西八朔杉山神社 恩田川紀行(2)
シンデレラのように式内社に選ばれた神社
ライフワーク化した杉山神社巡り。
しかし、今回は一層ワクワク感が高まります。
そう、今日向かうのは、あの延喜式内社の有力論社。
恩田川流域2
中川大橋を越えて先へ向かいましょう。
横浜線沿線は都市化が進む一方、対岸は長閑な田園風景が広がっています。
右手に丘陵地が見えて来ました。田園地帯に入り、気持ちの良い眺めです。
萬代堤改修記念碑。恩田川流域も水害に悩まされた場所なのでしょう。
西八朔杉山神社
川沿いから内陸に入り、畑を抜け家々が集まる街道沿いに やって来ました。
社号碑
上が欠けた古い社号碑。
この先、道路(川崎町田線)を挟んで参道が続きます。
道路を渡ると、やけに延喜式内社と武蔵総社六の宮が強調されている新しい社号碑。
鳥居
その先に、鬱蒼とした木々がお護りしているのが...
西八朔杉山神社です。
こちらも式内社と六の宮を強調した改築記念碑。(1982年に社殿を改築)
木の鳥居をくぐると見えて来ました。
社殿
立派な木造建築。現在ではコンクリート造の多い杉山社としては別格。
えび虹梁(こうりょう)のカーブが美しいですね。梁(はり)を虹のように反り返らせるから虹梁と言うのだそうです。
境内
社殿は南向き。恩田川と対岸の高台が見通せます。
ご祭神
西八朔杉山神社に祀られている神様は次の4柱。
主祭神は五十猛命。やはり、ここもスギヤマ・メイン・ゴッドが祀られています。最近、「五十猛命の無い杉山神社なんて...」と洗脳され気味です。
大田命は初めて見る名前。神話に無知なのでWikipediaを参照したところ、理解できたのは「三輪氏と同族」ということだけ。三輪氏と言えば、町田市三輪の椙山神社が思い起こされます。後付けされた神様なのか、初期から祀られた神様なのか、気になります。
由緒
新編武蔵風土記稿
「北八朔村に鳥居という地名があり、この神社の一の鳥居があったと言われているので、西北2村を合わせた村の鎮守だった」と記されています。
別当の極楽寺ではなく、杉山神社が社領を持っていた(徳川家光のころ、幕府より朱印状)のが驚きです。当時は寺の方が位が高く、多くの杉山神社は別当寺の領から分け前をもらうような扱いでしたので、このことからも由緒ある神社だったと伺えます。
神奈川県神社誌
県の神社誌でも、西八朔社が式内社であり、武蔵國六の宮と紹介しています。
【ご参考】
極楽寺
杉山神社の別当寺にあたる極楽寺。
中には長屋門のような立派な門があります。
本堂は改修中のようです。立派なイトスギが印象的。
極楽寺の創建年代等は不詳ながら、元海(天文2年1533年寂)が中興、慶安年間(1648-1651)には杉山神社領として5石6斗の御朱印状を拝領。
ある日突然、式内社に選ばれた
杉山神社が創建年代は不明ですが、平安時代に記された続日本後紀(869年)や延喜式(927年)に、その存在が記載されています。
数ある杉山社の中で、どの社が延喜式内社(延喜式に記載されている神社)なのかが最大の謎です。複数の論社(有力な社)が様々な理由や由緒の品々を挙げて「我こそが式内社」と主張しました。
江戸時代後期、武蔵総社大國魂神社の宮司・猿渡盛章は、杉山神社の研究に没頭し、論社を回って御神体や古文書、伝承などを調べ上げ、式内社を見つけようとしました。それと言うのも、大國魂神社の六の宮「杉山神社」の式内社がどの社なのか分からない状態だったからです。
盛章は調査の末、西八朔社を「式内社かも知れない」と比定しました。早渕川流域の多くある有力論社を退け、あまり本命視されていなかった地味な西八朔社が選ばれたのです。(まるでシンデレラ!)
武蔵國六の宮とは
大國魂神社は、大化改新時(645年)境内に武蔵國府が置かれ国の総社となり、その後、国内の有力社を六社を合祀して六所宮と呼ばれるようになった。
その六つの宮は「神道集」(第三巻)にも掲載されています。
※神道集 (しんとうしゅう)は、南北朝時代中期に成立した説話集・神道書。
西八朔杉山社は、江戸時代から六の宮を標榜するようになったとのこと。その背景に、西八朔の名主が「西八朔社式内社キャンペーン」を行ったからと見る向きもあります。結局のところ、現在も大國魂神社と西八朔社の間で互いに認定し合っている状況です。
では、何故、盛章は西八朔社を式内社に比定したのでしょうか。地名や地形の観点から考えてみます。
八朔(はっさく)の地について
八朔の語源とは
八朔(はっさく)ってミカンの一種?いえいえ、八月朔日の略で旧暦の8月1日のことです。
しかし、これが地名の由来ではなく、単なる当て字だったようです。
「倭名類聚鈔」(平安中期の辞書)に記載されている「都筑郡針斫郷(罰佐久)」と、鎌倉時代の国街領(武蔵国府の直営地)「八佐古」が、現在の「八朔」にあたると思われ、古くから由緒ある土地。式内社があっても不思議ではない立地と考えられます。
元の地名の由来は?
針折(ハザク)の「折」の正しい字は「斫」(チャク/シャク)で、「斧で切り裂く、叩き切る」の意味があるそうです。痛々しい名前なので災害地名っぽいな?
罰佐久は、この地域(都筑郡)が馬の牧で有名なことから馬柵が由来ではないかという説もあります。
また、長野県の「佐久」は「新開(ニイサク)」のサクが由来とも言われます。武蔵國で新しく開墾された土地にという意味があるかも知れません。
杉山神社の立地
現在の立地
丘陵のエッジが階段部分に当たり、境内(標高30m)は傾斜が緩やかな場所にあり、社殿は南南西を向いています。
元々の杉山神社の位置
先ほど登場した、猿渡盛章氏が次のように書き残しています。
なんと...今とは別の場所に杉山神社が建っていた?
元あった場所の立地をまとめると、
① 現杉山社の北西の方角で
② 327mほど先の距離に
③ 大明神山(幅218m、高さ36mで形の良い)があり
④ その山裾に南向き高さ2~3mの崖があり、
幅13~14mの平地がある。
どこだろう...?
地理院地図の色別標高図で当たりをつけよう。
薄緑の矢印が北西方向。ピンクの同心円は現・杉山神社からの距離。
だいたい、この辺りかな?と勝手に推定。
「形の良い山」と基底の台地の比高は30mくらい。境内推定地と現神社との距離が4町(436m)強。ちょうど東名高速にあたる場所と推定。
延宝年間(1673〜1681)に遷座したとのこと。
長い戦乱による荒廃や自然災害など、同じ場所に再建できないようなことが起こったのだろうか?謎が謎を呼ぶ・・・
さらに俯瞰してみてみよう。
「小山」の下に「鳥居土」という地名があり、ここに「一の鳥居」があったと思われる。本当だとしたら壮大な神社だ。
西八朔社には神主家系譜や神璽などの物的証拠が無かったのですが、立地などの状況証拠が素晴らしかったので、何かを感じ取った盛章は、ここを式内社に比定しました。
西八朔の古代遺跡
さらに、西八朔にも古墳や古代遺跡が存在します。それは、この地域が更に古くから栄えていたことを意味し、弥生後期の自然信仰が起源とされる杉山神社にとって、とても重要な指標となります。
西八朔古墳
これによると、西八朔にも古墳があったのですね。(写真つき)
西八朔遺跡
縄文遺跡、弥生時代後期の環濠集落遺跡もあったようです。
本当に式内社なの?
この記事を書くにあたって「杉山神社考」(戸倉英太郎)と「私説・杉山神社考」(飯田俊郎)を読んでみました。両書とも茅ヶ崎社の神主家系譜を信頼に足るとして、茅ヶ崎社を式内社に比定しています。
しかし、実際のところ、式内社の直接的な証拠というものは存在せず、全てが間接的(後世に作られたあるいは複製された)なもの。各神社派は互いにその証拠の信憑性を問題にしています。
西八朔社について、ここまでで確定している情報だけをまとめてみます。
まだ全てを記事にしていませんが、これまでに有力論社の茅ヶ崎社と吉田社、可能性があると言われる大熊社、勝田社、鶴見神社、上流域の椙山神社、鉄神社などを見て廻って来ました(大棚社はまだ見ていない)。それぞれに風格があり、論社には根拠となる言い伝えも残っています。
しかし、旧西八朔社が伝承通りの規模であれば他を凌駕しているので、猿渡盛章が式内社とした判断には妥当性があったと思います。
私も地形信奉派なので、盛章がビビッと感じたのは分かります。人工的に作られるものであれば、物でも話でも後付けするのは簡単だけど、地形はそう易々とは変えられません。
これは私の考えですが…
調べるにつけ決定的な証拠が存在しないことを知った盛章にとって、もはや「本当に式内社かどうか」が問題ではなく、「武蔵國六の宮に相応しい杉山社はどこか」の方が重要な問題になっていったと思うのです。
平安時代なんて盛章の時代からも千年前の話。大國魂神社でさえ由緒の伝承がおぼつかない状況なのに、田舎の小さな神社に当時の由緒の品や伝承が残っているはずが無く、全てが眉ツバのお話。
信じられるのは地形と古地名しか無かったのです。
しかも、所縁ある佐江戸(先祖が佐江戸城主)にも近い西八朔社は、きっと他の杉山神社よりも魅力的に見えたに違いありません。
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「元祖」「本家」は、いつの時代も争いの種。
そんな時に唱える言葉は
「No.1 にならなくてもいい もともと特別なOnly One」
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