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加賀原遺跡 鶴見川遺跡紀行(8)

JOMON・ヒルサイド&マウンテン・ビュー「富士山の見えるムラ」

前々回記事では、鶴見川を市ヶ尾まで来ているのですが…
今回の記事はちょっと戻って、佐江戸からスタートします。
(昨年の11月に佐江戸城址〜加賀原遺跡〜川和富士と散策しました)


月出松公園

佐江戸城址の北側「石橋交差点」から、丘陵の長い坂道をひたすら自転車を押して進みます。(人力チャリなのが恨めしい)

途中写真を撮る余裕がなかったので…いきなりですが、住宅街の中に緑豊かな公園が出てきました!

月出松公園の入り口

ところで、「月出松」という風流な名の由来が気になります。これについては、はまれぽさんが「ネ申」的な回答をしていますのでご覧下さい。


展望台へ

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さて、入り口近くの展望台に上がってみましょう。

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わぁ、見晴らしの良い景色。

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富士山がちょっと顔を出している。もっと見えないかな〜。

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よし、展望台の後ろの丘に登って…

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おぉ、富士山がはっきり見える!周りの景色も緑豊かでステキ…
でも、今回は富士山を見に来たのではありません。

加賀原遺跡

丘を下ると看板がありました。

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この公園を含む一帯で、縄文中期前半の集落跡が見つかったそうです。

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加賀原(かがっぱら)遺跡は、鶴見川と早渕川に挟まれた丘陵に営まれた、縄文時代中期から後期の集落群の1つ。発掘調査では、縄文時代早期の落とし穴7基、中期の竪穴住居17軒、土坑(貯蔵穴)9基、集石1基、焼土1基、柱穴群1箇所などの遺構が発見されました。

特に注目すべき点は、遺跡の中央で発見された、小規模な住居内貝層をもつ長径10m・短径5m超の特異的な楕円形大型住居。縄文時代の自治会館とか集会所なんでしょうかね?興味深いです。

勝坂式土器や加曽利E式土器などが出土。また、埋没谷には、勝坂期末期の大量の土器が投棄されていたとのこと。

その他、石斧、石鏃などの石器も発見されています。

【ご参考】

港北の縄文集落を探るー横浜北部に展開した縄文中期の環状集落と社会 
埋蔵文化財センター https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/903382.pdf

埋蔵文化財整備事業(埋蔵文化財センター)
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb05/seet01.html

埋文よこはま14「港北ニュータウン遺跡群のかたるもの」
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/MAIY_14L.pdf

らくがく縄文館ー縄文土器のマナビを考えるー
(千葉県教育振興財団)pdf 36ページ
http://www.echiba.org/pdf/hoka/2021_koukaijigyou_zuroku.pdf


加賀原遺跡の立地

現在はニュータウン開発で、広く緩やかな丘陵状に地形が変わっていますが、

標高は60m。低地との比高は50mほどです。

昔はどのような場所だったのでしょう。

昭和期の写真では、田畑が谷戸にも傾斜地にも作られています

遺跡は丘陵の尾根筋に存在し、昔は南西側に広い谷戸があったようです。

もし縄文不動産があったなら、このような広告があったのでは。

・尾根伝いに多摩丘陵を移動できる便利な交通アクセス性
・谷戸からの安心で美味しい水を供給
・緩やかな傾斜地は落とし穴猟に最適
・鶴見川(湾)からは豊富で新鮮な魚介類を取り放題
・街の中央には大きな集会所を完備(パリピも大満足)
・誰にも遮られることなく、美しい富士山を独り占め

これこそ、縄文人が求めていた生活
JOMON・ヒルサイド&マウンテン・ビュー

今までで(鶴見川水系で)最高のロケーションかも…。

月出松公園内は、未発掘の状態で昔のままの地形が保存されています。


月出松遺跡

公園の南側にも縄文中期後半の遺跡があったようで、こちらは月出松遺跡と呼ばれています。加賀原遺跡より後に形成された集落のようです。

集合体恐怖症の人はアカンやつだ…

住居址の重複が多いのは、絶えずリフォームしていたということ?

図書館で借りた「発見!巨大集落」より

港北ニュータウンの縄文遺跡分布

港北の縄文集落を探るー横浜北部に展開した縄文中期の環状集落と社会 埋蔵文化財センター 

他にも、北に三の丸遺跡・二ノ丸遺跡・寅ヶ谷東(とらがやとひがし)遺跡、南に佐江戸8遺跡、東に池辺9遺跡が同じ丘陵上に見つかっています。

地下鉄や高速の近くに縄文遺跡が多い…ということは「開発計画→事前発掘調査→遺跡発見→埋め戻して開発」の結果なのかな。この地域はちょっと掘ったら、集落跡や土器がザクザクなのだろう。


縄文住居の謎

なんで、住居の柱穴を何度も掘り直すのだろう?

前の柱穴がボコボコしていたら住み難そうだし、
古い穴を埋め戻して新しい穴や溝を掘るのは面倒だ。
なぜ、同じ場所で、柱や屋根だけ新しく替えないのだろう?

疑問を感じて検索を続けていたら、素晴らしい記事に出会いました。

住まいづくりの「SuMiKa」が発行するマガジンで、長野県諏訪郡の井戸尻考古館の学芸員・小松隆史さんが、竪穴住居と縄文人の生活や社会、その生き方について話しています。

少し長いのですが、小松さんの話を部分的に引用しました。

縄文人と住居

(縄文時代の竪穴住居は)保温性のある土葺き、通気性のいい茅葺きなど気候条件による変化はありますが、共通しているのは地面を掘っている、つまり半地下であることですね。

竪穴住居の耐用年数は、20年ほどです。彼らは農耕をしていたのですが、おそらく焼き畑のようなことをして、転々と住まいを移し、そして地力が回復する頃にまた戻ってくる。
ただ、住まいに限らず、縄文人には、恒久的な住まいをつくろうという発想はないでしょうね。彼らは、命がついえたらまた復活する、やや行き過ぎると、命が終わらなければ新しいものは生まれないという考え方を持っているんです。

縄文人の社会

10畳ほどの広さの竪穴住居には、3〜5人が生活していたとされています。ただし、ひと家族が3〜5人というわけではなく、集落は「男性の家」「女性の家」「若者の家」の3軒で構成されていたのが特徴です。
子どもは女性の家で育てられますが、男の子はやがて狩猟を覚えるために男性の家に出入りするようになる。自我が成長するにしたがって、外へ出てはまた帰ってくる、大人と子どもの境界をさまよっているような存在です。居心地のいい“どちらでもない”期間と場所がある。そこで性教育も含めて、生きる術を学んでいたのでしょうね。

縄文人と水

明らかに沢を意識した場所に集落がありますね。また、標高900m前後に遺跡が集中しているのですが、それは八ヶ岳の伏流水が湧き出ている標高なんです。川が近くにあれば上流でも下流でも「水」は確保できるのに、あえて冬は寒いとも思える、標高900mの伏流水が湧き出る場所を選ぶ。そこには、縄文人の水に対する何かしらの信仰があったのでしょうね。

火を絶やさない訳

日本は湿潤な気候なので、湿度が高いですよね。季節に限らず、住居内で火を焚き続けることで、湿度を下げていました。冬は、火を焚き続けていることで熱が逃げにくくなると思います。
竪穴住居の頂部には、排煙や換気のための「換気口」がありますが、常に住居のなかを煙でいぶすことは、食料の保存だけでなく、竪穴住居を構成する柱などの防虫、防腐対策にもなります。これらのことからも、火を絶やさないことが重要だったことがうかがえます。

縄文人と火

火が持っている力のひとつは、便利、快適、安心。熱として利用する、あるいは野生動物や「まがまがしきもの」が寄ってこないなど、現実的な便利さがある点です。
もうひとつは、神話的な領域なんです。神話の世界において、火というのは生と死の境にあるものです。命を奪う火、同時に新しい命を生み出す火。すべてがそこから収斂(しゅうれん)したり拡散したりする、その核になるのが火です。家のなかに囲炉裏を置くのは、湿気をとるために必要だったのではなく、火がそこにあるということが重要で、それは絶対的なものなんです。だから絶やすこともありませんでした。

縄文人と土

発掘される土器や石器から縄文人の哲学を突き詰めて考えると、温度が一定な、つまり恒温な環境を手に入れるために地面を掘っていたのではなく、どうも地中に潜るという感覚が重要だったのではないかと。
あらゆる生命が生み出される、根源である大地を「母なる大地」といいますが、縄文人は住居を母の胎内、母体に見立てたんです。地面に潜り込んで、そこから出てくることで、生まれる、あるいは生まれ変わるという行為を体現する。住居は単なる寝起きをする場所という感覚ではなくて、一日一日が生まれ変わる場所であるという感覚で朝を迎えていたんじゃないかと思います。

いろいろと共感する部分がありました。

鶴見川流域でも、高台に存在する遺跡の多くが谷戸の湧水を使用しています。川の水よりも清澄で安全だと知ってたのでしょう。
もしかしたら、誰か使ったかも知れない川の水よりも、初めて人の手に触れる湧水に神聖さを感じたのかも知れません。

他にも、土を母胎と考える思考は、甕棺墓や埋甕にも繋がっているように思います。土に戻って、いつの日にか再生する願いが込められています。

竪穴住居内から外を見たところ

土の中に住み、土で作った器で煮炊きをし、土から生まれ育った命を食べて、土の中で眠る。「土と共に生きる=土を掘る」という感覚を縄文人は大事にしていたのですね。

竪穴住居の耐用年数は20年、だいたい人が生まれて大人になるまでの期間。
そして、縄文時代は1万年超、中期だけでも1千年、単純計算で50回のターンオーバー。道理で、遺跡がボコボコの穴だらけになる訳だ。

日本旧石器学会HPより(工藤、2009)


縄文人は、効率とか労力の多少を基準に生きている訳ではない。
古いものが終わった時には古いものを壊し、一から新しく作ることで新しい生活を始める。それが絶え間なく繰り返されることで、次の世代に技術を確実に伝えていったのだろう。


縄文人は悠然として、おっきいな。
そして、つくづく、みみっちいな。自分…


ここは広々としていて、素敵な公園です。

反対側の出口からは、地域の公園を結ぶ緑の回廊ゆうばえの道

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あ、ここからもあの煙突が…

川和富士公園に繋がっています。


次は、朝光寺原遺跡を巡ります。


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ついでに、著名な考古学者、設楽博己先生の面白い記事を置いておきます。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。