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私がソフトウェアエンジニアという天職に巡り会うまで

はじめに

今や日本も令和の時代となり、昭和生まれの私もだいぶん歳を重ねてしまいました。

こんな年齢になると、ふと、昔を振り返って人生を整理してみたくなる時があります。

子供の頃は大工になりたかった

時は遡り・・・私が小学6年生だった頃。
その当時、私の将来の夢は「大工さん」になること。学年文集にはっきりと、そう書かれています。

私の住んでいた実家の隣家に大工さんがいて、その人はフリーの職人さんとして働いていました。家の前には小さな空き地があり、そこで木の柱に丁寧にかんなを掛ける職人さんの仕事を、日がな一日眺めていた事もあります。

自分も大人になったら、手に職をもった職人さんになりたいと思っていました。学校でも図工の時間が大好きだったし、家に帰ってくると、近所の文房具屋にいって厚手の画用紙を買ってきて、思いつくままのアイデアで工作をして遊んでいました。

そんな「モノを作るのが大好きな」小学生だった私にある日、衝撃的な出会いがあります。

コンピューターとの邂逅

当時の私の親友だった稲林くん(仮名)は、小学生にしてはちょっとおませで新しいモノ好きな子で、特に世の中のテクノロジーの動きに敏感でした。

今思い出すと、どんな小学生だよ、と思いますが、そんな彼がふと「たぁぼまる、ぴゅう太って知ってるか?」と語り始めます。

もちろん、知りません。

「何それ?」と余り興味もなく聞き返した記憶が残っています。しかし、彼はとんでもない事を言い出します。

「なんかさ、その玩具は、ゲームを自分で作ることが出来るらしいよ。それって凄くない?」

え?と思いましたね。今となっては、そんなこと珍しくもないでしょう。これだけコンピューターが発達した時代です。

この時代感覚は、説明するのもちょっと難しいものがありますが、大前提として「誰もコンピューターを知らない時代があった」という事だけ知っておいてください。この前提はたいへん重要です。

ちょうどゲームセンターというものが出来て、コンピューターゲームという新しい娯楽が登場して、若者たちが熱狂し始めていた時代です。

今と違って、ゲームセンターには窓に暗幕が張られ、外からは怪しい雰囲気のボロ小屋にしか見えない時代であり、そこは不良の溜まり場であり、ゲームセンターに行く姿を近所のおばちゃんに見られてしまうと、親に密告され、家に帰ってからこっぴどく叱られる、という時代。

それでも、そこには見たことのない娯楽があり、私は夢中になっていました。

そんなとき、「自分でゲームを作ることが出来る」というのは、まさに夢のキーワード。稲林くんと私は自転車をこぎながら、夢中で「ぴゅう太」なる玩具について語りあいました。

私にとって初めてのコンピューターとの邂逅です。

ぴゅう太は1982年にトミーから発売されたゲームコンピューターです。日本語によるプログラミング言語の機能が搭載されていました。誰でも簡単にプログラミングができる、というキャッチーなフレーズに魅了されました。誤解を恐れずに言えば、今でいうScratchみたいなものでしょう。ただ、値段が6万ほどと高かったため、小学生では手が出せませんでした。

とんでもないモノに出会ってしまう

当時の私にとっては、「高価な玩具」であるぴゅう太は到底手が届かない高値の華でした。

しかし、私が中学1年になる頃には、コンピューターはもの凄い勢いで周囲の友達の間に知られ初めていきます。

学校にいくと、ASCIIという分厚いコンピューター雑誌を読んでいる同級生の周りには、自然と人集りができていました。皆が未知なるコンピューターに興味深々。当時のコンピューターは高価でしたが中古の型落ち機種であれば、なんとか入手できそうな金額で、私は真剣にコンピューターの購入を考え始めます。

そんなとき、私にとって第二の衝撃が訪れます。
竹中くん(仮名)という同じ部活仲間の友人が当時最新鋭ともいえるNECのPC-8001という機種を所有しており、コンピューターゲームで遊んでいるというのです!

ゲームセンターのゲームしか知らない私にとって、それは未知なる遭遇です。

ちなみに、皆さんが良く知るRPGのドラクエは、これより三年後に発売されます。つまり、この時点ではRPGを知るひとは殆どいません。そもそもコンピューターゲームという概念が良く分からない時代でした。

これはもう、竹中くんの家に遊びにいくしかないでしょ!という事でコンピューターに強い関心を持つ友人たちが5~6人集まり、遠慮なく竹中くんの自宅に向かいます。

そこで、私はとんでもないゲームに出会います。それは「信長の野望」という歴史シミュレーションゲームでした。

今となっては、めちゃめちゃ進化しているシミュレーションゲームも、当時は誰も知らないジャンルです。

この感激をなんと説明すれば良いのか、それはコンピューターが「意志をもっている」と感じたこと、ではないかと思います。コンピューターは、なにか人間のように思考することが出来て、それはプログラミング言語というコンピューター専用の言語によって作られている。

今でいうAI。もっとも当時は大変チープなもので学術的にはAIとは言えないでしょう。でも私が感じた概念としてはまさにそう。コンピューターは人間のように思考できる。これは私にとって天地がひっくり返るほどの衝撃でした。

私は、まったく新しい時代の始まりを予感していました。このコンピューターがあれば、自分は無限の可能性をもったクリエイターになれる、と思いました。どこまで進化するか想像もつかない。

中学1年だった当時、私は感動と興奮をもってコンピューターとの邂逅を果たしました。

この瞬間、私の未来は半ば決まったと言っても過言ではないでしょう。

その日は、どうやって家まで帰ったか良く覚えておらず、さながら夢遊病のようにブツブツと何事かを呟きながら帰宅したという感覚だけが、今も心に残っています。

家に帰ってからも興奮が収まらず、夜、なかなか寝付けなかった事を覚えています。

今、振り返ってみると

それから三十年以上の歳月が流れ、私はソフトウェア開発者としてコンピューターの世界に関わっています。そして趣味としても、随分長い時間をプログラミングに費やしてきました。ただ、ひたすら楽しかった。

幼なじみの友人である橋下くん(仮名)は、しみじみと私に言います。

「お前がコンピューターに出会ってなければ、今頃、お前はどうしようもないダメ人間だったろう」

なる程、確かに返す言葉もない。

「でもさ、お前は幸運な奴だよ。人生を賭けられると思うほどの仕事に出会えたんだから。」

本当にその通りで、まさに人生そのものといえる天職に巡り会えたことは、幸運でしたし、そのことに感謝しています。

Twitter:
https://twitter.com/turbomaru_hiro

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