数字を追わない時間の開放感たるものよ
なんとなくの日記。
今日は、ほぼ定時ダッシュしてスーパーに寄りおうちに帰りました。
なんかすっきりしたい。なんかもやつくときは食べがちだから、できるだけ外を走るか歩くかするように心がけよう!としているところ。
走ることのストレス発散効果は絶大と、どこかの文章で読んだ記憶がある...。
証券会社で働き、数字に追われるストレスを発散するために、走って、ストレス以上の刺激を体に与えることで快感を得られる的な内容だった気がする...。
いつもNIKEのランニングアプリを使い、何キロを何プンで何処を走ったか”記録”していたけれども、今日からそれを使うのをやめた。
数字に執着しちゃうから。
走った距離、速度、高低差。
それらは正直どうでもよかった。
ただ、走ったり歩いたりしながら
ぼんやりと何かを考えたり
仮説を立てたり
誰かさんのリビングを眺めたり
知らない極小の小道を抜けたり
することが心を満たしていくことに気が付いた。
”数字”
があるから、事実をほかの対象と比較できる、時間・重さを測れる、
その一方で
”数字”
があるから、比較して上下の差を目視出来たり、時間が過ぎ去ることを目視する。
事実として捉えられ、明確な成否(試験など)がわかる反面、ほかの事象と比較したり、時間や数字の目標に追われる感覚にもなる気がする。
もしこの世から、数字が無かったら
すごく穏やかな”気”がする。
とも思いたいけれども、
また違う、尺度が現れているんだろうな。
...
あ、23:36
もう寝る時間だ。
おやすみなさい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?