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2021/09/12「僕は血縁というものをあまり信じていない」
さっそく日記の存在を完全に忘れていました。日付を超える瞬間何かをしてるとすっぽり抜けがち。
以前の集まりで例のごとく定例ミーティングをしていたんだけど、人が集まらないのでダベる回になっていた。人が集まらないのに定例ミーティングを開くな。そしてダベる回で日付を超すな。
・いま冷蔵庫を開けたら、半年前に入れた豚肉とネギがすごい匂いになっていた。この匂いはあれだ、栽培層の実験をしていた時に感じたものと同じだ。じゃああれ腐ってたんだ。
「人は須らく生きててえらい」って言説をずっと聞いていた。僕はそれを聞いて、忌避したくなるような考えだなと思った。普段は会議って録画してるんだけど、今回ダベりの回だなってことで録画してなかった。
会話を録画して後で聞き返すの、結構面白いしその場では気が回らなかったあれこれを差し込みたくなるので楽しい。オーディオコメンテータリーって見る側だけじゃなくてやる側も楽しいんだろうな。
以下回想
・「すべて人間は生きててえらいとなる社会になってほしい。」
賛成できない。それでは人間は動物になってしまう。
・「そうでないとこの世界は悲惨すぎる。」
部分的にそういえるだろうね。この世を生きる以上、幸福を感じれば不幸を感じる場合もあって、その偏りが大きいとそう言えるかもしれない。
反出生主義に則って意見を述べるならば、この偏りや幸福と不幸のステートマシンを考えた時にこの世を生きることは刑的所業だし、罪(=出生)を行ってはいけないと主張できる。
ただし、偏った個人的な体験則に基づいてだからこの世を不幸だと決めつけるのは短絡的過ぎる。
・「さっき人間が動物になってしまうと言ったが、人間だって動物だろう。」
違う。ヒトはヒトであり他のいかなる動物でもない。ヒトだ。
そしてだからこそ、そこから外れてしまう危険を『生きてるだけでえらい』という言説は孕んでいる。それでもいいかもしれない。ヒトはどう在ったってヒトであることはDNAを見ればわかるから。そういうことだよね。
で、僕が言いたいのがここで、それに甘えるのが怖いんだよな。席を囲んでいる以上僕たちはヒトという条件をクリアしているんだけど、そんな無差別で無慈悲にチェックが下るような条件は果たして無条件と同じだし、そんなものには意味のないというか、ある種の残虐性を感じてしまう。
例えば血縁。これは個人的な体験なんだけど、いつか父親に「生きる意味が分からなくなった」的なことを言った時のこと。その返事は「おまえはそうかもしれないけど、お前が生きているだけで喜ぶ人間がいるんだからさ。」とかそんな感じのことだった。
これを言われた時、本当に悲しかったな。そうやって悩んでる僕じゃなくて、他の誰でもよかったんだ、というのを明言されてしまったわけだから。
そして、こういうことが起こるから血縁とか、伝統とか、無条件に続くことが良しとされていることが信じられなくなったんだ。
ヒトがヒトであるということ、それ自体はこれらと同じ無条件的条件にあたる。それはつまりあなたがあなたをする必要がないと言われているのと同じなんですよ。そんなの悲しいじゃないですか。
なんていう話を延々としていた。後はなんか詳しい定義をできるかなって試みをずっとしていたので省略。これをきちんと真にできたらいいなと思っている。
音ゲーを始めました。
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