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孤独を耐えられる者でなければ。『コードギアス 奪還のロゼ 第4幕』

 配信に先駆けて、『コードギアス 奪還のロゼ』を劇場にて最後まで見届けた。後追い世代として、全世界と同じスタートラインに立って浴びる全く新しいコードギアスの物語。4ヶ月間、楽しかった。後はサウンドトラックの配信を待つばかりだ。

 して、これまでの感想として、第1幕では強いクリフハンガーを連発することによる「騙される」快感が得られたことを、第3章を通じてギアスそのものが無効化されるという苦しい状況に追いやられたサクヤがその代償を支払わされ、アッシュもまた弟を無惨に殺されるという封印したい過去に再び向き合うことになる。そして、奪還への強い意思が折れてしまいそうなほどの生き地獄を経験した二人が、どんな結末を迎えるのか、という期待を込めて文を〆ていた。

 結果として、このシリーズは「ギアス」という異能に手を付けた者が背負うべき「業」に、真面目なほど実直である、という感想を得た。他者を思い通りにできる力に、何の代償も生じないはずがない、という哲学はこの物語とて例外ではないらしい。

※以下、『コードギアス 奪還のロゼ』のネタバレが含まれる。

 人間だけを吸い込み、細切れにして、その血を撒き散らす非道の無人兵器・ロキを全世界に放ったノーランド。その正体は、あのシャルル・ジ・ブリタニアのクローンとして造られた器であり、しかしシャルルの死によってその完全なトレースに失敗したと思わしき、空っぽの存在である。安元洋貴氏の声をもってしても、彼はシャルルの威厳には到底及ばないし、生理的嫌悪から生じる人類の抹殺を掲げるなど、思想の面でもかの皇帝陛下の威光をまるで感じない。その強固な人間嫌い故にキャサリンとの正面衝突を避け一方的に闘いを打ち切るなど、騎士としても失格と言う他ない。

 徹底的な他者の拒絶により「孤独」へ自らを沈めていくノーランド。それに対し、サクヤとアッシュには、皇重護が繋いだ絆が残っていた。そのか細い糸を手繰り寄せた先に、アッシュは自らにもう一度ギアスをかけてくれとサクヤに頼む。自らの恐怖心を払拭するために、そしてノーランドを倒し世界を救う誓いを共有するために。

 かつてルルーシュがスザクに「生きろ」というギアスをかけたように、その命令はアッシュに力を与え、ノーランドを倒すことに成功する。だがしかし、ギアスは便利な精神コマンドなどではない。最初はサクラを奪還するために、そして今度はノーランドを倒し世界に平和をもたらすために、サクヤは二度もアッシュの想いを捻じ曲げ、上書きしてしまった事実は変わらない。騎士として跪くアッシュの姿は、サクヤとアッシュが二度と対等な関係になれないことを示す、とても哀しい(と同時にメチャクチャ燃える)動作である。

 それだけでなく、アッシュはノーランドの自爆を予期しており、サクヤを無事に生還させるため、自分が犠牲になることを選んだ。これはおそらく、ギアスによって命じられたものではなく、アッシュの本当の願いによる行動だろう。それ自体は感動的だが、サクヤは一緒に死地を繰り広げ、一番の理解者となり得たはずの人を失った。「王の力は人を孤独にする」とは繰り返し唱えられてきた言葉だが、サクヤはその言葉の重みをようやく知ることになったのだろう。

 だが、残されたのは絶望ばかりではなかった。サクヤはギアスを封じるために自分の声を失ったが、彼女の側にはナタリアやメイ、アッシュが育てていた猫たちがいる。サクヤはノーランドの“寂しい強さ”、すなわち絶対的な武力を有する孤独な存在をアッシュとの繋がりをもって否定し、ギアスを封じることで自分が孤独に堕ちていくことも防いだのである。手話を通じて仲間と語らい合い、ホッカイドウブロックの代表者として民と通じ合うことを自らに課したことで、サクヤは孤独から脱することになる。

 悪逆皇帝としてゼロに討たれ、魔女の我儘によって復活したL.L.ことルルーシュとサクヤとでは、同じ孤独に苛まれたとはいえど全く異なる結末を迎えている。これは、ルルーシュが自らを全世界共通の敵として殺される、ある意味で独りよがりな死に自分を追いやったことと、最後まで他者と生きることを願い、アッシュを失えど自らの命を紡いだサクヤとの違いだろう。優劣ではなく、ルルーシュにはルルーシュの、サクヤにはサクヤの譲れないものがあり、ギアスがもたらす孤独をどう受け入れるか、もしくは抗うか、という対比なのだと思う。

 この結末を、ギアスを与えた張本人であるL.L.はどう見るのだろうか。サクヤを祝福するのか、全世界で戦うかつての仲間たちに郷愁を覚えるのか。最終回付近では全く姿を現さなかったことに寂しさを感じたのも事実だが、『奪還』が実現させたかつてのスピンオフやコミカライズなども同一世界のものとした『コードギアス』のユニバース化に、どこか胸躍っているのもまた事実。再びサクヤに会えるのなら、私は喜んで劇場や配信を観に行くだろうと、そう思ってしまっている。

 ……と、ここまでが好意的に受け取った感想になる。それと同じくらい不満に思っているのも事実で、そのほとんどが尺不足に起因しているのでは、というのがアニメ素人の情けない邪推なのだけれど。

 例えば、ノーランドがシャルルのクローンであるという設定について。第1幕を観た際にはなぜホッカイドウがネオ・ブリタニアによって理不尽な扱いを受けているのかの理由に期待を寄せていたが、「全人類の抹殺」というスケールの大きい野望の前にそれは棚上げにされたし、誰もその真意に気づいていなかったという意味でネオ・ブリタニアの騎士ことアインベルクたちは揃いも揃って何のために闘っていたのかと、ここまでの物語が一気に空虚になってしまった。ノーランドがシャルルのクローンに“なれなかった”ことへの絶望や、その出自に疑問を抱く騎士がいるといったドラマがないままに尊大な野望だけを持ち出されたせいで、どうにも感情が同調しきれない。

 また、サクヤがついにサクラを「奪還」し再会する、というシーンは本来あって然るべきだと思うし、「繋がり」を示す過去作キャラの再登場も、祭りとしてもっと大々的に描いてほしかったことも否めない。ロキの残虐非道さと、それが全世界に送り込まれてしまっている八方塞がりな状況に対し、それを払拭するだけのカタルシスも無ければ、アッシュの犠牲を払っても成し遂げた「奪還」の感動も得られない。主要キャスト三名の演技が素晴らしかっただけに、どうしようもなく物足りなさを感じる。

 例えばこれが『反逆』と同じ話数が与えられていたら、いや半分の2クールを展開することが出来たなら。そんなないものねだりをするくらいには『奪還』に熱中し、愛着と不満を同時に抱いている。あとどうしようもなく、C.C.が恋しい。

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