私が尊敬する上司の話
はじめに
かつての私の上司である広川さん(仮)の話をしたいと思います。
ソフトウェアエンジニアとして私を育ててくれた恩師であり、そして私にとっては職場の父のような存在でした。
年齢は私の一回りちょい上で、それほど歳が離れているわけでもありませんでしたが、大きな身体とガッチリした体格で見た目にも頼りがいのある雰囲気をもっていました。
けれども、そんな広川さんは、まだ50代という若さで早逝してしまいました。
今は会いたくても、もう会うことは出来ないのです。
でも、私は迷った時があると、なんだか広川さんの事を思い出します。不思議と背中を押してくれるような気がするのです。
一瞬で好きになってしまった
もう随分昔の事になりますが、プロジェクトの開発が佳境を迎えていたある日。
まだ若かった私は、残業につぐ残業による肉体的な疲労に加え、当時の先輩である鷹里さん(仮)が私を目の敵にして嫌っており、精神的にもホトホトまいっていました。
プロジェクトは絵に書いたようなデスマーチ。
手前味噌ながら、私は自分が担当していたサブシステムは殆ど完璧に仕上げていましたが、他のチームの担当区域が目も当てられない状況であり、私も駆り出されて、他チームのプログラムを懸命に修正していました。
いや、あれは修正というレベルではなく、ほぼフルスクラッチといえるレベルで、ほとんどコードを書き直していました。
ソースコードの中にコメントが埋め込まれており
“後で○○さんに仕様を確認する”
というコメントを見つけた時は、目眩を覚えました。システムテストのフェーズだぞ。
そんな状況でソースコードを一から書き直す私も常識はずれな気がしますが、穴だらけのコードは、むしろ一から作り直した方が速い場合もあります。
上司である広川さんは、プロジェクトリーダーとして開発全体を指揮していましたが、彼の疲労は明らかでした。
計画では顧客の現場導入の教育がはじまるフェーズであり、本来は多少の不具合はあっても、あらかたはシステムが動いてないといけない段階。
当時の広川さんは頭の回転か速く、判断も的確で素早く、頼りがいのある上司でした。体力もあり、精力的に仕事を続けていました。
しかしながら、ここに至って体調も優れない状況となり、食事も食べずに休憩時間はソファーで横になって少しでも休む、という有り様でした。
そんな中、私もまた懸命になってプログラムを作り続けていましたが、限界が近づいていました。
朝、家から会社に行くために身支度をしていた時にネクタイを締めながら、フゥ、と意識が遠のき倒れて30秒ほど意識が飛んだ事もあります。
その時は手足が痙攣していたそうです。
私の先輩である鷹里さんは上司である広川さんを支えるサブリーダーでしたが、私への風当たりが強く、鬼のようにタスクを私に振りこんできます。
彼が担当していたサブシステムは軒並みマトモに動作しておらず、そこを私が懸命に修正している最中であり、一体、どういう了見なのか。
やがて疲労が慢性化して、朝起きて体温を計ると38℃の熱がありました。それが1ヶ月続いていました。おそらく過労でしょう。限界でした。
それでも、鷹里さんは目一杯のタスクを私に振りこんで来ます。この人はホンマの鬼やで。
そんなある時、上司の広川さんが午後の勤務が始まってすぐに私のところに来て、「今日はもう帰っていいぞ。少し身体を休めろ」と言ってくれました。
「でも・・・鷹里さんが・・・」と私が言うと、「あいつには俺から説明しておくから大丈夫だ。」と力強く言ってくれた時は、本当に救われましたね。
広川さん自身、もう何日も昼食を食べておらず、大きな身体を小さくしてソファで横になっている姿を見ていました。
鷹里さんは、問答無用にチケット管理をするだけの人でしたし、同僚も目にクマつくりながら死線をさ迷っているため、私の異変には誰も気づいてくれず、殺伐とした開発現場のそんな中、広川さんは私を気にかけてくれ、限界だった私をカバーしてくれたのです。
その事がなにより嬉しかった。
私は、その瞬間に広川さんをいっぺんに好きになりました。
なんだか茶目っ気のある人だった
不思議な魅力のある上司でした。
その人と仕事をしていると、何故か限界まで仕事を頑張れてしまう、そんな人でした。
私が会社員として、ソフトウェアエンジニアとして、ハードな仕事を続けながら、それでも「仕事が楽しい」と思えるようになったのは、広川さんとの出会いが大きかったと思います。
先ほどのデスマーチ・プロジェクトには後日談があります。
ようやく、開発にも一段落つき、現場への導入教育も順調に進み出して「やれやれ」というタイミングで、私も緊張の糸が緩んだのでしょうか。
突然、起きあがることが出来なくなり、自宅でまる4日間、熱にうなされて、まったく身動きが取れなくなってしまいました。
そんな四日目、まだ意識が朦朧としている最中、自宅に広川さんから電話がありました。
心配して電話してくれたのかな?となんだか嬉しくなったのですが、彼はとんでもない事を言い出します。
「本当に申しわけないが・・・明日からの土日、なんとか出勤してもらえないだろうか?」
お・・・おうぅ。
暫し、絶句し言葉がでない・・・
正直、自宅でも食事の時以外は起きあがることも困難な状況でした。
(絶対無理だ・・・)
とフラフラの頭で考えながら、しかし、私の口から出た言葉は自分でも意外な一言でした。
「分かりました」
そう瞬時に迷い無く答えていました。
不思議な事に、翌日になると起きあがる事が出来なかった私の身体には力がみなぎっていました。
人間の意志の力って凄い。
広川さんは、決して無理強いするような人ではありませんでした。なんだか茶目っ気のある人で、頼まれると引き受けてしまう。そんな人でした。
この人のために働きたい、と思える人でした。
遠き落日
尊敬してやまなかった広川さんとは20年近く一緒につかず離れずに仕事をしていました。
私は転職して新しいキャリアを歩んでいましたが、広川さんには相変わらず頭が上がりませんでした。
大病を煩っていた広川さんと久しぶりに食事をして近況を報告したとき、私はなんだか嬉しくて20代の若かった頃のように、広川さんに弾むように語りかけていました。
「お前は変わんねえな」
呆れたようにそう言った広川さんの、少し寂しそうな表情は今も忘れない。
そして、それが私と広川さんが会った最後の日となりました。
今、会うことが出来るなら、酒でも酌み交わしながら「お前はしょうがねえ奴だな」と叱ってほしい。
「お前にやってほしい仕事があるんだ」
そう言ってくれれば、私はいつでも、何を差し置いても広川さんの元に駆けつけますよ。
時が止まった広川さんの年齢へと、少しずつ、少しずつ近づいている今、それでも追いつくことはない背中を今も追い続けています。
入社して二年目、初めて一緒に仕事をしたとき、広川さんは上司ではなく先輩として。
「おい、俺は同じ事は二度言わねえからな。」
ギラリとした目で若く力の漲った広川さんは、そう私に言いましたね。
(この人、怖い人なのかな?)
ちょっと心配になった私は、まだ若くて何も分からなかった。
だけど、本当は細やかな気配りが出来る人なんだと、すぐに気づくことになるのだけど。
数年後、あなたは思い切って私に大きな仕事を任せてくれましたね。
「すべての責任は俺が負う。お前は俺に背中を預ければ良い。でもお前に任せた以上、これはお前の仕事だ。絶対に逃げることは許さない。なにがあってもやり遂げろ。」
苦境に立たされていた私に、そういって奮い立たせてくれた事もありましたね。
振り返ると、困難な仕事ばかりで、楽な仕事は一つもなかったけれど、広川さんという信頼できる上司に背中を預けて、自分は目一杯、目の前の仕事に集中することが出来ました。
もう一度、会って話が出来るなら。
いつも、遠慮なくワガママを言っていた、ちょっと生意気な自分の態度を謝りたい。ようやく歳を重ねて落ち着いた今なら、あの時言うことが出来なかった感謝の気持ちを素直に伝えられる気がする。
「お前らしくねえな。」
そう、叱られそうな気がするけれど、私は広川さんに叱って欲しいから。それで良いんです。
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