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春の訪れと森の声

木を見て森を見ずとはよく言ったものだ。
人の目は近くの物を凝視してしまう傾向があり、広く見ることが得意ではなさそうだ。
想像だがこれは大昔狩猟を生業としていた頃の名残なのではないだらうか。
近くの標的に集中しなければ当然返り打ちに遭ってしまう。
ある程度の歳ならば一度は見たことがある豹柄ワンストラップの顔が単純な一家が槍を持ってマンモスを追いかける、あの様子を思い浮かべてほしい。
マンモスは大きく、鼻が長く、そして毛深い。
びっくりするほど毛深い。
あれだけ毛が長ければ毛布を被っているかのように暖かいだろう。
あの毛がどんどん薄くなって今日の象になったのだろうか。
考えてみてほしい。
あの毛は段々と薄くなっていったのだろう。
じわじわと抜け毛が増える時マンモスは一体どんな気持ちだったのか。
「えっどうして!?抜け毛がこんなに…」
大層青ざめたことだろう。
なくても困らないから抜けたのだけれど、
変化というものはいつも多かれ少なかれ衝撃を与える。
地球上に現存する生命体は幾度もその衝撃を乗り越えてきた。
我々は変化し、さらに変化を続けている。
この変化は環境に適応するために我々生命体に備わった、あくなき挑戦の魂である。
よくよく考えてみてほしい。
その時、抜け毛が増えたマンモスの気持ちを。
ちょっとなんかアンニュイな気分になれる。

さて話が大分逸れたので戻そう。
木を見れば杉だと思え。
これは高度成長期辺りから親の仇かのように森林を伐採し、
禿山となった山々に「早い!安い!美味い!」の精神でとりあえず植えた木が杉だったような事実を踏まえ、私が今思いつきで言った言葉だ。
花粉症の被害者は一気に増大し、春の陽気は花粉の雲に覆われて一面地獄と化した。
花粉症被害者は呪っただろう。杉を。
あの悪しき木を一片も残さず塵と化してやろうと。
そして数多くの勇者たちが海の藻屑とスコッティと共に散っていったのだ。
更にはこの杉の文字の簡素で書きやすいような、なのに書いてみると意外とそうでもないような形。
それがまたスッと日常に溶け込むようでいやらしい。
ミを裏返したあいつがバッサバッサと花粉を撒き散らしている枝を彷彿とさせる。
しかしこれは古来から伝わる「木に葉っぱが生えている」という安直な成り立ちかもしれないしそうではないかもしれない。
折角植えるならば、ガジュマルの木でも植えて置けば幸せのジンクスでみんなが幸せ気分になれたかもしれないのに。
ガジュマルのみが群生する森を思い浮かべて見ていただきたい。
いっぱい居るとちょっとなんか、うん…

つまりはそういうことだ。


◯最後まで読んだ貴方はとっても真面目!
義理堅く誠実な態度が相手に好感を与えます!
相手のよくよく聞くと中身のない話に時間を取られて困ってしまうこともチラホラ。
そんな時は一息ついてコーヒーでも飲みながらゆったりリラックスしてね!

ラッキーカラーは緑🟢

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