結果への期待を手放す
バガヴァッドギーター 本読み会35回目
この回は、レイキを学びに東京に行っていましたので、本読み会はお休みさせていただきました。
こんな日もあります。ホストも交代してもらいます。ありがたい。
ここでは解説というより、私が感動したり、これは!と思ったことを書き綴っています。共感いただけたらとっても嬉しいです♪
今回は五章6〜13節です。
第五章 行為の放棄
1.傲慢な思いに注意報
ヨガ勉強してる人、またはスピリチュアル好きにありがちだなぁ…と思いました。
私自身を振り返ってみて、そんな風に思っていたことはなかったか?と、自分に問いたい。
「ヨガやってるから」
「ヨガやってるのに」
から、のに、が出たら注意報かな。笑
そんな風に思っていた過去もありました。特別なことをやってると思ってたんでしょ。恥ずかしいです。苦笑
ヨガ哲学では肉体や精神の向こうの魂や宇宙へと意識が深まります。
すると、見える世界と見えない世界を両方があって成り立つ世界で生きることになり、自然にシンクロニシティが当たり前になり、直観が働き、感覚も鋭くなってきます。
聖者とは言わないまでも、どこか人とは違う、特別である。
そんな傲慢な思いがあると、本当のヨガで目指すもの、依存から脱却した真の自由からは遠ざかります。
ヨーガ・スートラの第3章では、ヨガの瞑想の深まりで得られる超能力は障害となる、と言われています。
特別な力(シッディ)が心の所産であるから、それは私達を縛る。
それを誇るという、利己的欲望があり、エゴを育て大きくする。
どんな時も心は魂が体験する道具であり、心と私は違うもの、心は経験の道具であると悟るまで、束縛される。本来は道具は何もしないものです。
2.聖者も悪人も私も等しく見れるか?
貧乏人も金持ちも、大人も子どもも老人も、聖者も悪人の中にも、等しく内には神様を抱える魂である、と
そんな風に思えるだろうか?
言葉で言うは易しで、実際に自分が酷い目にあった場合や、大切な人が辛い目にあった時にそんな風に思えるだろうか?
今の私ならきっと怒りが湧き上がる未熟さがあるなぁ…自信がない、と言うのが正直なところです。
本当にそのように等しく人を見ることができるような、真の心の強さを目指したいです。
逆に自分が罪悪感や汚れているとおもうなら、それは違います。
核となる魂は決して汚されることはなく清らかです。
魂は焼かれることもなく、切られることもない永遠不滅なものです。
六根清浄ということも思い出されます。
等しく神様である魂を抱えるのだから、最終的に裁くのは自分自神であると思います。
どんな悪人であっても、自分の良心という神様は目を逸らさずあなたを見つめています。
3.結果への期待を手放し自由に
カルマヨガは、結果への期待がなく、淡々となすべきことをこなすことです。
今年習得したレイキヒーリングも、そのように感じました。
なぜなら、こうなって欲しいというエゴがあると邪魔になる。大宇宙のエネルギーを、ただ対象に流すだけ。自分は何もしない。
水の出るホースを持ったら、それをどこに向けるかだけ意図し、あとは大宇宙がちょうど良いに調整されるのを信頼すればよい。
束縛から自由になるためには、
自分で自分を縛るものから解放されていること。
その自分を縛るものとは、
結果への期待。
由紀子
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