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生い立ちその4 浪人、大学時代

こんにちは、ちゅんです。

生い立ちについて少し書きたいと思います。
まだ読んでいない方はぜひその1からお読み頂く事をお勧めします。

光と陰のギャップが激しかった高校生活も終わり、
現役合格を目指して美大受験をしたものの、複数の大学は全滅でした。浪人するつもりでいたので、私は親から離れて1人暮らししながら美大受験予備校に通いました。母親も、今の家の環境では集中できないだろうと送り出してくれたのですが、今思えば私は自分の事しか本当に考えていなかったです。
週4でスーパーでアルバイトしながらデッサンや油彩などを勉強しました。浪人仲間とはすっかり仲良くなり、度々アパートに集まっては飲み会をしたり、映画を鑑賞したりと、辛い中でも楽しい日々でした。

実家の母は、その頃身の危険を感じて家を出て、知らない土地のアパートに住んでいました。
弟が2人いたのですが、お金は預けられていたのでネグレクトにはなっていませんでした。
私はこの頃、実家の家族の心配をしつつも自分の事に集中したくて現実逃避をしていました。

とにかく必死にデッサンや絵を描いて、美大に受かるためと日々の生活費(バイト代で何とかしていたので)を稼ぐので精一杯でした。

努力の末、なんとか1件だけギリギリ合格し、
私は晴れて美大生となりました。
この頃からもう父親はまともに働ける状態ではなかったので、ほぼ母子家庭のようなものでした。

憧れの美大生になるべく上京する際に、ここでも暗い影を落とすような出来事が度々ありました。
「家がこんな状況だから、せっかく受かったけど1年で大学終わりになるかもしれない。」と母に言われていて、私も覚悟していました。
私は毎日酒浸りで病気を治す気もなくなった父を、本当に嫌でしょうがなかったです。病気だから仕方ないというレベルではなかったのです。

(一瞬過去の話に遡りますが)私が高校で演劇の舞台をやっていて、呼んでもいないのに父親が車で会場に来たのですか、当時小学生だった弟を連れて車に乗せてきたにもかかわらず、弟を車においたまま一人でご飯を食べに行っていました。弟は私のところにきて、「親父がどっか行った」と報告されて気づいたのです。世の中の常識は非常識だ、が父親の口癖でした。
父親についての奇行は他にも色々とエピソードがありますが、思い出してもあまり楽しくない事なので割愛します。

話は戻りますが大学生活は忙しく毎日が過ぎていきました。美術の先生になりたかったので、教職課程を履修して教員免許を取るつもりでした。
仲間との授業や行事、飲み会、朝までファミレスで語るなど、大学生活は充実していました。

大学2年のある日、突然父親から携帯にメールが届きました。「学費を払えません。」
大学の事務所に行って確認すると、後期授業料が未納ですと言われました。美大の学費は年間200万もかかるので、私は諦めて「大学を辞めます」とその場で職員の方にお話しました。
世の中にはどうしようもない事が沢山あるし、人は不平等なんだと改めて実感したのです。

せっかくできた創作仲間達と離れるのが一番辛かったです。私は2年の終わりの春休みギリギリまで課題の制作を終えて、その後故郷に帰りました。

続く

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