直観で生きるには
バガヴァッド・ギーター本読み23回目
毎週火曜日の8:30〜9:00に、zoomで行っています。
23回目は三章40節〜41節でした♪
第1回が始まったのは2023年9/14でした。
ここには私が印象的だったところを書き残しています。共感いただけたらとっても嬉しいです♪
第三章 無私の行為
1.責任のありか
感覚器官は五感のこと(触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚)
意思は五感を外界を見る窓として、外側にある情報を受け取り理智に伝える。
なので、意思の働き過剰になると、情報過多で疲れる、気が休まらない、集中できない、そんな様子です。
理智は意思からを受けた情報を元に、それに対して考え決断するところ。
あれはよかったな、GO。
あれは良くなかったな、STOP。
決められないというのは、理智の働きが弱いということかもしれません。
「決められないから、誰か決めて〜」って、誰かに意見を求める。わかりますよ、その気持ち。
どんな結果も受け止め決断を流れにまかせ委ねるというのと、責任は取りたくないから決断を委ねるというのは、大きな違いです。
でも、自分は決めないこと、誰かに決めてもらうと決めているのも自分ということ。苦笑
何かを決める迷いの元になっているのが、情欲や怒り、好き嫌いが原因にとなっていないか。
理智は冷静な判断が可能なのが、本来の状態です。
2.全てこの世は自分の合わせ鏡
自分の中の好き嫌いという色眼鏡で物事をとらえているのが普通だと思います。
そして、自分の中の善悪はどうでしょうか?
私も年齢を重ねることで、だんだんと境界線も曖昧にはなってきていますが(俯瞰して見ていられる)、これもここで言われている邪悪な敵なのかな?って思います。
これは統合的な考え方です。
ヨガも本来はこういうことなのです。
つまり自分の内側にあるものが、外側に現れている。
自分が助けてほしいから、助けてほしい人が目の前に現れている。
自分の中にイライラや怒りがあるから、目の前にイライラした怒ってる人が現れる。
そうだと思います。自分の体験をみても。イライラが目につく、気になる、フォーカスする。自分もイライラしていた。
ルンルンの人の波動はイライラを寄せつけない。またはイライラの人をルンルンの人に変えていく。笑
この世は体験できるアミューズメントパークですから、それでもそういう人に出会ったら、可憐にスル〜できる私になっています。(たぶん)
3.直観も智慧
頭で考えることや証明できるエビデンスのあることが好きでした。(今も好きかな)
根拠があることが判断基準として安心できる場合もあるし、冷静に熟考することは良いと私は思います。
その冷静に熟考することを超えた智慧が、直観によるもの!?
直観というのも知識や智慧であり、それもまだ絶対的な智慧ではなく、絶対的な智慧につながる、相対的智慧になるんだなぁと思いました。
私の場合、直観でパッと決めるということがあります。機会を大事にするのは、転勤が多かったからだと思います。一期一会、チャンスを大事にしたい。
もちろんよく考えてみるというのもあります。それでも、最終決断する時は、直観を使っています。
なのでこの流れで良いんだなぁ、と確信しました。
4.直観で生きるには
この本の作者であるスワミ・ヴィラジェシュワラ大師が科学者だったので、そのような成功した科学者をたくさんみてきたのでしょうね。
ここを読んだ時に、遺伝子を研究された村上和雄さんのことを思い出しました。遺伝子を解読できるのも素晴らしいが、遺伝子を作った存在はもっと素晴らしい、その大いなる存在をサムシンググレートと表現されたこと。
それは相対的智慧から絶対的智慧への何かだと思います。
もし自分の理智が情欲や怒りで曇っていたら、きっと直観や叡智につながる相対的智慧や絶対的智慧はキャッチできませんよね。
自分がどの段階の智慧に繋がり、どの次元で生きて生きたいのか。
その決断が情欲と怒りに振り回されているのに気づいたら、「ああ今、自分は直観の智慧、絶対的な智慧から離れているなぁ」と思って軌道修正するときかもしれません。
ちなみに、直観の座は眉間の奥、第3の目、アージュナーチャクラ。このチャクラは直観と叡智の座。
このチャクラが不活発だとネガティブ思考、疲労、悪いカルマの経験の引き寄せ。過剰だと幻覚やファンタジー世界の住人。あなたのバランスはどうですか?
直観をキャッチできるアンテナを立てて、サムシンググレートの智慧に繋がりますように♡
由紀子
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