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好きで描いていた「作品」たちが、認識の変化により「無価値なモノ」に変貌した話。

前回の投稿から半年以上経ってしまい、記事を書くことを継続するって大変だなと思う。
10月にチェンソーマンのアニメが始まり原作も2部が並行して、楽しい毎日のはずが2022年の年明けから続いた激務でついに体調を崩してしまい、11月から年明け1月まで自宅療養を余儀なくされた。
でも、あいかわらず絵は描いている。復帰して不安と闘いながらも、療養中に少し知識を蓄えた。だから、丸裸で戦場に突っ込み爆死した11月よりはマシだと意気込んているけど、実は装備したのは”こしみの”と棒きれだったというオチにならないか、いつも心配でビクビクしている。
まったく、平穏な日々なんでどこの嘘つきが作った言葉だよ。

最近ハマっていたチェンソーマン界隈は、アニメ化、2部開始によりファンアートが爆発的に増え、私はその波に飲まれ、見事に自分を見失った。
描きたいものだっけ?と思いながらファンアートを描く。自分の中の推しキャラの輪郭がぼやけ出した気がする。自信作だと思ったのに全然反応なくて膝から崩れ落ちたり、2H程度で書き散らした絵がすごい反応だったり、どんどん私の感覚と求める物のギャップが深まっているような気がする。
でも、そもそも反応の規模が小さいものなんだ。小さい数値の変動に過敏に反応してるだけじゃないか。ただ単に私が絵に対して思い詰めているだけなのかもしれない。そんな、反省もしている。

そんなある日、奥さん(プロ漫画家)に今まで書いたファンアート、漫画を反応大小関係なく全て見せて感想を聞いてみた。

「あんたの描くギャグはどこかで見たことがある凡庸なもので面白くない」という感想だった。

そこで最初に思ったのが、何で私はギャグマンガを描いているのだろうという素朴な疑問だった。
パロディ(古いw)やファンアートはギャグが基本だから?そんなことはない。原作の特定のキャラを深堀した泣ける同人誌もあるし、新たな解釈を圧倒的に面白く表現するファンアートもある。昔の私の漫画にもギャグ以外の漫画が残っていた。だけど、大学生時代からなぜかギャグマンガしか書かなくなり、以来今までずっとギャグマンガに固執している自分を発見した。

ギャグマンガに固執している私が描いているものは、いったい何なのだろう?傍から見ればそれは”どこかで見たことがある凡庸なもので面白くない”漫画なんじゃないか。
そう思って、自分の漫画やファンアートを見直すと、どれも”どこかで見たことがある凡庸なもので面白くない”漫画に見えてきた。それはもはやギャグマンガなのだろうか?そんな立派なものではなく、いつか持ち込みに行った小学館の編集者に言われた”ウケ狙い漫画”なんじゃないか?私がこだわって描き続けていていたものは、大量の”ウケ狙い漫画”の山だったのではないか?

そう感じた瞬間。なにか自分の描いてきたものが急に無意味なものに思えてきた。自分が楽しければ良い!成すがままに書こう!と積み上げていったものは、傍から見れば、大量の無価値なモノだったんじゃないか。そう思うと、フォロワーや反応の数にも納得が行くような気がする。好きな人は”どこかで見たことがある凡庸なもので面白くない”漫画も気にかけてくれるかもしれない。
でも多くの人にとってはそれは無価値なものだ。

私はこれからも、「作品」だと思って作り続けていた、今は「無価値なモノ」を、これからも作り続けたいと思うのだろうか。

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