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*荘とすみえ 第1巻*【わたしにとって荘とは】

2021年9月。荘ってなんだろね。が発着点

(この題名を書き...執筆している現在は2021年の12月。
3か月間眠っておりました。)

結論から申し上げると...

荘は…わたしにとって
「小さな社会」であり「家」である。
そして、自分の居場所を創り出す空間でもある。


これが現段階の結論です。

今日のすみえこのリクエスト曲は...

Ai iwasaki で「 Twilight 」です。

流しながら、お読みください。


Ⅰ「小さな社会」

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「小さな社会」とは...。


端的に言うと、自分以外の他者との関わりがある空間・場・時間であるということです。

1つ2つ、3つの屋根の下で生活していて関わる荘民(荘に住む人)と面白がって荘に訪ねてくる人、一緒に何かできないかと関わる人との関わりので見えてきてしまうのです。

必然と...

自分の弱みも強みも、自分とのおあいこの部分もすべて


他者と交わす言葉・瞳の中に明瞭に映し出されているなと。

相手に伝えたいことは、自分にも伝えたいこと。
相手の嫌なところは、自分の嫌な所や自分の嫌だった過去。


他者との関わり方、言葉の使い方、距離の取り方、それと同時に自分のご機嫌の取り方を手探りで見つけていく。

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つまり私にとって「荘」は自己の社会化(下記参照)を促す場でもあり、促されざるを得ない場なのではないかな、と。(正直、なにかでたまたま「社会化」という言葉と出会い...使ってみたかっただけです。)


社会化とは...『新社会学事典』より
個人が他者との相互作用のなかで、ひとが生活する社会、あるいは将来生活しようとする社会に、適切に参加することが可能となるような価値や知識や技術や行動などを習得する過程」

私的な解釈をすれば...
他者と関わることで、自分の得意・不得意を見つけ、社会生活の中で自分の価値を見出していく過程

となります。


小さい社会の対義語、大きい社会とはどんなものなのかはわからない。そんなものないかもしれないと書きながら、お決まりの迷走ゾーーン。個々人によって見える・創り出す社会(:世界)は違うから大小というふたつの言葉で収めるのはなんだかもったいない。何を体験して、誰に会い~そして何を感じ何を言葉にし、それからどう行動にしたかは個々人違って当たり前だからである。そう考えると大きな世界なんてものは無くて、マトリョーシカみたいに年を取るたびに徐々に世界が大きくなっていくのかな。

なんて。(妄想が始まりました。笑)

私にとって、人生100マトリョーシカとすれば18マトリョーシカ分ほどの地小さな社会が「荘」という場所で生成された。

気がする...

ちょっだけ中くらいのマトリョーシカ寄りの小さな社会マトリョーシカになった 気 がするという具合。そう表すとわかりやすいですかね。。。💧
わかりずらいですね…

つまり、荘という場・空間・時間が 私にとっての社会をぐんっと広げてくれたわけです。

きっと、この地球に生きている78億7500万人(世界人口白書2021 参照)、それぞれがそれぞれの社会の中で生きていて、そのすべてに触れることはできないけれども...。人と関わることで、少しでも多くの他者、他者の織り成す社会に触れることが出来るのであろうな。と

余談:世界の人口は前年に比べて8000万人増加しているんですね。

人間...たくさんいますね。


Ⅱ「家」

わらじ荘がイベント開催の際には、70~80名の方が居間や庭に集う時もあれば、荘民が数名集まり居間やキッチンの食卓を囲むときもある。

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一方で、住人が外泊していてひとりであの広い広い9DKのわらじ荘の静けさに包まれる日もある。

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その二つの顔を見ていても変わらない事実



それは...私にとってわらじ荘は帰る「家」であるということ。

さらに、古民家であることが私にとって目の保養であり、心の栄養であるということ。障子や襖、太い梁や細かい小細工がなされた硝子、少々気泡の入った透き通ったガラス等々…。
美しいという言葉では納められない情景が広がる家であることがその「家」の価値を壮大に向上させているのは確かである。

「家」を主張した理由として実は...もう一つ隠し持っています。
それは、わらじ荘の家の中ではなく、わらじ荘の外にベクトルが向いた活動と同等のエネルギーで家としての機能が荘にはあるということです。

「わらじ荘の外にベクトルが向いた活動」は...新聞やテレビ等のメディアで「地域で活動・地域活性化・学生主体・まちづくり」とやら...やや抽象的すぎる(私がそう感じているだけです。)言葉で世に発信されます。宣伝・広報にもなりとてもとても有難い反面、それらの言葉で荘の虚像が映し出される怖さも感じました。

というのも..

その活動の基盤を支えているのは、「荘」という家の中での日々の生活、つまり「日常」があるからこそ生まれてきたことだからです。

つまり、ハレとケがあるということです。

そう、そうなので、わらじ荘って活動が盛んなところだよね。なんかやっているところだよね。という見え方に心が疲弊してしまった時期もありました。何かしなければならない。何かしなければ...。自分には何が出来るのであろう...。なんて思った時期もありましたね。(懐かしい…。西部地区で空き家を探していた時期もありましたね。なつかしいいい…今ではほほえましい悩みに感じますね。)


そして
わたしにとって荘は「家」であると同時に「居場所」でもあるということ
Ⅲにて詳しくお話ししたいと思います。

Ⅲ「自分で自分の居場所を創り出す場」

という表現が良いでしょうか。

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居場所とは...(コトバンクより)
①人などが住んでいるところ。居どころ。
②人が、世間、社会の中で落ち着くべき場所。安心していられる場所。

その他にも、その人が心を休めたり、活躍したりできる環境。という意味も拝読。

①の意味ももちろんありますが、どちらかというと②の意味合いの方が荘には色濃く出ているのかなと私的に感じています。

しかし、荘という家において自分の居場所となるか否かは...

一緒に住んでいる人との関係性次第なのかな。と...も書きながら思いました。

冒頭の小さな社会 のお話でもしましたが。人との関わり方を模索しても模索して...自分にとって、相手にとって...「お互いが心地よい地点に自分をもって来ること」が一番の課題であり、大切な過程であると感じました。


それは、荘の中だけでの話でなくて、家族、職場、何かのコミュニティ、どこに居ても何をしていても大切になる過程だと感じました。

居場所を見つけようとするのではなくて

自分で、そこを居場所にしていく。

今の自分の局面と会わないと感じれば、
無理だと感じれば、

逃げればよい。


荘においては...

水たまりを踏んずけて水面を揺らして歪ませて、自分の嫌な部分を隠したりしようとしても無駄であった。

ただ苦しくなるだけ。

なぜって?生活をしているから、「生」を全うする場であるから。生活を営むという人間の最低限の営みの場であるから自分の弱みを隠して、自分の理想像という仮面をつけて着飾ることなんてしてられないんです。しようとしても苦しくて苦しくて堪らなくなり仮面をぶん投げる自分がいるんですよねー。(傍観目線...笑)

​Ⅳ【総括】


荘とは...

「小さな社会」

「家であること」

「居場所を創り出す場」

という3つにまとまりました。


結局は...

「荘」にて他者と共に暮らすという事は...

自分以外の他者との関わりから自分を理解しようとする営み。

それに、食べる、寝る、体を洗う、休む、勉強をする。という人間を人間たらしめる営みをする場所。そして荘民同士のそれらが垣間見える家なのであろう。


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【最後に意気込み】

「荘とすみえ」

思い付きで始めました。思い付きです。いつも思い付きです。私の気分の波が比較的高調子の時に書いていると思われます。

 

ですが…確信があります。


「荘」での日々は確かに私をわたしにしてくれ。

「荘」での日々は、今の私にとってとても大切な時間だったということ。

そして、来春に荘を出てからも荘での日々で感じたことが頭にこびりついているので(いい意味でこびり付いています。)私の行動の基盤の一部になりうるでしょう。

という確信です。

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それを記さず、残さず、伝えずに函館を出られるだろうか。

と自問した結果、今机に座っています。
寒いので足元に発泡スチロールの中に入れた湯たんぽの上に足を乗っけています。

もう少し寒くなったら、この机をこたつ風にしたいと思っています。
段ボールと布とプチプチで囲って、、、湯たんぽを置いて。

嗚呼...完璧に妄想が出来上がりました。

脱線しました。

少しづつ...自分の言葉にしていきます。
拙い日本語ですが…いつかどこかの誰かの心に響けばいいなくらいの気持ちです。もしかしたらその届く先は、自分かもしれない。とも思いました。


それでは、また。



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