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代々木決戦 怪歌感想「さよならの味がする」

 はじめまして、つららと言います。普段は花譜とチノ先生のオタクをやりながら、SF小説を読んだり句を詠んだりしています。

 いよいよ暑さを感じる季節になってきましたね。最近は7年つかってる扇風機がついに動かなくなって "今"か~~~~~~と絶望するなどしました。

 このnoteは2024年1月13-14日に開催された「神椿代々木決戦 現象II/怪歌」についての感想を書いたものです。なぜ今?と疑問に思う方もいるかもしれません。もともとはとある場所で合同レポへの寄稿文で提出したものですが、そちらの企画がボツとなったためお蔵入りしていた文章です。そのため、ほとんどの内容が執筆当時(2月頃)で止まっています

 開場前の冷たい雨に凍えた1月からもう5ヶ月も経ったんですね。扇風機。筆者も、ここで書いた内容を改めて公開する必要はないかな、と思っていました。

 しかしこの頃、あの冬の日に思ったことや文章にしたことを思い出す出来事が増えるようになりました。それは、神椿スタジオを卒業して1年と少し経つカンザキイオリの最近を見ていてだったり、他のVTuberの動画を見ていてだったり、様々です。

 それならば、と思いこの文章を公開することにしました。僕の好きな言葉に「いずれ確定する事実について好き勝手言える時期って限られているので、言いたいことは言っておいた方がいい」というものがあります。ならば終わった事実についても好き勝手言っておくことで、これから始まる何かに備えることができるはずです。

 前置きが長くなりましたが、正直なところ全ては最近ハマっているガールズバンドクライのせいです。怒りも喜びも哀しさも 全部ぶちこめ。


~~~~~~~~~以下が当時の記事~~~~~~~~~


はじめに

 始まる前から分かりきっていたことですが、改めて凄かったですね。神椿代々木決戦。特に怪歌。全部やってた。オタクは代々木第一体育館の会場で起きた出来事に面食らってしまい、閉演後に代々木から一度渋谷まで歩き、今度は代々木公園をグルっと回って新宿まで歩く、という異常行動に出てしまいました。血迷いが過ぎる。

 今回は花譜 4th ONE-MAN LIVE「怪歌」を見た思いを綴っていこうと思います。

 と言いつつ、一ッッッッッッッッッ旦代々木決戦 Day.1「現象II」の内容について触れてもいいですか????????

|´-`) イイヨー

 やった~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!

 ヰ世界情緒 vs VALIS、良かったですね!!!バーチャルアイドルグループであるVALISに併せ、パラキャン1衣装を纏ったヰ世界情緒を現地で目撃することができた事実。これだけでも、現象IIに来た意味はありました。そしてそれに負けじと唐突なカラーチェンジ衣装での登場により観客の度肝を抜いてくるVALIS。聞いてないよ~~~~~~~~~😭😭😭

VALIS公式ツイッターより

 披露されたのは新曲「ヰ世界転調リクエスト」。変則的でありながら華やかな曲調を見事なフォーメーションダンスで踊るヰ世界情緒とVALISに、オタクは持てる限りの体力で振り上げた拳と声援で応えました。チノ先生~!!!今日のステージも美しかったよ~~~~~~🤍🫶

 とオタクの絶叫をひとまず済ませたところで、改めて神椿代々木決戦 Day.2「怪歌」についてです。

 廻花ってなんですか?!?!?!?!?!

廻花とは何か

 廻花とはなんなのか。僕は「廻花とは花譜のオリジンがとったもう一つの新しい姿である」と受け取りました。ステージに立った本人(花譜/廻花)のMCによると、「花譜は明るく楽しく歌う姿」「廻花は自分自身の中から浮き出たものを歌う姿」ということだそうです。この花譜と廻花の分離については、その週のラジオ「ぱんぱかカフぃR 決戦編」でも語られていましたね。

 あの時の光景は、1ヶ月経った今でも忘れられません。(1ヶ月経ったの?!?!) 明転したスクリーンに映された黒いシルエット。それはなんだか今まで目にしてきたようなバーチャルのスタイルではない。輪郭がはっきりしている。ディティールが細かい。どうやら生身の姿に近いものが写っている。

 その瞬間、会場で沸き起こった声のカオスさを、今でも覚えています。それは決して待ちに待ったアーティストの登場に対する歓声だけではありませんでした。絶叫や悲鳴、嗚咽。かくいう自分は、嗚咽した側です。あの瞬間だけは、ここは地獄なのかと代々木公園を呪いそうになりました。

 そうしてステージに姿を現した人物が、何万回と聞いた、忘れたくても忘れられない声で客席に告げます。

「廻花です。はじめまして」

廻花

 僕は「終わった」と思いました。何が? 花譜が。

 1/14(日)、花譜 4th ONE-MAN LIVE「怪歌」で僕が覚えているのはこれだけです。後はすべて忘れました。以降はこのことについてのみ語りたいと思います。

花譜とは何だったか

 これだけ衝撃的であったと言えど、起きたことのみを取り上げると、ごく普遍的なことだと思います。一般的な音楽アーティストを見渡しても、例えば作る音楽のジャンルの違いから「名義を変える」ことになる、のは別段おかしなことではありません。バンドのボーカリストがソロ活動を始めたり、ボカロPが名義を変えて本人歌唱を始めたり。その範疇に収まるだけのことなのかもしれません。

 しかし、こと花譜においては上記の例と同じとは言えないのです。花譜でこの名義変えを行ってはいけなかった理由があるのです。

 その説明は、「花譜」という単語の意味を構成しているのが決して花譜のオリジン一人ではないということから始まると思います。花譜のオリジンが居て、花譜をデザインした人が居て、花譜のモデルや衣装を作る人が居て。さらには花譜の曲を作る人が居るし、花譜のライブを演出する人も居ます。花譜が私たちの前に姿を現すには、複数の人の手を通じる必要があります。それら全ての要素が重なって花譜という単語は形成されているのです。

 この感覚は、一言「花譜っていいよね」と言っても、じゃあ「どこが好きなの?」と返した時に、YouTubeを開く人がいれば、Instagramを開く人もいて、今だったらラジオアプリやTiktokを開く人だっているかもしれません。その行動の多様さからこれは納得がいくはずです。花譜は、自身の在り方、受け取られ方の多様性やその変化すらも包括し許容するという、高次的に不変の性質を持っていたのです。

 こういった存在であった花譜が、新たに存在を誕生させ、それに「廻花」と名前を付けた場合、それは単なる名義分け以上の意味を持ちます。つまり、「花譜」の否定です。それはもちろん、花譜としての活動がオリジンにとって窮屈になってしまった、という意味ではありません。花譜が持っていた、不変の性質に対しての否定です。

花譜と廻花の併存が意味するものについて

 そもそも、僕は「花譜」と「廻花」の使い分けにあまり納得がいっていません。彼女は「花譜」と「廻花」の分離について「見えてないのとないのはすごく違う」というコメントを残しています。確かに、初めて僕たちの前に姿を現した「廻花」も無から生じた訳ではないようです。

 これまでのライブや花譜展など、様々な機会で花譜は、自分は周りから褒められるほどいい子ではない、表に出せない内に抱える感情はたくさんある、ということを吐露しています。「廻花」も、僕たちの知る「花譜」の中にもともと居たのです。それを無視する形で一方的に花譜に熱狂し、勝手な花譜像なるものを押し付けていた僕を含む一部の声が、花譜を追い詰めていた部分はあると思います。

 それでも、彼女がそれを花譜という名前のままに打ち明けることさえできれば、と言う未練が残ります。それは恐らく、膨れ上がった花譜像に匹敵し、十分に対峙しうる花譜の一つの魅力になったはずです。

 どうして花譜のままではダメだったんですか。どうして廻花にならなくちゃいけなかったんですか。本人のMCや後日のラジオ、配信を聞いても、僕にはそれはいまだに分かりません。

 僕は繰り返し述べていますが、花譜に変化しないことを求めているわけではありません。自我を出してもらったって、生身を出してもらったって、別に全然かまわないのです。思いもよらない変化を内包していること。それが花譜の魅力だったと思っています。

 しかし花譜と同様のウェイトを持つ存在を生み出すことは、その範疇を超えた出来事です。例えば彼女がツイッターで何かをつぶやく時、投稿するアカウントを花譜から廻花へ変えるという操作を挟むとします。そこにはある種の冷静さが挟まってしまう気がしませんか?ここに存在する冷静さは、「花譜」の生気を削いでしまうのです。

 百歩ゆずって廻花になるのだとするならば、彼女の表現の全てをもう花譜ではやりきることができないとして、いっそ畳んで欲しかった。これがあのライブ会場での筆者の正直な思いでした。「花譜」と「廻花」の両立、要素の株分けを許すことは、これまで柔軟性という不変の性質を保ってきた花譜を破綻させ、過去のものとし、説明可能・再現可能なものへとしたのです。花譜から分岐する可能性が花譜という言葉を離れることは、これまで花譜を唯一無二のものとして見てきた筆者にとって、花譜が纏っていた神秘のベールが無理やりに剝がされたような感覚でした。

 これはバーチャルヒューマン(VH)や廻花のアバターを「深化オルタナティブ5」と位置付けることに対しても言えるものです。花譜と同じウェイトの存在を作り出すことは、様々な分岐の帰結する幹として花譜を置いてきたこれまでの態度とはかけ離れたものです。

 廻花に話を戻しましょう。廻花の歌、もちろん良かったんですよ。カンザキイオリが神椿レーベルから脱退した後、様々なコンポーザーによりつくられた「歌承曲」。廻花自身の作詞による楽曲。筆者はとくにスイマー・転校生・スタンドバイミーが好きです。めちゃくちゃ良かった。

 それはそうなんだけど、失ったものが大きすぎて。いま目の前で歌っている存在により、花譜がもう二度と居なくなったという事実をただただ突き付けられている気持ちから抜け出せませんでした。ずっと苦しかった。今までの花譜と怪歌以降の花譜は、廻花を誕生させたという点で不連続であり、カンザキイオリが書いた曲を歌うあの日の花譜の延長線上にいる花譜を楽しみに待つ日々は永遠に失われてしまったのです。

 これは、歌に限ったことではありません。廻花により、花譜のような存在は実は人工的に生産することが可能である、ということが明かされました。筆者自身が花譜とは大勢の手によって成り立っていると説明しましたが、それらの有機的な集合が、幻想的な一つの生き物として振舞っているように見えたのもまた一つの事実です。

 深夜、渋谷の街にただ一人ぽつんと佇む一人の少女。花譜と呼ばれる彼女といつか出会えるはずだという幻想すらも、もう二度と取り戻すことのできない憧憬となりました。苦しい。

 会いたい人をどんなに探しても、どんなにお金を出しても、もう二度と出会うことのできない絶望は、死別への恐怖と同じことだと思います。これまでの花譜は、もうどこにもいなくなってしまったのです。どうして花譜を殺さなくちゃならなかったんですか。

不可解と綺麗事の矛盾

 怪歌について、花譜は後日のラジオでこう述べています。

びっくりしちゃった方もいっぱいいると思うんですけど、しょうがない。しょうがなくて」「でも存在するってのは知ってほしいなってすごい思います」

花譜

 この時が、筆者にとって花譜を捉えるための解釈と、実際の花譜の言葉が決定的に異なった瞬間でした。花譜を失うことは、「しょうがない」で済まされることなのでしょうか。

 この「しょうがない」は花譜のオリジン一人だけではなく、PIEDPIPERやカンザキイオリ、その他花譜を作り続けてきた人間たちにとっても同じ気持ちなのだと思います。だからこそ、花譜ライブシリーズ「不可解」が終結した次のライブとして、あの怪歌があったのでしょう。不可解が終わったことはしょうがない。花譜が終わってしまったことはしょうがない。なぜならその裏側にいる人たちがかつて唱えた在り方に対してそう在り続けることができないと思ってしまったから。

 カンザキイオリは2023年3月に行われた不可解シリーズ最終幕となる「不可解参想」にて神椿レーベルからの卒業を発表し、最後に「邂逅」という曲を残しています。

この世の全てを救えないのなら
せめて青くどこかで君が生きられるように
歌うから 傷つけあって 慰めあって
せめて僕らだけは優しくなろうよ
綺麗事でさ 目を塞いでさ
そんでどっかでさ 巡りあってさ 

邂逅

 僕は参想を視聴した当時、この「綺麗事」という言葉がどんな意味を持つのか分からずにいました。綺麗事、実情を無視して表面だけを取り繕うこと。なぜそれが彼が書く最後の歌詞となったのでしょうか。例えば人が嫌いなのに、人に優しくしようとしてみること。好きでもない学校や仕事場に、毎日行くこと。2024年1月の怪歌を見るまでの10ヶ月間、僕はこれに従ってみたりやっぱりダメだったりして、カンザキイオリと花譜の言った綺麗事とは何なんだろうということをずっと考えていました。

 そして花譜の「明るく楽しく歌っていきたい」「ずっと自分の中に存在していたもの」「しょうがない」という言葉を聞いて、ようやくわかった気がしました。

 結局この世界は、綺麗事を言わないと生きていけない。やりたいことも言いたいことも飲み込んで、当たり障りないことを言わなくちゃ生活すらできない。

 カンザキイオリが邂逅で最後に言っていたのはこのことだったのだと思います。本音と建て前を使い分ける自分に折り合いをつけて、諦念をうまくラッピングして、大人としてふるまうこと。そして花譜すらも明るく楽しく生きていく姿勢を続けるために廻花を発表することでそれに従い、加担したのです。やめてくれ。

 実情って、お金とかビジネスとか効率とかのことを言うんですか。そういうことじゃないでしょう?花譜、カンザキイオリ、ひいてはPIEDPIPERなどを含むTeam.FUKAKAIは、あの2019年の不可解のライブでそう歌ったはずじゃないですか。

名前の無い花のような
悠に咲き乱れるこの号哭が
やりたいことすらできなくて
身動きすら取れない
寂れた心臓に咲いた

不可解

 僕はこれを聞いたとき、本当にうれしかったんです。この世界って人間のことを人間だなんて思ってないじゃないですか。人間を矯正して社会に出して、そうやってできた社会がまた人間を矯正する。誰もが思っていることを黙らされていて、だけど本当はやりたいことや言いたいことがあって、その葛藤をみんな抱えている。その事実をあんなに綺麗な花という言葉を用いて掬い上げてくれた不可解が、本当に胸に刺さったんです。

 それを5年経ったからって、綺麗事を言おう!に捻じ曲げる必要がどこにあるんですか。おそらく、花譜を続けていく過程でそうせざるを得ない理由があったのかもしれません。インスタの形態が変わったこと。V.W.Pをアイドルだと言ったこと。CeVIO AI可不を作ったこと。その時Bモデルを選んだこと。NFTを売ったこと。バーチャルヒューマン花譜を作ったこと。組曲を始めたこと。不可解を終わらせたこと。花譜という存在を信じきれなくなったこと。それでも、少なくともこれまで花譜の曲を聞いてきて、あの代々木の会場に集まった人間たちはそれを聞くことや一緒になって葛藤したいと思っていたはずです。

 それを、勝手に大人になったような顔をして、不可解は終わりました、僕たちは綺麗事を言う大人になりました、さようなら、なんてことを言って。お前まだ何も救われてないだろカンザキイオリ。逃げるな。

大人になることについて

 もちろんいつまでも子供のようなわがままを言って100点の理想論を追ってないで、誰かやほかならない自分を裏切るような60点の回答を提出することでお金を稼ぐことは大事なことです。沈んでいく泥船になんて誰も乘りたくありません。命をつなぐことは一番美しいのです。

 それでも、誰だって新生児の瞬間は純粋で、まるで真球のような無垢さを持ってこの世に生まれてくるはずです。それがだんだんと社会によって欠けていって削られていって摩擦されていくことを肯定して、なにが美しいんですか。

 この子を世渡り上手にするために矯正するのではなく、どうかこの子の人生に悲しいことや辛いことが少しでも減りますようにと願うこと。世界を少しでも良くするために尽くすこと。それが生まれてくる新たな命への、そして生まれてきた自分の命への肯定なんじゃないんですか。

 だからこそ、夢や希望は何だった?やりたいことはこれだった?と画面の向こうに向かって問うた花譜を自ら手放した、花譜と花譜を作り上げてきた人たちに対する失望があります。あんなに無謀な、それでも真に迫った問いを掲げて、思い出させてくれた人たちも、綺麗事を言わなくちゃいけないというルールに飲み込まれてしまった事実に、絶望しそうになります。

 道を逸れた人間をそしり、排斥することでしか健全さを維持できない社会に対して、どうしてもぬぐえない違和感を抱えた人々がいることを宣言してくれたはずの花譜は、もう幼くなんてなくて、大人になってしまったのです。

 まだ大人になれていない僕は、置いていかれてどうしたらいいんですか。あの宣言があったことに救われた僕は、その敗北をただ見せつけられてどうしたらいいんですか。

おわりに

 改めて怪歌について、僕は花譜が廻花を生んだことを「しょうがない」の一言で片づけてしまったことが悔しくて仕方ないんです。

 もちろんこの世界はしょうがないことで満ちています。その言葉を自分に言い聞かせて、他人の前で証明しないと明日を過ごすことすら許されません。好きなことは好きと言えないし、好きなことを好きにやれないし、心の奥で眠る大切なものは手放さなくちゃいけないし、世界は滅ぼせない。そのことを、かつて不可解を歌った花譜も、カンザキイオリも、Team.FUKAKAIですらも示しました。

 それでも、例え一度それに従ったとしても、世界に迎合したくないと思った過去があることを抱え続けることがどうして許されないんでしょうか。人前で言えなくたって、誰ともわからないインターネットの画面の向こうからなら、それを吐くことが許されないなんてことはないはずです。その予感を感じた人間が集まった会場でなら、それを吐くことができたはずです。

 繰り返しになりますが、花譜は人類に向かって堂々とやりたいことは何だった?と問いかけ、その変化を実践してくれた唯一の存在でした。僕はそんな花譜が好きだったんです。

 こうやって大人になることがそんなに偉いんですか?!?!?!と喚いている僕ですが、大人になることはどう考えたってえらいはずです。かつての自分を手放すことにはきっと痛みが伴うし、大人になってもきっと楽にはなれなくて苦難があるだろうし、なにより大切な誰かを守ることもできません。僕だってそういった大人に守られて生きています。

 何度でも言いますが、廻花と花譜の気持ちを含めて神椿が現代でやりたかったこと、やっていくうえでの変化に納得はできています。ただあの時見たかったもの、一緒に見れると思っていたものと、やはり現代をいきているからこそズレていってしまう寂しさがあって、それを綺麗事と形容されてしまったらこの悲しさや諦念をどこにぶつけたらいいんだろうという、戸惑いが残っているんです。

 きっとこれは誰しもがたどる道なのだと思います。人類はこのサイクルで廻っていて、きっと次は僕の番なのです。僕もこうやって世界に対して怒りや悲しみや悔しさをぶつけたいけれど、それだけでは生きていけないことを知って、大人の仲間入りをするのだと思います。僕はいま就活の真っ最中で、さっそく一社に不採用メールをもらいました。

 だけど、僕みたいな世間知らずでもこの世界のルールは間違ってると思ったんだから、過去に他にも同じことを思って、僕なんか以上に実現するために努力した誰かがいたはずで、それがかつての彼らだったのかもしれません。次は僕の番なのです。

 廻花だって、まだ「はじめまして」を言ったにすぎません。これから彼女の道筋が彼女自身を、そしてかつての花譜を肯定することが決して無いわけではありません。

 だからこそ、生きていられるうちは色んな「しょうがない」ことやそれでも明るくて楽しいことを知ったうえで、それだけじゃないでしょう?と問い続けようと思います。

 不可解を聞いて、怪歌を聞いた僕はそう在りたいと思います。

~~~~~~~~~以上が当時の記事~~~~~~~~~


 ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。いま振り返ってもとんでもない感想noteだなと自分でも思います。花譜と廻花のことについて考えていたら、論理はともかく大人になることへの覚悟まで話が発展しました。途中で就活中みたいな話をしていますが、現在では就活も無事終了し修論に追われる毎日です。5ヶ月とはそういう期間。花譜はどう過ごしてるんでしょうね。

 上記の記事は、ほとんど執筆した2月当時の内容のままです。このnoteの第一目標はこの花譜への気持ちを公開することでだれにも言えなかった感情を清算することでした。しかし、せっかくの機会に半年弱が経過した時点での神椿への気持ちに何か変化があったかをまとめてみようと思います。10ヶ月「綺麗事」について考えたり、5ヶ月どうして花譜を殺さなくちゃならなかったのかについて考えたり、そういうことばかりしています。

 記事中では花譜が廻花を生み出した原因を、暫定的にファンからの一方的な期待からの逃避、としていました。それも「帰り道」「モンタージュ」「裏表ガール」で書かれてきた内容ではあります。一方で、花譜の5年間を振り返るとやはり大きな転換点は「カンザキイオリの卒業」であったのだろうと思います。

 カンザキイオリの卒業については、以下の神椿FES合同記事でも触れています。普段からこういう文章を書く人間です。(該当部:Day2 つららパート)

KAMITSUBAKI FES ’23 Day1&Day2を観測した話 - 京V同メンバーのたわいもない日常

「自分と同じような過去を持っているかもしれない画面の奥のあなたを救うため。」「誰かに守られているだけの私では、許せないのです。」

カンザキイオリYouTube「卒業」

 本人の動画でも語られているように、カンザキイオリは神椿および花譜と出会うことで、改めて自分自身の創作を追求することを決意しました。廻花の「自分自身の中から浮き出たものを歌う」という言葉は、ここからきている部分が大きいのかもしれません。すなわち花譜の変容もカンザキイオリの卒業も、どちらが先ということはなくお互いが影響し合った結果だったのです。

 カンザキイオリは創作論を強く押し出す楽曲「不器用な男」を、「死にたくないから物語を書いていた」という歌詞で始めています。

 すなわち、

問い. どうして花譜を殺さなくちゃならなかったんですか。
答え. 死にたくないから。

 だったのです。あれだけ繰り返してきた問いに、ようやく答えが出ました。5ヶ月。長かった。この8文字に気づくのに5か月かかった。僕が気づくのが遅かっただけとも言います。

 それでも、僕の怪歌への思いは変わりません。死にたくないから、花譜を殺さなくちゃならなかった。彼らの答えの内で、それだけは間違いだったと言い続けます。堂々巡りのようで本当に恐縮ですが、僕はこの一点にこだわっているのです。

 カンザキイオリはこうも言っています。

いつか変わるかなって何年続けてるんだ
時代ごとに違う差別同じ憎しみ
世界平和なんて嘘だ
みんな一人ぼっちだ

邂逅

 死にたくないからこそ、言いたいことは言おう。やりたいことは全部やろう。しょうがないことなんてないんだ。綺麗事を言って、同じことを続けていたってなにも変わりやしないのです。そうじゃないと、あの日悲しんだ人間がまた生まれるだけなのです。



 改めて、ここまで長い長い怪歌への感想を読んでいただいた方、ありがとうございます。僕の気持ちが「綺麗事」なんかにならないようにするために、この文章を公開しました。この記事を読んでいただいた方に、花譜とカンザキイオリが何を言っていたのか、少しでも思い出してもらえていたらそれだけで満足です。

 花譜へ、ありがとう。カンザキイオリへ、逃げるな。チノ先生へ、愛しています。井芹仁菜へ、勝てよ。

 最後に怪歌から帰る一月の夜行バスの中で詠んだ短歌を残しておきます。

不可解なさよならだけの人生に 昇る白い息と綺麗事

つらら

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