなくても、声掛けを日常的に無視されるのはそれなりに堪えていたようだ。

「それにしても、何だか屋内が騒がしいですね」

 しんみりした空気を変えるために、啓志は露骨に話題を逸らす。ただ、先程呼ばれた消防士が何処かに連絡を取っている辺り、何かがあったのは間違いないようだ。その何かは、消防士の行動を見れば何となく察しは付く。

「人が、居たんでしょうか」
「まさか! 言っても全部焼けたんじゃないんだから、逃げれるだろう?」
「でも、そうじゃなかったらこんなに騒がしくなりますかねぇ?」
「まぁ、それもそう……だな」

 啓志の言葉に、叔父様たちも反論しなかった。確かに、鎮火した後の処理にしては慌ただしい様子だった。そして、その予想は残念ながら的中することになる。

「申し上げにくいのですが、一人お亡くなりになっていました。恐らく男性だと思われますが調べてみないと何とも言えません」
「えっ、あの……失礼かもしれませんが、あの程度の火事で性別の判定ができないほどに焼けていた、ということはありえるんでしょうか?」

 遺体の発見を告げる消防士に、啓志は疑問を投げかけた。消防士は少し屈んで啓志に顔を近付けてから小声で話す。

「そうなんだよ。……ちょっとおかしいとは私も思うんだ」
「ちょっと、探偵さんにだけ話すなんてズルいじゃねぇか!」

 野次に反応し、消防士は啓志を見直す。

「探偵!? 本当かい?」
「はい。今日ここに来たのも、捜査している事件のことで用事があって……」
「なるほどな。名刺か何かあれば、いただいておいても良いかな?」

 啓志は、先程も取り出した名刺入れから一枚を差し出した。消防士は両手で受け取り、放水車に戻る。少し車内を探ってから啓志の元に駆け足で帰ってきた。

「私の名刺はこれだよ。何かあればまた連絡するので、番号と名前を控えておいてもらえるかな?」

 名刺には、柏野基消防署 小鳥遊 耕太(たかなし こうた)と書かれている。

「わかりました。あの、それで……小鳥遊さん」
「どうかしたかい?」

 答えてもらえるか不安そうな面持ちな啓志を見て、小鳥遊は不思議そうに質問を促した。それでは、と呟く啓志。意を決した様子で尋ねた。

「人の他にも、何かありましたか?」
「……鋭いな、流石だよ」

 目を丸くした小鳥遊は家の出入口付近にいる一人に声をかけ、黒い小箱を持って来るように頼んだ。成人男性の手のひらに乗らなくはない位のサイズのそれは煤(すす)を被っていたとはいえ、火事場から出てきたとは思えないほど綺麗なままだった。
 持ってきてくれた消防士から小箱を受け取った小鳥遊は手のひらに乗せたまま、物体についての私見を述べる。

「おそらく耐火性や防塵性に優れた素材でできているんだろうね」
「火事があることを予期して置いた、ということでしょうか?」

 そんな物をわざわざ用意しているなんて、偶然にしてはあまりにも都合が良すぎる。啓志の質問に小鳥遊があくまでも個人的な意見だけど、と前置きして答えた。

「この箱の中身にもよると思うが、ご遺体の違和感と併せて考えるとこれはつまり……」
「殺人、ですか」
「その可能性があるっていうことだね」

 小鳥遊の言う通りまだ断定はできないし、そうするのは危険なことである。ここからは、あらゆる可能性を残しながら事実を調べ、絡み合った事情を少しずつ解いていく作業が求められる。
 先入観を持たせるために、亡くなった方を含めて意図を持った仕掛けを用意してこちらを惑わそうとすることだって少なくない。そして相手の意図を取り違えて進んだら、未解決や誤った結末を迎えることになる。
 間違えることは誰にだってある。それでも殊、事件捜査など命や人生の懸かる事柄になると、その間違いの影響は計り知れない。
 その選択は、遺された誰かの人生を踏み躙ることになるかもしれない。そこに確かに在った命に対して無礼なことになるかもしれない。力を与えられると言うことは、相応の責任を持つということだ。
 頭を下げ、誠心誠意謝罪すれば済む場合も、もちろんあるかもしれないが、一番大事なのは間違う可能性の芽を可能なだけ摘んでおくこと。その一歩として、断定を避ける必要がある。自分の持っている権利に対して、そういう責任の取り方もあるだろう。

「今からは警察が来るまで待機ということになるんだけど、若竹くんはどうする?」
「そうですね、この箱の中って見たりはできないんですか?」

 指差し質問する啓志に対し、持ってきた消防士は苦笑いを浮かべる。小鳥遊は小箱を返しながら、その意図をこう説明した。

「あぁ、これね。こっそり見せれたら良かったんだけど、どうやら正攻法では開かないみたいなんだ」
「壊さないと、ってことなんですね」

 小鳥遊は、そういうこと、と答え箱を持って行かせた。残念そうな啓志に申し訳なさそうな顔をするが、こればかりは仕方がない。
 もし見せるために箱を壊せば証拠隠滅等罪にかかる可能性があり、もしそうでなくても何処の馬の骨ともわからない探偵にそんなことをしたら署内での処分は免れない。
 啓志もそういった事情を汲み取ったらしく、後方にまだ残っていた叔父様方を見てから、

「あちらの方々とお話ししながら待つことにします。地元の協力してくださっている刑事さんにも、このことは報告しないといけませんし」

 と答えた。そして、通報者として警察に呼び出されたらすぐに戻ってくることを約束して、現場を後にした。

『もしもし、探偵。調子はどうだ?』
「あ、宮越さん。ちょうど電話しようと思ってました」
『なんだよそれ、好き同士ってか?』

 携帯を手にしたまさにその時、宮越から着信が入り応答した。宮越のノリの良さが悪い方向に転がったのを無視し、啓志は話を進める。

「例の住所に行ってみました。でも、ご本人にはお会いできませんでした。その……」

 言葉を詰まらせる啓志に、宮越はすぐには何も言わない。先ほどまでは必要に応じて話してはいたが、初めて遭遇したであろう人の命の終わった現場に言葉を詰まらせるのも無理はない。
 そういう場面に何度も立ち会ってきた宮越でも寝付きが悪くなったり、食事が喉を通らなかったり。ちょっとした不調は今でも訪れることがあるのだから、少年の心に掛かる負荷は計り知れない。

『考えすぎるなよ。もっと早く行っていれば助かっていたかも知れない。なんて考えているとしたら、それは傲慢に他ならん。探偵は現実的に考えて最善のタイミングでそこに向かったんだ。未来を知ってから行う都合のいい妄想は、しないことだ』
「そうでしょうか。……いや、そうですね。すみません。被害者がどんな方かはわかりませんが、なんだか悔しくて……」
『良い。想うのはいいんだ。亡くなった方の気持ちを想うのは大事なことだからな』

 捜査を感情任せにするのはナンセンスだが、人のことを想うのは難航した時に頑張り続けるこれ以上ない原動力になる。
 宮越自身、そうやって乗り越えてきた事件は数知れず。とはいえ、若い頃は被害者のことを想うあまり捕まえた犯人におまけの打撃を幾らか加えていたらしいのだが。
 この話に説得力が無くなるだけなので、そのエピソードはつまびらかにせず、そっとしておいてあげよう。

『我々にできることは、真実を捉えて犯人に罪を償う機会を作ること。それだけだ。まぁ、なんだ。一緒に頑張るぞ、探偵! できることはなんでも言ってくれ』
「ありがとうございます。あの、それで事件のあった住所を共有しておきたいんですが」

 話しながら表のコピーを取り出す啓志。えぇと、と呟くと。

「その必要はない」

 携帯と、さらに他の場所からも宮越の声が聞こえた。幻聴か、ちょっと気を張りすぎているのが思ったより体にダメージを与えていたのだろうかと心配した啓志が念のため辺りを見回すと、

「来ちゃった」

 と言いながら、いつの間にか到着していた乗用車の助手席から降り立つ宮越の姿があった。宮越の発言を軽くスルーしてしまうレベルで驚く啓志だったが、なぜか宮越の方が不服そうに咳払いをして話を続ける。

「今日は、こっちの役職で来たんだ」
「……! 公安? 宮越さんが、ですか?」
「薪条南署所属というのは便宜上与えられた仮の姿だ。その方が、色々と動きやすいからな」

 差し出された名刺には公安部と、確かに書いてあった。公安部。他部署との情報の共有を行わない閉ざされた組織に、宮越がいるらしい。
 少し想像し辛いかも知れないが本人の至って真面目な様子を見る限りそれが事実のようだ。通常、所属が複数与えられることはないが、そこにも、何か上層部の意図があるのだろう。
 しかし、成績優秀なものにしか配属のチャンスがない部署に宮越がいたとは、以前の諮問会議にかけられたという話はなんだったのだろうか。そんなことを啓志が考えていると、宮越が耳を貸してくれという素振りを見せた。

「実は、調べている対象がこちらに来ていてな。誰とは言えんのだが」
「もちろん聞きませんよ。怖いですもん」

 公安の調査対象なんていう超極秘情報を子供にさらっと押し付けようとする宮越。全く、危なっかしくて怖すぎる。もちろん、そんなことをしたら諮問会議どころではなくなるので実行はしないと思うが。

「そこで調査しているところに、何処かに走っていく探偵を見かけてな。ここに辿り着いたというわけだ。立場上、すぐに動けなかったことは申し訳ない」
「そんなことより、最初の『来ちゃった』についての謝罪を要求したいところですね」
「えぇ……。今ごろそれ?」

 時間を置いて行うイジり。そんなことを蒸し返す心理的な余裕があるのなら、啓志はもう大丈夫なのかもしれない。宮越も、これ以上にないほどに空気を冷ましてしまった自覚はあったようで、要求されたことではなく時差があったことに不満を述べた。

「いや、言われた時はそんなのを相手する余裕なかったのでね」
「『そんなの』!? 言うねぇ探偵」
「ちょっと、うるさいですよ。宮越さん」

 高校生に注意される公安部の刑事。絶対に何かがおかしい。周りに二人だけ残っていた地元の叔父様方も、漫才やってるのかい? と失笑していた。

「とにかく、今は地元の警察の方が来られるまでは何もできません。謎の箱の開封待ちですね」
「謎の箱?」
「耐火性のある黒い小箱があったのですが破壊しないと開封できないらしく、中身の確認ができていないんですよ」

 啓志の話を聞いて、なるほど、と呟いた宮越は何処かに電話をかけ始めた。
 その間に、啓志は叔父様二人に質問を始める。

「被害者の方の特徴って、何かありますか?」
「さぁ。普通の人、だったよなぁ?」
「うん、そうだなぁ。髪が短くて特に派手な印象はないよなぁ」
「訛りとかも全然ですか?」
「それはわかんねぇよ。私ら話することなかったから」

 あぁ、と先ほどの会話を思い起こすように頷く。被害者は何を考えてこの地に移り、そして生きていたのだろう。田舎に移り住んでも、孤立してしまうことが原因で元の場所に戻る人は多い。
 しかし、ここは新たな住人にも、ふらっと来たような人にも壁を作ることなく接してくれる。良きスローライフが送れるような気が、啓志にはしていた。しかし、被害者はそれを嫌った。
 何故だろうか。もし逆にそういった壁を必要としていた人だとしたら……?
 田舎で人目に付かず、近所の人にも特に知られない。スローライフに夢を見すぎた人が挫折する原因となる、そんな環境を、生活を。
 もし被害者が望んでいたとしたら、そこには一体どんな理由があるだろうか。

「借金から逃げた人、家出人、極度の人見知り。……罪を犯して逃げている人」
「どれも可能性としてはアリだな」

 幾らか例を挙げて考えていると、電話から戻った宮越が言葉を挟んだ。電話からは思った成果が挙げられなかったようで、少し不服そうな顔をしている。そして、啓志に顔を寄せると、

「一旦ここから離れるぞ」
「えっ、でもまだ聴取が」
「それは良いから、行くぞ!」

 突然、移動を急かされた。通報者としての聴取をまだされていないが、宮越が言うにはそれも必要ないらしい。
 十分に事態を飲み込むことができないまま、宮越の乗ってきた乗用車に押し込まれた。窓外の叔父様方に手を振りながら、その場から離れていく。向こうも、また来いよー、などと言いながら両手をブンブン振っていた。

◆◆◆◆

 車内。啓志の視線は運転手に向けられていた。肩下まである綺麗な黒髪に大きな瞳が余程目を引いたらしい。少しの間それに気付かなかった運転手は、バックミラー越しに啓志に話しかけた。

「ご挨拶遅れました。私、三島 陽凪(みしま ひな)と申します。昨日より、宮越先輩付きで公安部所属を拝任いたしました。若竹様におかれましては、ふぎゅっ!」
「そんなしっかりした挨拶は後でいいんだよ。全く、すまんな探偵。俺みたいに融通が効く奴じゃないけど、悪い奴じゃないから」
「御言葉ですが、宮越先輩にはもう少し原理原則の徹底が必要です。昨日も被疑者と私を置いて行きましたが、本来は一対一はダメなんですよ」
「あれはまだ被疑者じゃないって何度も言ってるだろ」

 硬い挨拶を軽いチョップで止められ、何とも言えない声を発する三島。それでもしっかり言い返すあたり、パッと見てまだまだ警察になって数年しか経っていないように思える見た目とは裏腹に仕事ができる人、ということなのだろう。
 言いたかったツッコミどころをすぐに抑えられたからか。一瞬前のめりになった啓志は、再び後部座席に深く座りやがて眠ってしまった。

「寝顔はまだまだ高校生のそれ、ですね」
「休める時に休ませてやろう。これから、彼にとっても大変なことがあるんだ」
「教えなくていいんですか?」
「探偵なら自力で辿り着く。一日も経てばきっと掴む。それに、自分の目や思考で到達しないと納得できないだろう。こんなこと」
「それは、そうですが……」

 この会話を最後に、沈黙が訪れた。目を瞑る宮越、眠っている啓志。そして、たまにバックミラー越しに啓志を見ては心配そうな表情をする三島。三人を乗せた車は、薪条の地に向かってひたすら走って行った。
 啓志たちが戻って来ようとしていた夕方。夕姫はまだ目を覚さない校長を待ってる。これで二日。夕姫はすでに時間を潰す術を失い、ボーッと窓の外を眺めている。
 明日も来ることになったら絶対一階のコンビニで本や雑誌を買い込むと決めていたのだが、

「お嬢さん! お嬢さん! 目を覚まされましたよ!」
「えっ! 本当ですか!? すぐ行きます!」

 どうやらその必要は無くなったようだ。夕姫が待っていることを知ってくれていた看護師の女性が、夕姫を呼びに来てくれた。
 慌てて立ち上がった際に膝に置いていた水色のリュックを落としそうになったが、どうにか肩掛け部分を掴んで衝撃を与えることは免れた。とはいえ、中身は飲み掛けのペットボトルとお昼に食べたおにぎりの包装が入っているだけなのだが。
 流石に病院内を走るわけにはいかないので、早歩きにはなってしまったが、急いで校長のいる病室に向かった。入り口で看護師が待ってくれている。
 どうやらしっかり覚醒するのを待ってから呼んでくれたようで、部屋に入った夕姫を見た校長は少し不思議そうに見ながらも低い声で挨拶をしてきた。

「どうも、うちの学校の子かな? 探偵さんの助手さん。お花も頂いたと聞いたよ。わざわざありがとう」
「あ、いえ。とんでもないです」
「それで、私に聞きたいことがあるとか?」

 目覚めたばかりとは思えない、しっかりした思考と落ち着いた話ぶり。学校の長になる者は経験がそうさせるのか、いわゆる胆力が違うようだ。『校長』とは何かと縁がある夕姫。三年前の出来事がフラッシュバックすることはないだろうか。

「あの、では面会時間も僅かなので単刀直入にお伺いします」
「いいよ。何でも聞いてくれ」
「校長先生の襲われた日に、県外から園芸のために来校された方がおられました。ご存知でしたか?」

 夕姫の質問に校長は息を一つ吐き、腕を組んだ。答えてもらえない。夕姫がそう感じた瞬間。

「校長! あなたやったわね!」

 静粛性の高いはずのドアがガタンと音を立てて開き、苦情確定レベルの大声で真下が入ってきた。室内にいた二人は目を丸くして座っている。

「真下先生!? それに……?」

 真下の後ろに立っていたのは事務員の高橋。恐らく本来は彼が真下のように登場しなければならない立場だったのだが、性格上それは難しかったようだ。
 むしろ真下の行動について、入り口にいた看護師にペコペコしながら謝罪していた。黒地に白と赤のストライプの入ったハンカチを持っておでこを拭いている姿は可哀想にも思えてくる。

「なんだね、ここは病院だぞ」

 少しの間は呆気に取られていた校長だが、立場上教員に注意してみた。しかし、真下はその言葉に臆することなく話を続ける。

「2020年9月15日。同年10月20日。会計に不正があることが明らかになりました。動かされた額は合わせて約500万円。校長、あなたがやったことはわかっているんです。でも、今はそんなことより……」

 真下は校長の元に詰め寄り、片足を見舞い用のパイプ丸椅子に足を掛けて言った。

「二件とも、松田にやらせているわね。これってどういうことなのかしら?」

 今、行方が分からなくなっている松田は、どうやら会計の不正に関わっていたらしい。真下曰く校長に指示された上でのことだったらしいが、本人に聞けない以上校長に詰問するしかないようだった。

 校長は、今度は深く溜め息を吐き、ベッドにもたれた。真下の方を見る事なく、吐き捨てるように答える。

「そうだったか……」
「そうだったか? なにそれ、私は知らなかったとでも」
「知らないな」
「なっ!? この期に及んで往生際の悪いおじさん!」

 知らぬ存ぜぬを貫こうと決めたおじさん、基、校長は、看護師を手招きして夕姫を含めた三人を帰らせるように求めた。罵詈雑言を投げ続ける真下を、校長は不適な笑みを浮かべて見送った。
 病院を出た三人。真下は頭に血が昇ってしまったことをひたすら謝ったが、二人は苦笑して宥める。

「それより、不正な会計って何のことですか?」「あぁ、それはね……、あ、私。事務員の高橋と言います」

 ここは真下に代わって高橋が夕姫に説明を始めた。事務室を飛び出した後、教頭はすぐに県への連絡を快諾し高橋が電話をかけていた。
 そこで話されたのは、その日付の会計報告が、なぜか薪条南高校からメールでも送られてきていたこと。さらに、いつか必要な時がくるという文面も送られてきており、当時学校に連絡を入れて会計担当にも意図を確認したが、とにかく保存しておいてほしいと言われたこと。そして、

「会計担当は、松田と名乗っていたことを、県の当時の担当者が教えてくれました」
「そうだったんですね。それで、校長の関与っていうのは?」

 夕姫の疑問に真下が割って説明に入る。

「承認の印鑑を押すのは校長の仕事なの。それも、書類を担当者が直接持ってきて校長に報告した上で印鑑を押してもらって、その足で事務員に渡すっていう作業手順なの。超めんどくさくて、今思い出しても過去に不正した事務員が恨めしいわ。……と言うわけで、校長が知らないわけがないのよ」 

 かなり私怨が入っている気もするが、それだけ面倒な仕事だったのだろう。高橋は自身の責任ではないとはいえ、事務員として一言謝った。それを受けて真下は高橋の背中を叩き、

「あんたは悪くないんだから、気にしないことよ」

 と言って、ガハハと笑った。情緒が不安定すぎて付いていけないのはきっと本人以外の誰のせいでもない。それでも彼女の元に人が集まるのは、圧倒的な切り替えの早さがあるからだろう。
 人を気遣っていることを本人にわかる仕方で伝えてくれることに感謝している人も多いので、忙しい感情の変化の『怒』の部分を見せても誰も離れていかない。そういう人徳のようなものが彼女にはあった。

「は、はぁ。恐縮です」

 高橋も、すっかり真下のペースに巻き込まれるのが上手くなっている。もはや巻き込まれすぎて考えるのをやめてしまった、とも言えるかもしれないが。今は真下の言葉に右手で後頭部を触りながら笑って見せた。

「とりあえず、今のお話は先輩に報告しても大丈夫ですか?」
「えぇ、構わないわ。というか、もう私たちは行けないだろうから、申し訳ないけど後はよろしくねって伝えてもらえる?」

 夕姫は、もう帰らなければならない時間が迫ってきているため、この場の話をまとめ始めた。それに答えた真下は、啓志に様々なことを押し付ける形になったことを申し訳なさそうにしている。病室で椅子に足を掛ける場面さえなければ言葉をそのまま飲み込めたのに。

「もちろんです。先輩ならきっとやってくれます」
「高宮さんと若竹くんってさ、信頼しあってるって感じがあっていいよね。羨ましいよ」
「えっ!? そんなことないですよ! もう、高橋さん!」
「ゔっ!」

 夕姫が照れ隠しに出した手は、見事に高橋の鳩尾に入る掌底になってしまう。駐車場には高橋の悲痛な声が小さく漏れた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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