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AIの絵と人が描いた絵のこと

この話はよく話題になっていますね。
AIが絵を描くことに関しての賛否。
絵を描くつむとしては割とAI絵肯定派です。

理由は単純な物で、「見たことないけどよくわからんからとりま誰かお手本描いてみてくれないかなー」というのが満たされるからです。

AI絵のためにイラストレーターの仕事は激減する、なんて言われていますけど、
そう売れているわけでもないものの20年以上イラストレーターとして仕事をしてきている叔母の仕事は元々そんなにありません。

AIにより町のイラスト屋さんみたいなのは無くなる、と言われたりもしますけど、
ぶっちゃけそんな仕事すらそうそうないんです。
叔母がそんな仕事を受けているという話を聞いたのは2回くらいですかね?
実際ちょっと絵が描ける自社の社員にちろっと描いてもらった方が安上がりですからね。

で、そんな叔母が絵を生業としてどこで稼ぐかと言ったら個展やグループ展です。
作品を作り売るわけです。

結構色んな作品があるものなんですよ。
ミニ絵本、円柱形の木材に描いた小物のような絵、石の中に世界があるように描いた絵などなど。
普通のキャンバスに描かれたものもいいのだけれど、
雑貨のような作品はとても個性豊かでふくよかな魅力があります。
AIにはできない、印刷ではなかなか出ない味わいは人の手ならではですね。

つむもデジタルで描きますけど、
デジタル絵は既に確立された文化ではあるものの、
やはり平面のみを対象にしています。
もちろん平面を対象とすることもクリエイティブな活動ですし、綺麗なのですが、
絵の『生活を彩る』という側面はどうしても手ずからアナログで描けなければ表現できないのです。

絵の具の仄かにポコポコとした凹凸や混ざり合う境界の味。
それはまだまだ印刷でできる物ではなく、熟練された技術やセンスによってそれらも織り込まれるという楽しさや美しさ。
生きた絵というのは躍動感があります。

『AIの絵は絵が描けない人でも簡単に描けるのが腹立つ』なんて話も何かで見ましたが、
つむはそれは問題ないと思うのですよね。

そもそも絵を描くことの目的が違うのかもしれないのですけど、
つむは絵を描く時は愛おしみ撫でる感覚を表現したいが為に描きます。
絵を描く技術を上げるのは、やがて失われるだろう愛おしいものの愛おしい所をいつだって表現できるようになるためというか。

息子のぷにぷにほっぺも小さいお鼻も、猫のふわふわお腹やペノペノした耳、
夫の広い額や高い鼻にちょっと薄くなってきた頭頂部もやがては完全に失われるのです。
特に夫の頭頂部は割と気配が見え…いやいや、
まぁそんな感じなので今のうちによく触って感触を覚えておけば、
写真よりもその感覚を表現できるというわけです。

なので、つむはおそらく芸術やアートとして絵を見てはいないのでしょう。
生活の中に心を添えるツールとして、
声があり肌触りがある愛着のあるモノとしての絵はプライスレスだと思っています。

叔母は長らく心臓が悪い割に手術には耐えられるし良く食べる大きな灰色の柄の猫を飼っていました。
叔母の絵からは猫の毛や肉の柔らかさ、息づかい、その神経質で甘えん坊な性格が滲み出すのです。
叔母の愛の記憶ですね。

均整の取れた絵もいいのですけど、
そういった心を映す絵というものはAIでは表現出来ないのだから、
互いに適材適所で共存していくのだろうなーとつむは思っています。

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