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存在と、仮面の存在の倫理学❶

イロニーと存在

イロニーとは、その本来持っている姿を屈折させて、言葉に虚偽の仮面を被らせる表現方法のことだ。そうすることで、存在は言葉を媒介にすることができ、そのことによって存在を露出させていく。露出させていく存在とは、まるで自分のリリースパーティーを開催するアーティストのようなもの。ステージアップした自分を見せることで、自分そのものを、虚偽の仮面によって、その言葉によって乖離させていきながら、自分を見せていくのだ。
どうしてそんなことをするかといえば、存在は何者かになろうとするとき、つまり認識される対象になろうとするとき、存在そのものじゃなくなるからだ。ドイツの哲学者ハイデガーは、現象を2つの相に分けた。一般的な用語を使うと、存在と存在者(認識される対象)だ。だが、前者は存在と表現されている。つまり存在とは、認識されるときには存在そのものであることができない。抹消された存在…つまり虚偽の存在の存在を必要とするということだ。私は、この虚偽の存在の存在を、イロニーと捉えている。
それはまるで、自分の存在を見せるために、何者かとして認識されるために、虚偽の仮面を被って、屈折した自分を表現することと似ているから。

結びに

今日のお話はここまで。今日は、存在が存在であるためには、イロニーである虚偽の仮面が必要であることを確認したの。ところで、仮面には2つの性質があるのは知ってる?一つめの性質は、仮面の裏側には剥き出しの顔が潜んでいるということ。そうして、もうひとつは、仮面にも色々なデザインがあるということ。自分の剥き出しの顔を、覆い隠すような仮面に、自分の顔の一部が浮き出るような仮面。そして、剥き出しの顔を一枚薄いガラスだけで隔てただけの、ガラスの仮面。このような2つの性質は、実は存在を宙に浮かせるような、多義性を生んでいる理由になると私は思うの。次回以降のお話は、これが重要な論点になるから、覚えておいてほしいな。

最後までありがとうございました。


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