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あの時とは違う。#52ヘルツのクジラたち

こんにちは。菜紡です。

映画化されると聞いて、絶対にスクリーンで観ると決めていた作品「52ヘルツのクジラたち」

本日、母と観に行ってきました。



あらすじなどは公式HPをご参照ください。






巡り合わせと繰り返し



この作品を通して、私が一番感じたことは、

"その"サイクルの中にいる限り、同じことを繰り返している、ということ。


貴瑚は愛(いとし)に対して、安吾からかけられた言葉、行動を同じようにしていく。

それは、安吾にできなかったことを贖罪として、愛にしているとも言える。


同時に、貴瑚は母親からされて嫌だったことをされている人(愛)を守ろうと、同じサイクルの中で生きていることになる。


この社会には現実、幸せに”感じている”人と、幸せではないと”感じている”人がいる。


それは、自分で選んでいるのだと思う。


突き放した言葉に聞こえるかもしれない。


でも、貴瑚は主税に「守られる」という立ち位置を望み、
主税は貴瑚を「守る」という立ち位置を望んだ。


貴瑚の母親、由紀も、主税も、琴美も、誰かを心の捌け口にしないと立っていられなかった。


一人では立っていない。
自立していないのだ。



自分のことを大切にしていないから、相手を大切にできない。
自分の気持ちがわからないから、相手の気持ちがわからない。

名誉や地位で自分の心が見えないから、名誉や地位にしがみつく。



それが育ってきた環境に影響されているのか、突発的な出来事だったのか、意図しなくても起きてしまっている。




原作読了時の私といま



原作発売当初に一度読んだ。
その時は、描写や言葉がいちいち刺さって、憤りとか虚しさとかで心がいっぱいになって悲しくなった。


当時は学生で、自分の「正義」を振り翳していたな、と思う。
虐待とか毒親とか性的マイノリティとかそんな括りなんてなくなればいいと思っていたし、苦しむ人が減ればいい、と思っていた。


今も勿論、心穏やかに過ごせる人が増えたらいい、と思っている。


でもそれは、自分が「助けたい」ではない。
「助けたい」では「助けられる」人をまた作り出してしまう気がする。


そうではなくて、ただ今よりもっと心豊かな人が増えたらいいな、と思う。



安さんは言葉を選ぶ人だと思うし、その言葉は自分が受けた言葉をどう受け取ったか、に関わっている。


一見すると心を刺す言葉でも、その人の背景と発した理由はわからない。


言葉をどう受け取るかは自分次第だ。

受け取り方を選ぶ余裕のある自分でありたい。
言葉の背景を慮れる人でありたい。


相手の言葉に左右されない人でありたい。



この意味では、安さんは言葉に左右されて、自分で立てない状況だった。
死を自ら選ぶほどに。



こんなヒューマンストーリーに惹かれる私と、惹かれない母



私は、「少年の君」「遠いところ」「八日目の蝉」「流浪の月」といった感じの(こういう作品たちなんていうんだろう…)作品が好きです。


少し前まで(学生時代)は、登場人物たちに共感して自分の心がつらくなることが多くありましたが、今は客観的に自分の想像の幅を広げるために、知るために見ている感じ。


きっと今届いてほしい人がいるから、そんな映画が多いように思う。


でも母的には、自分の周囲の状況とはかけ離れすぎていて、観る気があまりしない、とのこと。



なるほど。
でも、私は知りたい、と思う。

ファンタジーな世界ではなくて、現実を。




他人の感想と杉咲花さんの言葉



自分の感じたことを言語化するためのヒントが欲しいと思って、YouTube探したのですが…正直ヒントになるものは少なく。



勿論、それぞれの立場見方で印象に残ることは違うし、どの意見も否定することはありません。



ですが、「想像する」「思いを馳せる」ことはもっとできるはず。
何より、想像して自分とは違う人の気持ちや行動を少しでも理解できる人になる、というのが芸術作品の魅力などではと思うのです。



役者さんの演技、監督の采配、スクリーンの情景と構成。
そんなものに1つ1つ口を出していて、ストーリーの何が心に残るのだろう、かと思ってしまいました。

少し乱れましたが、今日の本音をここに置いておきます。




映画館で隣に座っていた60代前後の女性2人組は終わった後、「途中は辛くて見ていられない感じだったけど、最後はよかったわ」といった内容を話していた。

私には要約して「ハッピーエンドでよかった」と聞こえた。


この後この人たちが、自分の日常話に花を咲かせるだけではなく、映画の登場人物の境遇も想う話ができていたらいいな、なんて思います。



YouTubeで構成の違和感さ、現実でのあり得なさを指摘している人がいました。
役者の演技に難癖を付ける人がいました。



作品自体としてはそんな議論も必要でしょう。
でも、この作品が伝えたかったメッセージはその人たちに届いたのでしょうか。


あなたは、この社会に実際に起きている事象として、少しでも自分事として考えましたか?


私は、暴力を振るわれたことも、誰かを本気で愛して見捨てられたこともない。

でも、言葉で傷つけられたことはある。
うまく話せないからと傷つけられる人を見たことがある。
自分を押し殺して、嘘に嘘を重ねている人を見たことがある。


あなたの周りにも52ヘルツのクジラはいるかもしれない。





初日の舞台挨拶の杉咲花さんの言葉が印象的だったので引用します。



「(前略)ただ私はこの作品が時代の中で乗り越えられていく作品になってほしいと思っていて、将来この作品を見返した時に、まだこういう悲劇が描かれていた時代があったのかと人々に思われてほしくて、そのためにこの作品が作られたのではないかと信じています。人の痛みを全て分かることは多分できなくて、でも分からないっていうことは無力ではないと思うんです。分からないからその人のことを知りたいと思えるし、優しくしようって思えるんじゃないかなって私は思っていて。共感できなくても隣にいるし、大切なものを分けあえたりできる。だからこそ、どうか諦めないで人と関わろうとしてほしいっていうこの作品に含まれているメッセージを私は大切に受け止めたいと思っていますし、責任を持って皆様に今日は届けにきました。劇場を出た後に、皆さんにとってほんの一瞬でも光を感じられるような作品になっていたら嬉しいです。今日は観に来てくださってありがとうございます」



今、孤独な人、絶望している人、諦めてしまっている人、そんな人に届けたいメッセージであると同時に、
これからも残り続ける「作品」というものに意味付けしているのが素敵だなと思いました。



今は映画のような現実がある。
でもそれは未来にはない。

そんな情景が浮かんできた。



過去も未来も歴史も感じられないけど、今起きていることは感じられる。
あなたが感じようと思えば触れられる距離にたくさんの思いが溢れている。

感じてほしい、考えてほしい(丁寧に生きるを意識して全てのことに対して)
そう思った映画鑑賞後。


もっと多くの人に届いて見て欲しい作品ですが、同時に考える時間と余裕がある人に観てほしいな、と。

結局は、必要な人が観ることになるのでしょうが。



新しい視点と感情の機微に感謝して。




翌日追記。

感情的にならないのは、この現実をどこかで受け入れていて、客観的に見ているからなのかもしれない。

自分に関係ない話だとは思っていない。
この社会で起きていること。

感情的になって涙しても変わらない。
これからの行動と対策を考えていかないと。

でもきっと人にはその人の心と身体のキャパシティがあるから、
考えられなくなる人もいるのだろう。

ただ涙を流して、感情が揺れ動くだけでもいいのだろう。


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